杉本苑子 絵島疑獄(上) 目 次  山焼け  亀の甲府  太閤江戸へくだる  花冷え  正徳の治  柔と剛  舟あそび  山焼け     一  奥山|百合《ゆり》は、自分の名に愛着を持っていた。養母の絵島《えじま》がつけてくれた名前だからである。  草花としての百合は、さして好きではない。匂いが強すぎる。甘ったるく、人に媚《こ》びるような感じがいやだった。 「そこがいかん。お前のそういう素気《そつけ》ない、女の子らしからぬところがな」  当時まだ、ほんの小娘だった百合を、父の奥山|喜内《きない》は時おり説教口調でたしなめたものだ。  甘い濃密な香りに、特色があり魅力もあるのが百合の花ではないか。たとえば大輪の山百合などが二、三本、ほの暗い床の間に活けてあるとする。なんの気もなく部屋に踏みこんだ刹那《せつな》、花の姿に目をとめるより先に、嗅覚《きゆうかく》を刺激する官能的な快感……。 「化粧の料の残り香か? それとも今の今まで、ここにあえかな女人でもおったのではないか。——そんな妄想さえ抱かされる香りの悩ましさこそが、百合の花の身上《しんじよう》なのに、それを嫌うようではどうもならん」  というのが、説教の内容である。いかにも女好き、遊び好きな喜内らしい言葉だが、 (甘い香りだけが良い匂いとはかぎらないわ。花にはもっとさわやかな、ゆかしい匂いのものだってたくさんあるのに……)  反撥を、むすッとふくれ面《つら》に漲《みなぎ》らす百合は、なるほど父が懸念する通り、世間並みな可愛らしさにはいささか欠ける女の子かもしれなかった。  まして継母の口にかかれば、 「陰気で強情で無愛想で……何を考えているのかわからない小憎らしい子」  と、いうことになる。  武家の妻女らしく兼世《かねよ》という名で呼ばれてはいるが、継母はもと、お兼といい、吉原の引手茶屋の女中だった。そこで後添えに迎えるさい、喜内は配下の徒士《かち》の一人にたのみこみ、名目だけその者の姉ということにしてもらって兼世を役宅へ入れたのである。  水商売の出にしては、しかし兼世はよく、侍の家のくらしに順応し、やがて千之介《せんのすけ》という男の子を生んだ。百合には腹ちがいの弟にあたる。  この子が這《は》い歩きしはじめたころ、不幸が襲った。神社の回廊から転落し、足を折ったのだ。兼世に言いつけられて子守りをしていたのは、ようやくそのとき、数え年で六ツになったばかりの百合であった。それまでは格別むつまじくも、不仲でもなかった継母と継子《ままこ》の間柄がいきなり険悪になったのは、千之介の身に災厄が起こってからである。  下手《へた》な接骨医にかかったため千之介の右足は変形し、ものに縋《すが》らなければ歩行できなくなった。ひと足ごとにガクンと身体が一方にかしぐ。腰がよじれる。曳きずるように右脚を前へ出す姿がいかにも痛々しい。 「子守りを嫌って、わざと弟を突き落としたんだろう」  兼世は逆上し、半狂乱になって百合を折檻《せつかん》したし、父親の喜内も、 「一粒種の跡取り息子を、台なしにしおった」  口ぎたなく罵《ののし》った。  百合は泣きじゃくるばかりだった。親たちに何を言われるより先に、彼女自身、千之介への慚愧《ざんき》に幼い胸を刳《えぐ》られていたのだ。  ほんのわずかな油断であった。兼世が口にしたような悪意など、みじんもない。片コトを喋《しやべ》りはじめた弟が、百合はいとしくてならなかったし、子守りという仕事をけっして忌避してもいなかった。  奥山喜内は水戸家の御徒士頭《おかちがしら》を勤めている。役宅は小石川の水戸邸内にあり、お築地《ついじ》とは背中合せの近さに、牛天神《うしてんじん》の森が涼しい木蔭をつくっていた。静かな境内で、百合は千之介を遊ばせ、自分も団栗《どんぐり》集めに夢中になった。樫《かし》の大木があり、ままごとの材料になる団栗がいくらでも拾える。赤トンボも群れをなして飛んでい、千之介はしきりにほしがったが、つねづね父の喜内から、 「蝉《せみ》トンボのたぐいを捕ってはならんぞ」  固く言い含められているので、これには手を出さない。生類《しようるい》憐み令に抵触するのだ。  子供ごころに、それでも用心して百合は千之介を、おぶい紐《ひも》で結えた。その端を勾欄《こうらん》の柱にむすびつけ、遠くへは這って行けないようにしておいたのである。  いつ、紐がほどけたのか知らない。ふくらんだ袂《たもと》を掴《つか》んで、 「千ちゃん、ほら、団栗こんなに拾えたよ」  ふり向いた目に、伸び上って、手すりから半身を乗り出している弟の姿が映《うつ》った。 「あッ、あぶない」  走ったが、まに合わなかった。回廊から六尺ほど下の地面へ、千之介は尻もちをつく形で落ちたのであった。 「頭を打たなかったのが、せめて不幸中のさいわいだった」  喜内の兄で、小児科の医師をしている奥山|交竹《きようちく》院が、なぐさめ顔に言った。 「頭蓋の骨がかたまらぬ幼時に、頭部を強打すると、白痴同様になる恐れがある。そこまでいかずとも、ひどい頭痛や癲癇《てんかん》の発作に生涯、悩まされる例証もあるでな。ものは考えようじゃ。まだしも足で始末がよかったとせねばならん」  五体満足に生まれついた倅《せがれ》を足|萎《なえ》えにされた腹立ちは、しかし、なまなかな慰藉《いしや》ぐらいで収まるはずはなかった。千之介に不憫《ふびん》がかかればかかるほど兼世は百合に当り散らし、もう、そうなると、どこから見ても継子いじめの様相を呈した。  それでなくても口かずが少く、 「おとなしい子」  と言われていた百合が、いよいよ無口な、陰鬱な少女になったとしても無理からぬことかもしれない。  見かねたのだろう、交竹院が、 「引きとって、わしのところで育ててやろう」  助け舟を出してくれた。  百合にとって父方の伯父《おじ》に当るこの医師は、若いころから医術の腕のたしかさで知られ、現在、大城《たいじよう》の表医師を勤めている。禄高は九百石——。屋敷は神田小川町にあり、百合の住む水戸家のお役宅などより庭も間取りもはるかに広かった。  水戸家といえば、交竹院や喜内の父親——つまり百合の祖父の奥山|隠徳《いんとく》院は、これは内科|本道《ほんどう》を得意とした医師で、水戸中納言|光圀《みつくに》卿の侍医をつとめ、法印にまで任ぜられている。とうに物故したけれど、喜内はこの父の縁で水戸家に奉公し、彼なりの才腕を買われて御徒士頭にまで昇進したわけだ。  ともあれ兼世にすれば、百合の顔すら見たくない心境におちいっていたので、 「おねがいします。ね、あなた、そうしてもらってくださいよ」  二つ返事で交竹院の申し出にとびついた。 「かまいませんか兄さん、こんな小さな子供を引き受けて……」  喜内が首をかしげたのは、つい先年、連れ合いに死なれて、交竹院が男やもめの不自由さを喞《かこ》っていたからである。  ただし、亡くなった妻との間に子は生まれていない。その意味からすれば、百合は伯父の家の跡を継ぐこともできるはずだし、 「奉公人は、女中も下男も大勢おるでな、大丈夫、成人させられるよ」  と交竹院は請け合いもする。 「そうですか。それではひとつ、ご面倒でもおねがいしますかな」  こうして、異母弟に怪我をさせたその年のうちに、百合は父の住居から神田小川町の伯父の屋敷に移らされたのであった。     二  絵島にはじめて会ったのは、その翌年である。場所は交竹院邸の庭だった。 (なんて美しい人だろう)  息を呑む思いで、そっとみつめつづけた日の胸の高鳴りを、百合は忘れることができない。目を洗われる……。形容詞としてだけでなく、実際にそのような感覚があるのをはじめて知った。  このとき絵島は、池の石橋の上に佇《たたず》んでいた。奥山交竹院の屋敷は、九百石取りの富家にふさわしく数奇《すき》を凝らして建てられ、庭には築山《つきやま》、大池まで掘ってある。  菖蒲《しようぶ》の花がさかりだった。白と、濃紫《こむらさき》……。二色きりなのが、かえってすがすがしく初夏の大気を引き緊めていたが、絵島の立ち姿は百合の網膜に、まるで菖蒲の精さながら鮮烈な印象で灼きついた。  百合、八歳。絵島はこのとき、二十四歳……。紀州家の奥勤めを辞めてまもない宝永元年の、夏のさかりであった。 「おや、そこにいるお子さんは、どなた?」  と、花菖蒲に落としていた眸《め》をあげて、やがて絵島が問いかけてきた。斜め横からの熱い視線に気づいたらしい。 (返事をしなければ……)  焦りながら、舌が攣《つ》れて百合はすらすら答えられなかった。 「わかったわ。交竹院先生に診ていただきに来た患者さんね?」  ちがう、ちがいます、わたしは先生の姪《めい》の……と、咽喉《のど》まで出かかっているのに声にならない。顔ばかりほてらせて、羞《はにか》んでいる背を、 「何をもじもじしておるのじゃ」  あたたかな、大きな掌《て》で、どんと叩いた者がある。焼き杉の庭下駄を突っかけて交竹院が池のほとりまで出て来たのであった。 「この麗人は白井のお美喜《みき》さん。お前の名附け親じゃないか百合」  少女が何を言うより早く、 「あら、これが奥山喜内どのの娘御の、百合さんですか?」  当時まだ、美喜の本名で呼ばれていた絵島が、華やいだ声をあげた。  美少年じみた、きりッと小股《こまた》の切れ上った美貌だが、笑うと目許に、爽《さわ》やかな色気が滲《にじ》む。やはりどう見ても、五月《さつき》晴れの空に映《は》える花菖蒲に似た女なのであった。 「さよう。この子が弟の娘の百合でござるよ美喜さん。せっかくあなたに、きれいな名前をつけてもらいながら、ごらんの通り名は体を現さぬおヘチャでな、百合は百合でも鬼百合じゃなどと、まわりの者に笑われておりますわ」  交竹院の無遠慮なこきおろしを、 「そんなことはありません」  取りなし顔に絵島はさえぎった。 「見るからに悧発そうな、子柄《こがら》のよいお嬢ちゃんですわ。今日は伯父さまのお屋敷へ遊びにでもおいでになったのですか?」 「いや、厄介払い同様、親もとから出されましたのじゃよ」  と、口の重い姪に代って、こんども交竹院が説明した。 「ご承知の通り喜内の先の妻は、百合がまだ、よちよち歩きのころ離縁いたし、兼世という女が後添えの座に納まったのじゃが、その腹に生まれた弟を、子守りを言いつかりながら百合のやつ、ひょいと目を離した隙に牛天神社の回り縁から落として、足萎えにしてしまいましたのじゃ」 「まあ」 「兼世は怒り狂う、喜内は叱る。すっかりいじけて、痩せてまできたのでな、この家に引き取って伯父のわしが親代りに育てているのでござりますよ」 「かわいそうに……」  石橋のこちら側へ絵島は渡って来、百合の前にいきなりしゃがんで、その薄い両肩に手をかけた。 「だれにも増して、百合さん自身いちばん苦しんだはずですものね。あまり責めては酷ですわ。ね? ご自分がしでかしたあやまちを、百合さんは悔いたでしょ? 弟さんのために心を痛めたでしょ?」  こくッと少女はうなずいた。千之介の苦痛に代りたい、いっそ死んで詫びたいとまで思いつめた事故直後の激情が、みるみるまた、よみがえり、目は涙でいっぱいになった。 「さ、もう泣かないで……。悔いて消えない罪なんて、この世にはないのですよ。まだこんなに幼いのに、あなたは存分に罰せられた。償いはすんだのです。女の子らしく、これからは元気に、もっと明るくすごさなければ……」  絵島は立ちあがり、肩に置いた手をすべらせて百合の片手を取った。築山の亭へ向かって、ゆるやかな小径《こみち》を登りながら、 「わたしにも腹ちがいの兄がいます。白井平右衛門といいますけど、この兄と交竹院先生とが永年の友人でね。仲のよい碁敵《ごがたき》なのですよ」  と大人に対するように話しはじめた。 「おたがいの家へ、招《よ》んだり招ばれたり……。そんなある日、先生が兄に相談なさったんです。弟の喜内が女の児の父になった、名を何とつけようかって、ね」  七年前——。白井家での会話である。  絵島はそのころ、花嫁修業中の娘だった。兄の部屋の床の間に壺を置き、山百合を活《い》けながら、 「この花の名はどうかしら……」  なにげなく独りごちたのを、小耳にはさんで、 「なるほど。百合か。よい名じゃな」  交竹院が膝《ひざ》を叩いた。 「それにきめよう。さっそく弟に伝えますよ」  以上のいきさつは伯父や父に聞かされて、百合も前々から承知している。でも、当の名附け親である絵島の口から改めて語られると、うれしさは倍加して、今の今、泣いた顔に、子供らしい笑いがもどった。  築山からの庭の俯瞰《ふかん》は、さらにすばらしかった。斜めにさしこむ薄紅色の残照に、大池の水が燦《きらめ》き、満開の菖蒲が白も紫も、競《きそ》い立つめざましさで夕風に揺れる。あとについて交竹院も登って来たが、亭の内部に置かれている陶製の榻《とう》に並んで腰をおろしながら、 「先般来、おたのまれしていた件じゃがな美喜さん」  気のすすまぬ顔で煙草《たばこ》入れを抜き出した。 「どうしても、二度目の勤めに上りとうござりますかな?」 「はい。お願いできるものならば……」 「口は、無いわけではござりませぬのじゃ。甲府|宰相《さいしよう》綱豊卿《つなとよきよう》の桜田御殿……。ご愛妾お喜代《きよ》ノ方さま附きのお使番《つかいばん》に一つ、空《あき》が生じたよしでな」 「ぜひ先生の橋渡しで、そこへわたくしをご推挙たまわりますまいか」 「ただなあ、あなたも知っての通り、甲府宰相はご当代|綱吉《つなよし》公の甥御《おいご》さま。お子のない将軍家のご世子《せいし》ときまったお方じゃ。ご当代に万一のことがあったあかつきは、六代目の将軍位を継がねばならぬ。当然、お喜代ノ方さまも大城へ移られるが、もしお気にかなって大奥にまでお供するとなると、一生奉公を強《し》いられることになりかねませぬぞ」  池に投げていた視線を、交竹院の面上に転じて、 「もとよりわたくし、その覚悟でございます」  絵島はきっぱり言い切った。 「どうぞ先生、お気づかいなく、桜田御殿のお話、お進めくださいまし」 「だがなあ、美喜さんのその縹緻《きりよう》、その若さで、まあ言うてみりゃ檻も同然な中へ、生涯わが身を閉じこめてよいものかどうか……」  浮かぬ表情のまま煙の輪を医師は二つ三つつづけざまに吐き出しながら、 「立ち入ったことを訊《き》くがの、平田どの——あの彦四郎どのとの仲は、どうなっておりますのじゃ?」  窺《うかが》うように絵島を見た。 「平田さまは婚約あそばしました」 「婚約!? あなたではなく、どこぞ他家の娘とでござるか?」 「いたし方ありますまい。女が男より、四歳も年上では……」 「そなたの兄の白井どのや、平田家のご両親らも、やはり年の開きにこだわって?」 「どうしても彦四郎さまとわたくしとの結びつき、許さぬと申すのでございます」 「では美喜どの、こなたの再度の武家奉公は、つまり申さば……」 「はい」  渋滞のない、水のような返事が、微笑をたたえた口もとからさらさらと流れ出た。 「恋を失ったための自棄《やけ》勤め……。そうお取りくださって少しもかまいませぬ」  何やらむずかしそうなやりとりになった。邪魔にならないよう絵島の片脇に、百合はそっと身をすり寄せていたが、薄化粧し、帯の合せ目に香袋《こうぶくろ》まで挟んでいるにもかかわらず、人工的な匂いはもとより、女の肌が纏《まと》うほのかな体臭さえ絵島のどこからも漂ってこないのを、ふしぎに思った。熟れのさかりにいながら無機質の物体に似て、よい香りもいやな匂いも二つながら放つことのない女体——。百合はむしろそこに惹《ひ》かれ、ますます絵島が好きになった。     三  あとになって思い返すと、紀州家の奥勤めを辞め、つぎの奉公先へ移るまでのあいだ——つまり百合が、伯父の奥山交竹院から、 「このお方がお前の名附け親の、白井美喜どのじゃよ」  と引き合わされた宝永元年の夏から冬にかかる期間、絵島の気持はひどく動揺していたようだ。桜田御殿への再就職を、 「ぜひ、お取り持ちいただきとうぞんじます」  そう彼女自身は熱心にたのんでいたけれども、依頼された交竹院はもとより、絵島の兄夫婦も内心は、 (一生奉公など、とんでもない)  と、二度目の勤めに出ることに反対だったのである。  ことに白井平右衛門の妻の佳寿《かず》は、 「お嫁にゆくのがいちばんです。とびきりの良縁があるのに……」  義妹の顔さえ見ればすすめてやまなかった。 「いまは平田彦四郎どのを恋うて、仲を裂いたわたしを美喜さんは恨んでおいででしょう。でも四ツも年上の姉さま女房でとついでも、おそらく針の蓆《むしろ》ですよ。当の彦四郎どのはよいとしても、親御さまやご姉妹《きようだい》、親類縁者がそろって不承知というのですからね。そんな中へ、押しかけ嫁の強引さで乗り込んだところで円くおさまるとは思えません。それにもう平田家では、どこぞ他家のお嬢さまと彦四郎どのを婚約させておしまいになったそうではありませんか。そんな相手にぐずぐず未練を持ちつづけるなんて、日ごろのあなたらしくもない。あんな嘴《くちばし》の黄色い坊やなど、さっさとこちらから思い切ってしまうことですよ。そしてね、美喜さん、少しは親身《しんみ》になって新しく持ちこまれたご縁の話、聞いていただきたいわ。お名は稲生《いのう》文次郎|正祥《まささだ》さま、千五百石取りのお旗本のご舎弟なのよ。わが家とはだいぶ開きのあるご大身《たいしん》だけど、文次郎さまがあなたを見染めてね、あの女《ひと》と一緒にさせて貰えなければ、咽喉を突くの腹を切るのと、ほほほほ、兄上ご夫婦を脅しまでして熱心に申し入れてきた縁談なのですよ」  回転しはじめたら、容易なことではとまらない嫂《あによめ》の舌である。聞かされたくない一心からだろう、絵島はしばしば奥山交竹院の屋敷へ逃げてくるようになった。  手をつなぎ合って茜《あかね》に燃える花菖蒲の群落を眺めた日から、絵島は百合の中で、忘れられない人になっていたが、絵島の側もまた、百合の境遇にいたく同情をそそられたらしい。 「いっしょに食べない?」  菓子やくだものなどを土産《みやげ》に持ってきたし、 「町の店棚で見かけたの。百合さんのお気に召すかしら?」  色糸でかがったみごとな手鞠《てまり》を買ってきてくれたりした。人形も鈴も小箱も替り絵も、百合には夢のような贈り物であった。主家の水戸家からして家風は質素だから、ましてそこの一御徒士頭にすぎぬ奥山喜内の家のくらしぶりが、爪に火をともすつましさだったとしても異とするに当らない。玩具《おもちや》のたぐいを、ついぞ一度も兼世は買ってくれたことがなかったし、たとえば手製の抱き猿ひとつ、継子のためになど縫ってくれたためしはなかった。  それでも子供のことだから、キシャゴのおはじきや一文取りの紙のお面、水の中で開く水中花といったほんの安もののもてあそびを、それこそ団栗《どんぐり》の実やら布の裁ち切れなどとごたまぜに、百合は箱に秘めて大切にしていたのだが、去年、水戸さまの邸内から出た火事で、きれいさっぱり焼いてしまったのである。伯父の家へは、だから着替えのほかは何も持たずに引き移って来たのだ。  菓子も玩具もうれしいけれど、もらうこと以上に、絵島が遊びの相手をしてくれることが百合には喜びだった。痩せぎすな、女にしては上背《うわぜい》のある引き緊った姿態が示す通り、走っても跳んでも絵島は敏捷で、 「鬼ごっこする? 百合さん」 「ええ、する」 「じゃ逃げなさい。わたしが鬼になるわ」  追いかけられると百合はかなわない。築山をひと息に駆けくだり、池の石橋を二足か三足で絵島は突っ切ったりする。 「いやはや、活溌なお嬢さまですなあ」  孫七という薬籠《やくろう》持ちの老人の、呆れ顔へ、 「あれも、自棄《やけ》かもしれぬよ」  交竹院は溜め息まじりにささやいた。 「奉公口の周旋をわしにたのんだときも、失恋の痛手を忘れるための自棄勤めじゃと、美喜どのはわるびれずに言ってのけたわ。子供に還《かえ》って、百合と追いかけっこなどしておるが、あれはあれで、あの娘なりに苦しみを捻じ伏せようとしておる姿ではないかな」  もとより百合に、そこまでの観察眼などあろうはずはない。遊んでもらえればただ、夢中で、時のたつのを忘れたし、 「こんど、お芝居につれて行ってあげましょうか」  誘われれば、 「ほんとう?」  あまりな幸福感に、片方の手で片方の手の甲を、そっと抓《つね》ってもみるのであった。 (信じられない……)  なぜ、こんなしあわせな日々に、いきなり恵まれることになった自分なのか。 (伯父さまがこの家にわたしを引き取ってくれたからだ)  いまさらのように交竹院の慈愛を、百合は噛みしめ直すのである。  せいいっぱい、だから百合は、伯父の役に立とうとした。たかが七歳の少女だし、たいしたことができるわけではない。使用人も大勢いて、それぞれ家事雑用を分担している中だから、子供の出る幕などないも同じだが、それでも何かしら百合はしようと努めた。弟の守《も》りをはじめ、親の家にいたときから働かされるのには馴れている。  屋敷は門に面した表側が治療所になっていて、紹介状を持参する患者にかぎり交竹院は診察した。 「もっと一般の人たちを、貧富のへだてなく診てやりたい」  と望みながら、それが果たせないのは、将軍家お抱えの表医師だからである。きまりの日に登城するほか、往診にも出かけたが、やはり相手は旗本、豪商など、特別に手蔓や縁故のある患家にかぎられていた。  それでも結構、医師という職業は忙しい。食事を中途で打ち切って出かけなければならない急患もあるし、夜なかに叩き起こしにくる病家もある。専門が小児科だから待てしばしがない。幼児の発熱、ひきつけなど、一刻を争う心理に、まず親の側が捲き込まれてしまう。最善を尽しても、不満は残りやすいのに、交竹院がどの患家からも、 「親切な、よい先生だ」  と信頼されているのは、医業を天職と心得て労力を惜しまず、尊大ぶりもしないせいだろう。一つ屋根の下にくらしてみて、気さくな、あたたかな伯父の人柄が、慕わしいものとして百合にもはっきり理解されてきた。手紙を書こうとしていれば、だからいそいそ墨をする。盆栽の手入れをはじめれば、手桶に水を運んだり枝切り鋏《ばさみ》や芽つみ鋏、塵《ちり》払いの刷毛筆《はけふで》、土をならす鏝《こて》だの如露《じようろ》だの、必要な道具類をすぐおぼえて小まめに揃えるなど、身の回りの小間《こま》用に気をくばるのであった。     四  芝居小屋は堺町《さかいちよう》に中村勘三郎座、葺屋町《ふきやちよう》に市村羽左衛門座、木挽町《こびきちよう》に山村長太夫座と森田太郎兵衛座の四座があり、それぞれ繁盛を競っていた。生まれてこのかた、歌舞伎狂言など一度も見たことのない百合は、前夜、胸がわくわくして眠れず、 「迎えに行きますよ」  と絵島が約束してくれた当日、あたりがまだ、まっ暗なうちに起きてしまった。孫七爺やに手伝ってもらって、持ってきた幾枚もない小袖のうち、いちばん上等なよそゆきに着替えると、あとはもう、することがない。ひたすら東の空が白むのを待つだけであった。 「弁当は、どうなされますかな? 百合嬢ちゃま」 「いらないんですって……。白井さまのお宅でご用意くださるらしいわ」 「さぞや、ご馳走でござりましょうな。やれやれ、うらやましい。わしもお供したいものじゃ」 「美喜ねえさまに、爺やもつれていってくださいって、お願いしてみましょうか」  いつのまにか百合は、絵島を『ねえさま』と呼ぶようになっていた。 「ははは、冗談冗談。わしはほんとは人混みが大の苦手でな、芝居小屋の熱気になど当てられるとズキズキ頭《ず》が病《や》めてくるのでござりますわ」 「お芝居って、どんなことをするの?」 「いろいろなものに扮して科白《せりふ》を喋ったり踊ったり……男がな、女に化けての濡れごとなど、とんと本物の女そっくりでござりますぞ」 「化けるの? 男が……」 「白粉《おしろい》塗りこくって鬘《かつら》をかぶって、女の声色を使いますのじゃよ。まあ嬢ちゃま、たんと楽しんでおいでなされませ」  迎えには絵島だけでなく、異腹の兄の白井平右衛門、その妻の佳寿も来た。女中と若党が一人ずつ……。ほかに弁当持ちの下男が従っている。一家総出の趣きである。 「と、申しますのもな先生、当分のあいだ拙者、江戸芝居を見ることができなくなりますのでな」  奥山家の玄関に立ったまま白井平右衛門は交竹院に言った。 「は、そりゃまた、なぜにな?」 「破損奉行を仰せつけられたので、ちかぢか大坂へまいらねばならんのです」 「それはそれは、ご栄転おめでとうござる。して、ご任期は二、三年かの?」 「いや、もっとながくなるのではありますまいか。五年、七年……ことによったら十年ぐらいは上方ぐらしを覚悟しなければならなくなりそうです」 「お名残り惜しいなあ。平右どのと碁が打てなくなるのは……」 「出立の日時がきまり次第、あらためてまた、お別れのご挨拶に上りますが、どうか先生、お達者でいてください」 「奥方も、むろん同道なさるのでござりましょうな?」 「はい。ついて行くつもりでおりますの」  と佳寿が脇から口をはさんだ。 「一人で置くと、浮気の虫がつくかもしれませんし、不自由な役宅住まいを家士の手にばかり委せていては、それこそ男やもめに蛆《うじ》が湧くということにもなりかねませんからね」 「いや、ごもっともじゃ。でも美喜どのは……」 「それなんですのよ交竹院先生」  舌に湿りをくれて、佳寿は乗り出した。 「年ごろの娘を大坂くんだりまで引っぱってゆくわけにはまいりませんでしょ? ですからなんとか私ども夫婦が江戸にいるあいだに、美喜さんの身を固めてしまおうと躍起《やつき》になっているのですけれど、嫁入り話にはとんと気乗り薄……。先生におたのみして、御殿勤めの口をさがしていただいているそうではありませんか」 「そうおっしゃられるとわしも困りますのじゃ。ご当人がぜひともこのさい、一生奉公に出たいとせがむのでなあ」 「とんでもない一生奉公だなんて……。若い者にありがちな気の迷いですよ。せっかく今、よい縁談が持ちこまれているやさきですから、先生もこんりんざい、美喜さんの望みになど耳をかさないでくださいまし」  肝腎の絵島は、嫂《あによめ》の饒舌《じようぜつ》にただ、にこにこ目もとを和《なご》ませているだけだが、白井平右衛門は気短かなのか、 「そんなわけで、見納めの江戸芝居、今日は堪能《たんのう》してこようというわけです」  と佳寿の喋々《ちようちよう》をぶち切った。 「見納めだなどとは縁起でもない。大坂には道頓堀の中ノ座、角《かど》ノ座、京には京で早雲座やら万太夫座やら、立派な戯場《げじよう》が櫛比《しつぴ》しておると聞きおよんでおりますぞ」  交竹院の言葉を、 「そうですってねえ」  また横から奪ったのは佳寿だった。 「和事師《わごとし》では日本一と折り紙をつけられている坂田藤十郎。それに立役《たちやく》の片岡仁左衛門、山下半左衛門、若|女形《おやま》では水木辰之助だの芳沢あやめなんてきれいどころが、お江戸の荒事《あらごと》とはひと味ちがう面白い舞台を見せているそうではありませんか」 「ようご存知ですな奥方」 「わたくし芝居きちがいですのでね。大坂勤番から帰ったばかりの知人に、根掘り葉掘り訊きましたの」  と朗らかな笑顔で言いながら、 「このお嬢ちゃまが、これからご一緒する百合ちゃんですか?」  佳寿は交竹院のかたわらを見た。 「さよう。預り子の姪ですわ」  押し出されて、百合は両手を前に重ねたまま、前夜、伯父に教えられた通り、 「今日はお誘いいただいて、ありがとうございます」  頭をさげた。 「まあ、お悧口なこと。そろそろ、では、まいりましょうかね。ここから木挽町まではまだ、だいぶ道のりがありますからね」  と佳寿がそわそわしだしたのは、芝居の開演時刻が急に気になりはじめたためだろう。  絵島に介添えされて、百合は草履《ぞうり》に足をおろす。交竹院も式台まで出て、 「木挽町というと、山村座ですな?」  一同を見送った。 「はい。市川団十郎の倅の九蔵が、二代目を襲名していま、山村座に出ていますので……」  答えたのは、やはり佳寿である。 「荒事の神さまも、とんだ災難でしたな」  と交竹院が言ったのは、つい五ヵ月ほど前、市村座の楽屋で、初代市川団十郎がどのような遺恨でか、生島《いくしま》新五郎の弟子の生島半六という役者に、いきなり斬りつけられ、落命した事件をさしている。  江戸中が沸き返るような騒ぎだったし、遺児の九蔵に同情が集まって、襲名口上の挟まる山村座の公演は、七月、残暑のさなかというのに大入り満員とも評判されていたのだ。 「では、お気をつけてな。百合も、みなさまの迷惑にならぬよう行儀ようしておらねばいかんぞ」 「行ってまいります」  と門を出ながらも、百合の足は雲を踏むようだった。女二人に右ひだりから手を取られながら、うきうきと気が躍《おど》って、地面にしっかり足の裏がついている感触がしない。二、三歩、先を行く白井平右衛門——。気むずかしそうなその、肩のとがりだけが気にかかる。  諱《いみな》は勝昌《かつまさ》。年は三十三。大番《おおばん》に列し、亡くなる年まで大城の御裏門切手番頭《おうらもんきつてばんがしら》を勤めた白井十兵衛|久俊《ひさとし》という人の嫡男で、 「二百石取りの御家人じゃよ」  と、交竹院の口から百合は聞かされていた。 「母者は伊達《だて》庄兵衛とかいうこれも幕臣の息女であったが、亡くなってな、美喜さんの母御が連れ子をして十兵衛久俊どののもとへ後妻にはいられた。美喜さんの実の父上は、疋田《ひきた》なにがしとやらいう甲府藩士であったそうな」  兄といい妹といっても、つまり白井平右衛門と絵島のあいだに、血の繋りはない。父がちがい、母がちがうのである。  目鼻だちにも、したがって似かよったところは少しもなかった。平右衛門の顔色はわるく、眉間《みけん》には深い縦皺《たてじわ》が一本刻まれている。仔細《しさい》に見れば引き緊った、鼻梁の秀《ひい》でた美男なのだが、眼つきが鋭く、片頬にともすると内心の苛《い》らつきを現す痙攣《けいれん》が走って、癇癖《かんぺき》の強さを露呈していた。ふっくり肥えた餅肌《もちはだ》の、陽気でお喋り好きな妻の佳寿とは対照的に、雰囲気が暗いし、義妹の絵島の、冴え返った美貌とももちろん共通点は見いだせない。 (こわそうなかただ。叱られないように気をつけなければ……)  それとなく百合が用心したのは、継子育ちの勘だが、少女の、この怯《おび》えは的を射ていた。  山村座に着き、茶屋の者に案内されて一階の枡席《ますせき》に腰を落ちつけたとたん、 「なにをするッ、無礼者ッ」  平右衛門は二階|桟敷《さじき》を睨《ね》めあげて怒り出したのだ。骨を朱漆《しゆうるし》で塗った華奢《きやしや》な女扇……。運わるく、平右衛門の頭上に、まっすぐそれが落下したのである。     五  扇子の持ちぬしが、いそいであやまれば、あるいはそれで済んだかもしれない。まずいことに二階桟敷では、しかし扇を落としたことに気づかなかったらしい。手摺りにのせておいたのが、肘《ひじ》にでも触れて落ちたのだろう。  生憎《あいにく》このとき、白井平右衛門のかたわらには佳寿がいなかった。芝居小屋へ足を踏み入れるとすぐ、 「わたしは、ちょっと……」  何かを探しでもするような、そわついた身ぶりで、佳寿はどこかへ行ってしまったのである。平右衛門がどなりだしたのに驚いて、 「場所が、場所でござります。どうか旦那さま、お鎮まりくださりまし」 「そうよ兄さま、せっかくこれからお芝居を愉《たの》しもうという汐先《しおさき》ではありませんか。わざとしたわけじゃなし、勘弁しておやりなさいな」  くちぐちになだめたのは妹の美喜と、供の女中、若党たちだった。  制止されると、なおのこと激昂するたちなのだろう、平右衛門は耳も藉《か》さずに、 「おいッ、聞こえんのか、なんとか言えッ」  二階を見あげて叫びつづける。開演前の場内は人の出はいりでごった返し、喧騒をきわめていたから、この怒号に気づいたのはほんの近まわりの見物だけであった。  さすがに、でも頭上の桟敷では、下の異常に気づいたようだ。一人、怪訝《けげん》そうに手すりから半身を乗り出して、 「どなた? なにか御用?」  横柄《おうへい》な応答を投げて寄こした。武家方の女房と見える三十四、五の、厚化粧の女である。酔っているのか、目のふちを赤く染め、上体をわずかにふらつかせていた。 「この扇子は貴様のだろう?」 「あら、いつのまに落ちたのかしら……」 「拙者の頭に当った。ここへ受け取りに来い。詫びれば返してやる」 「おお恐《こわ》……。えらい剣幕でがなり立てるから、何ごとかと思えばたかが扇子一本の粗相に、大仰なおかただこと」 「なにッ?」 「お頭《つむ》の皮がよほど柔らかくて、怪我でもしたか、せめて瘤《こぶ》でも出来たならともかく、受け取りにきて詫びろとは呆れた威張りようね。いりませぬよ、使い古しの扇など……。ほしければお前さまに進上しますわ」 「おのれッ」  むしゃぶりつく若党を蹴倒しざま平右衛門は廊下へ飛び出した。二階への階段めがけてまっしぐらに走りだす。血相が変っている。周囲の枡席から悲鳴があがり、 「喧嘩だッ」  はじめて小屋じゅうが事件に気づいて総立ちとなった。 「上も侍の一行ね」  立ちあがって美喜は女中に言いつけた。 「もし斬り合いにでもなったら百合ちゃんをつれて外へお逃げ。そしてまちがいなく、奥山交竹院先生のお屋敷へ送りとどけておくれ」 「お嬢さまは?」 「兄さんをとめに行きます」  ところへどこからか、佳寿があたふた駆けもどって来た。 「さわぎの因《もと》は、やっぱりうちの人だったのね美喜さん」  と、息を弾ませながら言う。 「ささいなことからカッとなって……。でも、上の女も傲慢《ごうまん》なのよ。火に油をそそぐような応じ方をするのですもの」 「わたしはあるお方の居場所を探してたんです。今日この山村座でお目にかかる約束だったものだから……。喧嘩だという声にびっくりして向こう側の廊下から人の指さすほうを見たら、なんと、たずねる相手の稲生さまの桟敷が、わたしどもの枡のすぐ上——。しかもそこで悶着《もんちやく》が起こっているじゃないの」 「稲生さま?」 「とにかく取りしずめてきますから、美喜さん、あなたはここにいてくださいよ。ほんとにまあ、とんでもないことになった。なんとかうまく捌《さば》かなければ……」  半分は独りごとの捨て科白《ぜりふ》で、のめるように佳寿が走り出てゆくまに、二階でははやくも緊迫した罵《ののし》り合いがはじまっていた。声は男女入り乱れてすさまじい。白井平右衛門の喚き、きんきん響く女の応酬……。男二、三名の大声が混じって聞こえるのは、女の連れであろうか。  双方、いまにも抜刀しそうなさわぎの中へ佳寿の金切り声がとび込んだ。懸命に言いつくろったり、詫びたりなだめたりする気配がし、やがて煮え湯に水を差すように静かになったのは、さすがに場所柄を考えておたがいに分別を働かせたからにちがいない。 「どうやら納まったようだぜ」 「物騒なことにならないでよかった。お武家同士の喧嘩なので胆を冷やしたよ」  逃げ出しかけていた見物もやっと安心してめいめいの席にもどり、それを待ってでもいたように廻りの柝《き》が入った。開演の準備がととのったことを知らせるために、楽屋や奈落を打って歩く合図の柝である。怯えて、女中の袂《たもと》を固く握りしめていた百合も、なごみはじめたあたりの空気にやっと緊張を解いた。小さな掌に、びっしょり汗をかいている。  頭上の桟敷からは、座持ちに努めているらしい佳寿の嬌声が、笑いをまじえてさかんに聞こえてきたが、物売りの触れ声や観客のざわめきなど、芝居小屋独特の喧騒がよみがえったせいか、会話の内容まではよくわからない。でも女中は首をすくめながら、 「上のご連中、稲生さまだそうですね?」  美喜にささやいた。 「奥さまの魂胆が、はっきりしましたよ。近ごろはやりはじめた見合いとやらを、両家でお膳立てなすったって寸法でしょう」 「まんまとわたし、嫂《ねえ》さまに一杯くわされたわけね、ただの芝居見物とばかり思い込んで出て来たのに……」 「旦那さまはご存知なかったんでしょうか」 「知らないからこそ怒鳴ったりしたんでしょう。こんどの縁談は、嫂さまがまず大乗り気で、先方との折衝にあたっていたようだから、兄さまは稲生家の人たちとはろくに面識もないはずよ」 「それであの女と派手にやり合っておしまいなすったんですね。まずいことをしましたねえ」 「別にまずくなどありませんよ。わたし、稲生のご舎弟と祝言する気などないのだもの……」 「まあ、そう頭から決めておしまいならずに、どんな殿御か、とっくりと見ておやりなさいまし。いまに幕間《まくあい》にでもなったら呼びにまいりましょうから……」 「行きません。人さまの桟敷へなど……」 「お相手さまは——ええと、何てお名前でしたっけ……そうそう、稲生文次郎正祥さまとかおっしゃいましたね。お嬢さまに、どこかでひと目惚れして、ぜひとも嫁にほしいと申し入れてきたそうですから、とうにあちらはご縹緻《きりよう》よしを承知しているわけですよ。今日はお嬢さまの側が、文次郎さまとやらを見てやる番ではございませんか」  女中の饒舌は、開幕直前の芝居小屋の雰囲気と見合いへの好奇心に浮き立って、酒など飲みもしないうちから軽い酩酊《めいてい》状態におちいった証拠であった。     六  斬り合いへの危惧が薄れると、百合の興味もがぜん、周囲に向けられた。生まれてはじめて体験する芝居見物である。見るもの聞くもの、何もかもがやたら珍しく、面白い。  去年——元禄十六年の大地震で、江戸三座も被害を受けた。十一月二十二日、朝から小雪のちらつく寒い日だったが、夕方になって気象に異常が起こった。冬のさなか、雷が鳴りだし、稲妻がひっきりなしに江戸の上空を明るませはじめたのである。雨は降ってこない。俗に言う空雷《からかみなり》だ。そして、そのまま夜になり、そろそろだれもが寝仕度を急ぎはじめた正|戌《いぬ》の刻《こく》、雷鳴を上回る地鳴りとともに大地が揺れだしたのであった。  この日の恐怖を思い出すたびに、百合は身体が慄えてくる。戸障子が吹っとび、ちっぽけなお役宅は巨浪にもてあそばれる舟さながら上下した。継母の兼世は千之介を抱きかかえたまま柱にしがみつき、父の奥山喜内は百合の手を引っぱって外へとび出した。家が潰れなかったのはまだしも幸いだった。あとで聞くと、本建築の大店《おおだな》や寺社、武家屋敷なども軒なみ倒れ、将軍さまのいる大城すら石垣の崩れが幾ヵ所も出たという。  でも、まだ、これだけで江戸中が壊滅したわけではない。師走《しわす》に入ってもおさまらない余震に、 「大きな揺れが、もう一度くる予兆ではあるまいか」  びくつきながら、あと片づけに取りかかっていた町民たちは、こんどは火災に襲われたのだ。かろうじて地震の厄をまぬがれた家々までが、総舐めに魔火《まび》の犠牲となった。  この火事の火もとは、しかも百合たち親子の住む水戸邸だった。おかげで役宅は焼失したが、 「節季《せつき》にかかって、それも寒む空に焼け出された罹災者たちがさぞ恨んでいるだろうなあ」  両親や藩邸のだれかれの言い交しを耳にするたびに、百合までが子供ごころに肩身の狭さを味わった。  本郷から上野の台地、さらに湯島、神田、日本橋、向柳原《むこうやなぎはら》と燃え広がった焔は、大川を飛んで本所、深川まで焼きつくし、海ばたへ出てようやく止まった。きれいさっぱり、これで木挽町の山村座、葺屋町の市村座が焼け落ち、まがりなりにも年明けの今年正月、新春《はる》狂言が打てたのは堺町の中村座と、控え楼《やぐら》の森田座だけだったのである。 「縁起がよくない」  というわけで、三月十三日、公儀は改元を発表し、元禄十七年は宝永元年と改まったが、そのあいだに火災に遭った両座も鋭意、普請を完了——。にぎにぎしく落成興行の蓋《ふた》をあけた。  ところが……。  どこまでもつきの悪かったのは市村座である。このときの出しものは義経伝説から材を取った『移徙《わたまし》十二段』という狂言だが、佐藤|次信《つぐのぶ》に市川団十郎、弟|忠信《ただのぶ》に生島新五郎、牛若丸に中川半三郎ら人気俳優を揃え、連日、大入りの盛況だったにもかかわらず、はじまって七日目に凶事が突発した。団十郎が楽屋で殺害されたのだ。下手人は、生島新五郎の弟子の生島半六……。番付では『中ノ上』に位置する役者で、すぐさま自殺したため、なにゆえの刃傷《にんじよう》か、原因はとうとう判らず仕舞いに終った。  しかし門弟の引き起こした不祥事なので、生島新五郎は一時、舞台出演を遠慮しなければならなくなったし、市村座は興行を中止。太夫元《たゆうもと》、名主、家主、五人組から芝居地主まで関係者全員が町奉行所に呼び出され、当時の月番|保田《やすだ》越前守から、 「監督不行きとどきである」  きつい叱言《こごと》をくらったあげく、 「向後、狂言に使用する刀剣のたぐいは、竹に銀箔、もしくは銀の延紙《のべがみ》を貼ること」  とも申し渡された。それまで舞台では、本身《ほんみ》の刀わき差しが当然のこととして使われてきたのだが、この事件以来、竹光でなければならなくなったのである。  ——一方。  市村座の災難を尻目に、山村座は『傾城《けいせい》隅田川』で華やかにこけら落としの幕を開け、七月狂言の今は『平安城都定《へいあんじようみやこさだめ》』と、きわめつけ『愛護若《あいごのわか》』の二本立てで満員の客を呼んでいる。  新築まもないだけに小屋は木の香《か》がすがすがしく、飾り金具も輝いて百合の目には竜宮城にでも迷いこんだほど眩しい。二階桟敷ほどではないまでも、六人詰めの枡席を家族主従で買い切っての見物が、土間より上等であることは、百合にも判断がついた。  見渡すと、すでにその土間ですら高土間、平土間とも立錐《りつすい》の余地すらない。碁盤目状にそこを区切って渡り板が敷かれ、ひっきりなしに人が往来する。 「ごめんなさいよ」  肩をこづき、膝を跨《また》ぎ、詰め合っている中へ割り込むのだから、 「痛いッ、踏みなさんな足を……」 「煙草盆、けとばすやつがあるかい」  白井平右衛門の先ほどの怒号とまではいかなくても、あちこちで小さな言い争いがおこる。  平然とそんな中で盃《さかずき》のやりとりをはじめている飲んべえもあるし、煮しめ、まんじゅうの触れ売り、茶屋の仲居や若い者、貸し座布団屋までが右往左往して、その賑かさといったらない。先端から煙の出る細い縄を、蛇さながらぐるぐる腕にくくりつけ、 「ええー、火縄火縄」  呼びながら歩き廻っている男は何者なのか。見当もつかずにいる百合に、 「あれはね、煙草の火種にするのよ」  美喜が教えてくれた。  切ってよこす二、三尺の縄を、渦巻き状に巻いて煙草盆の中へ入れておき、煙草がのみたいときはじりじり燃えている先っぽの火に煙管《きせる》の雁首を持ってゆく。豆つぶほどの火種でも何十本もの縄の数だ。いぶる煙で場内はうっすらかすんでいる。人いきれもすごいし、埃《ほこり》も舞い立っているに相違ない。 「わしは頭《ず》が病めますで、芝居小屋へのお供はごめんじゃ」  と手を振った孫七爺やの言葉が、いまこそ百合にも実感できた。  始まりを待つ心躍りの前には、だが空気のよごれなど物の数ではない。美喜が買ってくれたまんじゅうを頬ばりながら、百合はきょろきょろ目を動かし、腰を浮かしたり振り向いたり、少しも落ちつかなかった。  冴えた柝の音が、また、ひびき渡った。開幕の知らせである。鳴りものが聞こえ、人々のざわめきは潮が引くように小さくなりはじめた。 「やれやれ、やっとどうにか収まりをつけましたよ」  と、このとき佳寿が席へもどって来た。得意げな妻の笑顔とは対照的に、白井平右衛門の眉間の縦皺は深い。  喧嘩相手が、美喜の縁談の相手でもあったと知って、さすがに彼は仰天した。稲生家からの申し入れを、平右衛門も嫌っていたわけではけっしてない。同じ幕臣ながら先方は千五百石取りの旗本である。自身の大坂赴任に先立って、 (妹の身の振り方をつけておかねば不安心だ)  とする思いは平右衛門にも強かった。佳寿の、躍起の口添えをまつまでもなく、だから彼はばつの悪さをこらえ、内心の腹立ちをむりやり捻じ伏せて短慮を詫びた。  扇子を落とした当人は、稲生家の主人《あるじ》次郎左衛門|正武《まさたけ》のつれあいで、りくと言う。婿《むこ》候補《がね》の文次郎正祥には義理の姉にあたる女である。桟敷には次郎左衛門夫妻と文次郎のほか家来が二、三名いたが、美喜をめとりたい一心からか佳寿と一緒になって文次郎がとりなしたため、しぶしぶりくも機嫌を直した。 「そしてね美喜さん、つぎの幕間にあなたともども、改めていま一度、お二階へご挨拶に伺うことになったのよ」  佳寿の視線から目をそらしたまま、 「騙《だま》し討ちはひどいわ嫂《ねえ》さま」  不快そうに美喜はきめつけた。 「騙し討ちだなんて、そんな……。わたしは美喜さんのためを思ってしたのですよ。文次郎さんの側だけがあなたを知っているなんて、片手落ちですものね」  見合いという風習は、近年、町人の間ではじまったもので、元来、武家社会には皆無だった。婚礼とは子孫を儲け、家を存続させるために行われる神聖な儀式である。個人の快楽が目的ではないのだから、男も女も相手方の顔の美醜など問うのはもってのほか……。そんな上つらにこだわるのは結婚の意義のはきちがえであり、相手の人格への侮辱だとする考えが根づよかった。  つまり当事者同士は闇夜の鉢合せ……。そのための悲劇もしばしば起こる。  そこで近ごろは、町人にならって武士の家庭でも、花見や芝居、遊山などにかこつけて、事前にそれとなく相手を見るということがおこなわれ出したのであった。     七  芝居の幕があくと、百合は熱にうかされたように役者たちの仕草に惹《ひ》きこまれてしまった。狂言は初番が『平安城都定』——。筋は入り組んでいるが、一心不乱に見ているせいか子供にもどうやら理解できる。かたわらから絵島《えじま》が、 「ほら、前簪《まえかんざし》をさしたお姫さまが出てきたでしょ? 伊吹前司《いぶきのぜんじ》の妹の、操御前《みさおごぜん》よ」  小声で注釈してくれるのも、ずいぶん助けになった。 「きれいねえ、役者は何という人?」 「新五郎の弟子の、生島新蔵」 「えッ、女じゃないの?」 「男よ」  信じられない。そういえば孫七爺やも、 「男が女にでも何にでも扮して、踊ったり喋ったりいたしますのじゃ」  と教えてくれたけれど、あんなカン高い声や、しなしなした身ごなしが男にできるものなのだろうか。 「できますとも。修業すればね」  百合のおどろき顔が可笑しいのか、小さく絵島は含み笑いする。 「では、前の幕に出てきた猿丸太夫の妻の白玉《しらたま》や、その妹の紅葉《もみじ》ノ内侍《ないし》も、みんな男?」 「白玉を演じたのは岩井辰三郎、紅葉ノ内侍は出来島《できしま》小太夫って役者よ」 「どうして歌舞伎には女が出ないの?」 「わけはまた、いつか話してあげます。それよりおなかがすいたでしょう百合さん、そちこち正午《ひる》ですもの、お弁当にしましょう」  女中に合図して提重《さげじゆう》の包みをひらかせ、煮しめや膾《なます》、ちらし寿司などを、彩りよく絵島は小皿に取り分けた。 「さ、兄さん、どうぞ。嫂《ねえ》さまも召しあがれ」  箸まで添えてもらって、百合もひと皿手に受けたが、舞台に気をとられ、ろくろく味がわからなかった。  白井平右衛門は下戸なのだろう、酒器に手を触れようとさえしない。妻の佳寿や妹の絵島のほうが、女ながらいける口らしく、 「美喜さんから、まず、お一つ……」 「あら、わたくしがお酌しますわ」 「そうおっしゃらずに、げん直しにキュッと干してくださいな。ほんとにさっきは胆を冷やしましたよ。毎度のことながら、うちの人の短気にも手を焼きます」  なみなみ、義妹の手の盃に、瓢《ふくべ》の酒を注いでやりながら、 「ただし、酔っぱらってはだめですよ美喜さん、あとでお二階へ伺わなければなりませんからね」  と、頭上の桟敷へ佳寿は目をやる。時分どきになったせいか、あちこちで弁当をひろげはじめる者が目立ち、注文の茶や酒を運ぶ芝居茶屋の若い衆が、鼬《いたち》のすばやさで渡り板を往き来した。  もっとも膾といい、煮しめといっても、魚鳥の肉は使えない。獣肉はもちろん、蛤《はまぐり》やしじみ浅蜊《あさり》、玉子のたぐいまで調理は厳禁だった。すべて野菜ひといろ……。精進物ばかりである。  生類憐み令の実施は徹底していて、違反者は重科に処せられる。頬がむずがゆいため、なにげなしに掻いて藪蚊をつぶしてしまい、島流しの憂き目に遭った武士だの、遊びの吹き矢が運わるく雀に当って、斬首された町家の子供など、きのどくな例は山ほどあり、しかもそんな恐怖政治がすでにもう十七、八年もつづいて、何十万という処罰者を出している異常な世相下なのであった。  肉味《にくみ》に馴れた大人たちは、事あるごとに、 「鯛の刺身でいっぱいやりたいな」 「今夜みたいに冷えこむ晩は、鴨鍋といきたいところなのに……」  と、かなわぬ愚痴をこっそりこぼし合うけれど、生まれ落ちたときから茄子《なす》大根、にんじんや芋ばかりで育った子供らは、百合もそうだが、かくべつ精進物をまずいとは感じなかった。上を越す美味を知らないせいだろう。  二階桟敷でも食事をはじめたのか、小声でさざめき合う気配がする。時おり手すりから半身を乗り出して、階下の枡席を覗く者がいて、 「稲生の若殿ですよ」  白井家の女中がくすくす笑った。 「ほらほら、また見おろしていなさる。よっぽど美喜お嬢さまに気があるんですね。幕間を待ちかねていらっしゃるんじゃないかしら……」  当の絵島は、しかし知らん顔で盃を口にふくんでいる。 「酔ってはだめですよ」  と嫂《あによめ》に釘をさされたのに、かまわず数を重ね、目許がほんのり染まりはじめていた。  ——ざわつきかけていた見物がこのとき、にわかに鎮まったのは、岩屋不動の場の上演に先立って、襲名披露の口上がはじまったためである。出演俳優中、主立《おもだ》った者が残らず舞台に並び、中央に『平安城都定』で伝教大師に扮した最古参の立役《たちやく》宮崎伝吉、その横に、亡父団十郎の名跡を継ぐことになった市川九蔵が控えて、「とざい、東西……」の声とともに、いっせいに頭をさげた。  口上を述べたのは宮崎伝吉だった。 「父に別れしみなし子の、九界九蔵《くかいくぞう》の二代目を、ここに市川|三升《さんしよう》と、後生《ごしよう》を願うお引き立て、東西南北、四夷八荒《しいはつこう》、端から果てた親のあと、足も三藐三菩提《さんみやくさんぼだい》、これからとどろく四明《しめい》ガ岳《だけ》、そのご贔屓《ひいき》を頂きより、矢橋《やばせ》の浦の鯉鮒《こいふな》と、尾ひれを付けてご評判、仰ぐも高き天台大師、大慈大悲の勧善懲悪《かんぜんちようあく》、その俳優《わざおぎ》のわざくれを、伏して願うは同業一同、親のない子とお目をかけくださらば、さらばさらばと冥途へ旅立ち、歌舞の菩薩《ぼさつ》の蓮の上、父|才牛《さいぎゆう》もありがたく、成仏往生口上を、たのまれ甲斐はなけれども、ご見物さまがたへ、ひとえに願いたてまつると、ホホ、敬《うやま》って白《もう》す」  長口上を、一字一句のよどみもなく言い終るととたんに、どっと観衆はどよめき、 「かわいそうにねえ」  もらい泣きする女客さえあった。  百合も、身につまされた。父はいるが、生母には早く別れて、片親育ち同様の育てられ方をしたあげく、今は伯父の屋敷の懸人《かかりゆうど》である。みなし子などという言葉を聞くと人ごととは思えなかった。  もっとも、二代目団十郎は今年十七歳——。身体つきなど、がっしりとたくましい若者である。孤児にはちがいないけれども子供扱いはそぐわなかった。『平安城都定』では名前からして勇ましい竜虎之助荒王《りゆうこのすけあらおう》という青年武将に扮し、大きな升を頭上にかざして、 「今日から三升《みます》が家の紋」  襲名にちなんだ当て科白で見物をよろこばせ、石臼の引き合いを演じてのけた。お家芸の荒事である。 「あの衣裳はね、殺された先代が十四で初舞台を踏んだとき、着て出たものなんですって……」 だれに聞いたのか、佳寿は芝居通らしくそんなこぼれ話を口にしたが、やがて『平安城都定』の幕がおりると、 「さあさあ、稲生家のみなさまがお待ちかねですよ。ご挨拶しにまいりましょう美喜さん、お二階へ……」  火がつきそうにうながしたてた。     八  駄々をこねると思いのほか、素直に絵島は立ちあがった。 「百合さんもおいで」  と少女を誘う。 「美喜さん一人になさい。お見合いの場所に子づれというのも異なものですから……」  佳寿が制止しかけたが、それには耳を藉さず、むりやりのように百合の手を取って枡席を出る。仕方なく、あとにつづいて立ちながら、 「あなた、どうなすったんです? いらっしゃらないんですか?」  坐りこんだまま煙草をくゆらしている白井平右衛門を、いぶかしそうに佳寿は見やった。 「行かんよ、おれは……。もう嫌だ。ばつが悪くてたまらん。上の連中もガアガア啀《いが》み合ったおれなんぞ同席せんほうが、気色《きしよく》がよいだろう」 「そうかもしれませんけど、あなたは美喜さんの兄上だし、白井家の当主なのですからね。やはりご一緒してくださらなければ形がつきませんわ。大事な縁談なんですよ。稲生家からの申し入れに、あなただって乗り気だったはずではありませんか」 「だがなあ」 「だがも蜂の頭もあるものですか。お越しあそばせ。さあ……」  このまに絵島は、百合の手をひいてずんずん段梯子《だんばしご》を登ってゆき、 「ごめんくださいませ。白井平右衛門の妹美喜でございます。さきほどは兄が、とんだご無礼を……」  しとやかに廊下の敷居ぎわに手をつかえた。 「おお、美喜どの、どうぞ中へ……中へお進みください。遠慮なく……」  上ずった声を投げて寄こしたのは、出はいり口に近く座を占めていた小作りな武士である。家来にしては身なりが美々しい。年恰好からも口のききようからも、この侍こそが見合いの主役稲生文次郎であろうとは、幼い百合にすらひと目で見て取れた。 「ささ、ずっと、ずっと奥へ……そこは端近《はしぢか》です」  浮き腰の姿勢で、やたら両手を振り回し、しどろもどろなすすめ方をする文次郎の、小心まる出しなのぼせぶりにくらべると、絵島の物腰のほうが、はるかに落ちついて見える。身内の目にも片腹痛く映ったにちがいない。 「むやみに奥へ奥へと言っても、この通り手ぜまな桟敷だ。おぬしみたいにそう、せかせかせっついては、せっかくの客人が手すりの外へ飛び出してしまうぞ文次郎」  稲生次郎左衛門が苦笑まじりにたしなめた。酒気に赤らんだ顔面をてらてら脂光りさせた恰幅《かつぷく》のよい男で、うしろ衿《えり》にくいこむ首の太さ、肩へかかる贅肉《ぜいにく》の厚み、底力のある音声など、いかにも大身の旗本らしい。 「そうですとも。文次郎さんたら、意中の女《ひと》のご光来にすっかり度を失ってしまって……。少しお膝をずらさなければ、美喜どのがおはいりになれないではありませんか」  からかい口調で注意したのは、次郎左衛門の妻のりくである。先刻、白井平右衛門と口論し合った女扇の持ちぬしだ。滝川備中守|具章《ともあき》というこれも大旗本の息女で、女には手が早いと評判の夫に、隠れ遊び一つ許さないやり手だと、後日、百合は人づてに聞いたが、兄や嫂に揶揄《やゆ》され、絵島にはたじろぎのない目でみつめられて、文次郎はますますあがってしまった。いそいで退《すさ》った拍子に、うしろにいた家士にぶつかり、 「や、すまん」  脇へよけようとして煙草盆をひっくり返した。  根は人のよい羞《はにか》み屋なのだろう。しきりにそわつきながら、取りつくろうように笑う顔は、しなびて、貧相で、体躯堂々とした兄とは似ても似つかない。身体つきも細く、見るからに錬《きた》えの足りなそうな若者なのである。 「いやあ、お美しいな美喜さんとやら……。文次郎が夢中になるのも無理はない。ま、一献まいろう、お近づきのしるしにな」  次郎左衛門が盃を取りあげ、りくが中継ぎしてそれを絵島の手に持たせながら、 「ご家族は?」  と、けげんそうに背後を見る。 「じきに来ますでしょう」 「申しては何ですが、白井平右衛門どのには呆れました。あなたとは父ちがい母ちがい……。名だけの兄妹《きようだい》だそうですけど、ちょっと類のない癇癪持ちですわね」  胸底にまだ憤懣《ふんまん》がわだかまっているのか、無遠慮な白井平右衛門批判をりくはずばずば口にした。 「わたくしもですのよ」 「えッ?」 「兄に劣らぬわたくしも腹立ち上戸……。今日なども下で飲んだわずかな御酒《ごしゆ》のせいか、さっきからむしゃくしゃし通しですの」 「おやまあ」  不快げにりくは皮肉った。 「年ごろの姫|御前《ごぜん》が腹立ち上戸とはあられもない。何をそんなにおこっていらっしゃるんです?」 「嫂《あによめ》の仕打ちですわ。稲生さまご一家とここでお会いするなんて、わたくしはだれからも、ひとことも聞かされずにまいりました」  ところへ佳寿が、しぶる平右衛門をせきたてながら小走りに近づいて来た。 「どうも遅くなりまして……。いつのまにかさっさと一人で先にまいったようですが、このお転婆さんが、わたくしどもの妹の美喜でございます。お見知りおきを……」  言いかけてはじめて、しらけきった座の空気に気づいたのか、佳寿の表情がこわばった。それでも懸命に、 「ご挨拶したの美喜さん。稲生さまご夫妻ですよ。そしてこちらが、文次郎正祥さま……」  と、引き合せにかかる。 「では、このお方が、わたくしを嫁にほしいとおっしゃっておられるご舎弟ですか?」 「身に余るご縁……。お受けするでしょうね?」 「どなたとも、わたしは祝言などいたすつもりはございません。子づれの女では、文次郎さまに限らず、相手方に失礼ですもの」 「なんですって?」  りくがさけんだ。 「美喜さんあなた、子供をお持ちなの?」 「この子が、わたくしの娘でございます」  百合の頭をなでる絵島に、 「悪い冗談はおやめなさいッ」  大声で佳寿が浴びせかけた。 「そんな嘘《うそ》を、よくもまあぬけぬけと、……。お聞きくださいまし稲生さま、このお子は水戸家のお徒士頭を勤める奥山喜内どのの娘御。表医師の奥山交竹院先生には姪に当る嬢ちゃんでございます。芝居見物につれてきてあげただけのことなのに、美喜さんたら、何の酔狂で口から出まかせを……」 「いいえ、出まかせではありません。交竹院先生のお口ききで、ちかぢかにわたくし、甲府宰相のご愛妾お喜代ノ方さまのお館へ出仕するつもりでございます。宰相さまが六代将軍位をお継ぎになり、ともなわれてお喜代ノ方さまが大城へお渡りあそばすことになれば、わたくしも一生奉公を覚悟して、大奥へ移る所存……。このお子を養女に申し受け、手もとで育てて、いずれ死水をとってもらうつもりでおります」 「桜田御殿へ、ご奉公を!?」 「はい」 「それでこの女児を、養女に?」 「養い子でも、子に貰えば母と娘……。わたくしを子持ちと申しても訝《おか》しくはございますまい」  平然と絵島が言い放ったとき、幕間の喧騒を破って、拍子柝が鳴り渡った。開演の知らせである。 「つぎの狂言がはじまるようでございますね。百合さん、失礼しましょうか」  これさいわいとばかり少女に目くばせし、呆気《あつけ》にとられている幾つもの顔を置きざりにしたままそれっきり絵島は階下へおりてしまったが、あとがどうなったか、百合にはわからない。 「お芝居まだ、つづけて見ていたい?」  絵島に問われたとき、 「ううん、もういいわ。帰りましょうよ美喜ねえさま、二人だけで、先に……」  打てば響くすばやさで応じたのは、これ以上、ここにいてはまずいと子供なりに判断したためだった。  白井夫婦の困惑と怒りは、想像にかたくない。ことにも佳寿は立腹して、 「もう知りませんよ。この先あなたがどうなろうと、わたくしどもは面倒を見ませんからね、桜田御殿へでもどこへでも、勝手にご奉公なさいまし」  決裂にもひとしい言葉を義妹に投げつけて、破損奉行に任ぜられた平右衛門ともども任地の大坂へ発って行ってしまったと、後に百合は聞いたが、兄夫婦と袂を分かった直後、絵島の就職も本決まりとなった。  身分は、御使番《おつかいばん》——。お末《すえ》の次に位置する軽輩にすぎないが、 「結構ですとも。骨身惜しまず働いて、行く行くかならず、お喜代ノ方さまのご信任をかちとるようつとめます」  交竹院に絵島は誓った。  百合は淋しかった。養女にしてもらえたのはうれしいけれど、 「部屋子《へやこ》を置けるまでに出世したら、すぐ呼び寄せてあげますよ」  と約束したにもかかわらず、二年待ち三年待っても、絵島からの連絡はない。 「どうしたのかしら……。私のことなんか、美喜ねえさま、忘れておしまいになったのではないかなあ」  やきもき気を揉みながら待ちつづけているうちに、宝永四年十一月二十三日、とうとう迎えの使いがやって来た。富士山が大爆発を起こし、粉雪《こゆき》さながら、江戸の町々に灰を降らせた当日であった。 「山焼けだぞッ」 「駿河《するが》、甲斐《かい》はもとより伊豆、相模《さがみ》、武蔵一円、、成り物は立ち枯れの惨状だそうだ」  地震につづく大火——。そして今度は降灰の被害である。江戸中が大騒ぎになったが、人々の驚き顔、憂い顔をよそに、 「美喜ねえさまに逢える。おそばへ行ける」  百合一人ははしゃぎきった。  亀の甲府     一  絵島からの呼び出しを待つあいだ、百合は学問|手習《てならい》に精を出した。部屋子にあがっても恥かしくないだけの、読み書きの素養ぐらい身につけておきたいとの姪の希望に、 「そうだとも。美喜さんは気性のしっかりしたお人じゃ。わしにも誓った通り、いずれかならず頭角を現すよ。おまえも美喜さんの養女分に迎えられる以上、他の部屋子仲間におくれを取るようではいかん」  うなずいて、みずから指導を買って出てくれたのは奥山交竹院であった。  お針の稽古にも、百合はかよった。御殿には縫物を専門に受け持つお針子たちが大勢いるとは聞いていたけれど、 「美喜ねえさまのお召物の、ちょっとした綻《ほころ》びぐらいは、おそばに仕えるわたしが縫ってさしあげなくては……」  と思い立って、これは伯父ではどうにもならぬため近くの仕立屋に弟子入りし、ほんの運針程度だが手ほどきを受けたのである。 「何ぞひといろ、遊芸も身につけておくとよい。将軍さまのお城にしろ諸大名の奥にしろ、ご奉公を望む町家の娘はみな、茶や花や、踊り音曲の一手ふた手は心得た上でまかり出るそうじゃからな」  とも交竹院は言い、百合に三絃《さんげん》を習わせてくれた。  交竹院自身、多芸多趣味な粋人で、筆跡はぬきん出ているし、席画なども巧みに描く。いまは盆栽に凝《こ》っているが、若いころは野川|検校《けんぎよう》という盲目の名人について琴三味線に熱中し、医術の習得が一時、おろそかになったため、 「勘当する」  と父の隠徳院におどかされたことさえあった。 『松の葉』『若みどり』『当世小唄|揃《ぞろえ》』といったはやり唄の刊行本をたくさん所蔵してい、そんな中から『糸竹《いとたけ》初心集』と題簽《だいせん》にある一節切《ひとよぎ》り、琴、三絃の稽古本を抜き出して貸してくれたし、 「むかし、わしが弾きちらしたひと棹《さお》じゃ。百合にやるゆえ、せめて糸道ぐらいは開けておくがよい」  三味線まで持たせてくれた。師匠は、むろん交竹院で、 「これが一の糸。これが二の糸、三の糸。ここを海老尾といい、糸を巻いたりゆるめたりは、この転手《てんじゆ》でするわけよ」  いちいち基本から教えこんでくれたのである。  おかげで絵島のそばへ行くことになったとき、十歳の少女にしては百合の撥《ばち》さばきはかなり上達していたし、 おぼし召すやら、その恋風が  来ては枕に、そよそよと……  意味も何もわからぬ丸暗記ながら、加賀節の弾き語りぐらいしてのけるまでになっていた。 「仕度などいりません。身体だけ移っていらっしゃい」  と絵島は言って寄こしたが、交竹院は夏冬の着替えをはじめ、当座、入用な品々をこまごま揃えて、 「美喜どのは桜田御殿にはもう、おらぬ」  先方の状況をあらまし、説明してくれた。 「甲府宰相さまはじめ、お仕えする主人のお喜代ノ方さまが大城へお渡りあそばしたため、美喜どのもお供して、いま西ノ丸にお勤めのはずじゃ」 「では、いよいよお代《だい》がわりですね」 「そういうことよ。ご当代綱吉公から甥御《おいご》の甲府宰相さまに、六代目の将軍位が譲られる日も遠くはない。大きな声では言えぬが、だれもがほっと胸なでおろしているのではあるまいかな」 「わたし、見ましたよ伯父さま、お針の稽古に行く途中で……」 「落首じゃろ。何者の仕業か知らんが、江戸の町のあちこちにさまざまな狂歌狂詩のたぐいが貼り出されはじめたようじゃな」 「黒山の人だかりなので覗いてみたら『万年の、亀の甲府が世を取れば、宝永年《ほうえいねん》とみな祝うなり』って書いてありましたよ」 「なるほど、亀の甲府か。年号までを詠《よ》みこんでうまく作ってあるな」  物価の値上りがひどくて、くらしにくいとは、大人たちの口に絶えず交される愚痴だし、生類憐み令の行きすぎは子供の百合にさえ目に余った。  うなぎ登りのすさまじさで物の値段が騰貴したのは、質の悪い銭や金が鋳造され、市中に出回ったからである。貨幣の信用が落ちれば、品物の値打ちは当然つりあがり、物価高となる。悪貨鋳造に踏み切った理由を、 「将軍さまの金づかいが荒すぎて、ご公儀の金蔵がスカスカになっちまったせいだ」  と、しもじもの者は取り沙汰し合った。  地震、大火。  さらに富士山爆発の降灰など、ここへきて立てつづけに人災、天災にも見舞われている。そのための支出も莫大な額にのぼった。  勘定奉行とすれば、財政危機を切りぬけるための背に腹はかえられぬ措置なのであろうが、金の質が粗悪になると人々の心も荒《すさ》んでくる。破れ銭や欠け銭、文字の磨滅した鐚銭《びたせん》などが流通するから、支払うさいはなるべくそれらを混ぜて相手に渡してしまおうとするし、受け取る側はごまかされまいと目を血走らせる。金銭への信用の失墜は、人間同士の信頼関係までをぐらつかせ、だれもが疑い深くなった。  ニセ金もやたら横行した。質の低下した金は偽造しやすい。 「ここ三、四年のあいだに、なんと江戸だけでも牢屋に叩き込まれたニセ金作りが、五百人を越したそうですよ」 「知らずにつかまされて、うっかり使いでもしたら、こっちの手もうしろへ回りますね。くわばらくわばら」  と家へとんで帰って、金箱の中身を一枚一枚改めるようでは、だれの目つきも悪くなって当然だろう。  生類憐み令にしてもそうだ。たんに生きものの命を大切にするというだけのことなら、まだよいのだが、周知徹底させる必要からさかんに密告を奨励した。このため親子兄弟、夫婦友人の仲ですら油断できなくなった。いったん、 「憎い」  と思われたら、何をされるかわからない。 「だれそれは、こっそり鶏をつぶして食べました」 「いつでも家の中では、平気で蠅を叩き殺したり蚤《のみ》をつぶしたりしています」  あることないこと訴えられて、どれほど多くの人が泣かされたか。憎悪する相手を罪人に堕《おと》し、褒美の金までもらえるのだから密告者にとっては一石二鳥の儲けだが、訴人される側はたまったものではなかった。 「わが家の奉公人じゃとて、めったに心を許してはならんぞ」  百合のような子供でさえ伯父の交竹院に、つね日ごろ耳にたこができるほど訓《さと》されていた。 「でも、孫七爺やなら……」 「いいや、たとえ孫七にせよ、とことん信じ切るのは禁物じゃ。欲にころべば、だれしも鬼になれるものじゃでな」  これでは人間同士、情愛も信義も育つわけはない。 (怕《こわ》い世の中だ)  との歎きは深刻だったから、 「お代がわりが近いらしい」  と知って、よろこびの落首がどっと市中に氾濫したのもうなずける。 「万年の、亀の甲府が世を取れば……」  かならず事態は好転する、もっと世の中はよくなると期待され、出現を待ち望まれている六代将軍——。その甲府宰相綱豊ぎみに、お喜代ノ方はいとしがられて、正室や側室は他にもおられるのに、随一のご寵愛を誇っているのだという。 「美喜さんは、このお喜代ノ方さまに仕えるお女中じゃ。そなたは又者《またもの》ではあるけれど、万民の目が熱くそそがれておる西ノ丸御殿にあがる仕合せを、よくよく胆に銘じ、かげ日向《ひなた》なく勤めねばいかんぞ」  とも訓戒されれば、小さな胸はよろこびと緊張にいよいよ膨らむ。 「なに、そう固くならんでもよい。部屋子やお婢《はした》のような軽輩は、かえってお使いなどで外へ出る折りが多いし、宿さがりには帰ってこられる。それにわしは一日おきに登城して、ご本丸のお医師溜まりに詰めておるでな、心づよう思うていてよいのじゃよ百合」  交竹院はそう言って、むしろ水戸邸内の、両親の家へ別れの挨拶に行ってこいとすすめた。     二  掃いたり洗い流したりしたのだろう、表通りからは降灰の痕跡はあらかた消えていたが、寺社の境内だの諸侯旗本の屋敷森など、広すぎて手の回りかねる場所はまだ、うっすら灰をかぶり、雪景色と見るには汚なすぎる景観を晒《さら》している。仕立物屋の稽古場で百合が耳にした話では、この灰落としだけでもえらい金がかかるのだそうだ。 「ご公儀は国々のお大名に課役をかけてね、お持ち高二百石につき二両ずつ、お金を召しあげるんだと……」 「やれやれ、百万石の加賀さまなんて、いったい幾ら取られるだろ」 「さてと、百万を二百で割ってそれに二両を掛ける……算盤《そろばん》を借りてもわたしにゃ勘定できないね」 「幾らになるにせよ相手が富士山とご公儀じゃ尻の持って行きようがないよ。しかも今度の山焼けで、江戸からの遠目にははっきりしないけど、肩のあたりに余計な瘤が|※《ふ》き出しちまったそうじゃないか富士山は……」 「へええ、擂《す》り鉢を伏せたみたいにきれいな三角だったのに、瘤なんぞできては興ざめだねえ」 「年号にちなんで、その瘤山は宝永山《ほうえいざん》と呼ばれることになるらしいよ」  縫子たちは勝手なお喋りを愉しんでいたが、来てみると小石川の水戸邸もご多分にもれず、上屋敷詰めの人員が総出で、灰の除去に大わらわの最中だった。棟々の屋根や築地の峰に乗りあがって、足軽、小者らが手桶の水をかけたり、縄だわしでごしごし瓦をこすったりしている。水面を灰に覆われると、 「鯉が浮いてしまう」  と言うので、交竹院の家でもあわてて池の掻い掘りをしたけれど、水戸家ともなると庭内の広さがちがう。  百合の訪問を知って、父の奥山喜内は役宅へもどって来たが、 「大池の水替えだけでも頭が痛いよ」  と、苦笑した。組下のお徒士《かち》を指揮して働いていたさなかとかで、尻はしょり、たすき掛けの、見栄《みえ》も外聞もない恰好をしている。  邸内はどこもかしこもざわついて、話などゆっくり交せる状態ではなかったし、それでなくても継母の兼世は、たとえ世辞にせよ、 「あがって、茶を飲んでおゆき」  と言ってくれるような女ではなかった。役宅の出入り口に立ちはだかったまま、 「どうせ伯父さんとこへくれてやってしまったも同然なお前なんだから、どこに奉公しようとかまわないけどね、白井のお美喜さんも高びしゃな人じゃないか。『百合ちゃんを養女に頂きます。交竹院先生にはお許しを得ました』って手紙一本よこしたきりなんだからね。曲りなりにもわたしらは親だよ。子供を取ってくのに、そんなやり方があるもんかね」  美喜への不満から、百合にまでぶつぶつ文句を並べたが、さすがに血のつながる父だけに喜内は茶の間の用箪笥《ようだんす》をかき回し、 「さ、これをやろう」  何やら手に持たせてくれた。裏の、牛天神で授与する厄よけのお守りであった。 「娘分の資格で美喜さんの部屋子になるなら、まあ心配はいらんだろう。しかし奉公ともなれば伯父さんの家でのんびりしていたのとはわけが違う。水も変るし食べ物も変る。身体に気をつけねばいかんよ」  異腹の弟の千之介は、百合が土産《みやげ》に持参した風呂敷づつみに、目をみはって、 「姉ちゃん、ありがとう」  だれよりも純粋なしたしみを全身に滲《にじ》ませた。今年、かぞえて六歳になる。ものごころついて以来、母の兼世から、 「お前の足を、こんなにしてしまったのは百合だよ」  と、おそらくくり返し吹き込まれて育ったであろうのに、生まれつき人なつこい性格なのか、たまに逢いに行く姉に恨みがましい顔など見せたことがなかった。  腰をひねり、片足を曳きずるようにして歩く姿は、なんとも痛々しく、目にするたびに、 (ごめんね千ちゃん)  緊めつけられるような胸の奥処《おくが》から、声にならない詫びを百合は絞り出すのだが、他《はた》が気に病むほど当の千之介自身は不仕合せを喞《かこ》っていないようだ。不自由を「常態」と受けとめて成長し、心も身体もが変則な歩行に、いつのまにか馴れきってしまったせいだろう。  包みの中身は、百合が美喜からもらったり伯父に買ってもらったりして、大事にしていた玩具《おもちや》であった。手鞠だのキシャゴのおはじきだの歌留多《かるた》だの、おおかたは女の子向きのもて遊びだが、家の中にばかり引きこもりがちな千之介には、けっこう気のまぎれる贈り物らしい。  いとまを告げて帰りかけると、藩邸の裏門まで、よちよち送って出て、 「また、おいでね」  手を振った。色じろの、品のよい笑顔……。みそッ歯の蝕《むしく》いまでが愛らしく、あどけない。伯父の交竹院と離ればなれにくらすこと。それと、弟に別れることの二つだけが百合にはつらかった。  大城へあがってみると、でも、たちまち淡い感傷などどこかに吹き飛んでしまった。三年ぶりで、今は『絵島』の名で呼ばれている美喜ねえさまに会えたうれしさ……。白井平右衛門夫妻が大坂に赴任してしまったため、帰る家がなかったせいもあるけれど、絵島は宿さがりもとらず懸命に仕事にはげみ、その悧発さ、まめまめしさをお喜代ノ方に認められて、御使番から御右筆頭《ごゆうひつがしら》、御客《おきやく》会釈《あしらい》へとすすみ、つい先ごろ、七人いる御年寄《おとしより》の末席に加わったのである。名も『絵島』と変り、六間つづきの私室をいただいて、異数ともいえる出世の早さを女中仲間にうらやましがられていたのだ。 「百合さんまあ、大きくなったこと! 目鼻だちもととのって、すっかり娘らしくなりましたよ」  よろこんでくれたが、その絵島のほうこそ美しさに磨きがかかって、裲襠《うちかけ》の裾を曳いた立ち姿などほれぼれするほどの貫禄に映った。  西ノ丸は、ご本丸とは堀をへだてた南側に位置し、外桜田の御門からが大手への正式なはいり口となる。  西ノ丸大奥に隣接して、すぐうしろの紅葉山は東照宮はじめ、歴代将軍家の御霊《みたま》を祀《まつ》る御廟所であった。  見るもの聞くもの百合には珍しく、御殿の広壮さにもとまどうばかりだし、 「うっかり絵島さまのお居間から出たら、迷子になってしまう」  と、一人歩きを恐れさえした。 「まだまだこれでも、ご本丸の奥向きにくらべれば狭いのよ」  絵島は笑って、 「新しくわたしのところへ来た養い娘の部屋子です。どうぞ目をかけてやってくださいね」  朋輩《ほうばい》や下役のだれかれに、百合を引き合わせた。 「賢そうなお子ですね。でも絵島さまのお若さでは、娘分というより姉妹に見えますよ」  などと長局《ながつぼね》のどこでも新参の百合はあたたかく迎えられ、伯父の家を恋うひまもなく城中の生活に溶けこんでいった。  絵島附きの女中は、百合のほかに五人いる。相《あい》ノ間《ま》とも局脇《つぼねわき》ともよばれる年かさの仲働きと、炊事を主《おも》に引き受けている多門《たもん》という役名の下女……。そのほか使い走りのお小僧が一人いて、この女児は百合より三つ年下の七歳だった。 「お部屋ではね、お仕えするご主人を、旦那さまって呼ぶのよ」  先輩ぶって、そんなことをまず、教えてくれたのは、名を俊也《しゆんや》と名乗る小ましゃくれたお小僧である。     三 「え? 旦那さまって呼ぶの? 絵島さまのことを?」  百合は聞き返した。 「なんだか変ね。女のご主人なのに……」 「女でも、大奥では旦那さまか、さもなければ、あなたさまって呼ぶのよ」  断乎たる口ぶりで俊也は反撃する。並はずれて早口な、おしゃべり好きの少女で、部屋での渾名《あだな》は『たにし』という。あさぐろい顔の中央に、くしゃくしゃと目鼻が寄り集まったところは、なるほど、どことなく田螺《たにし》の印象に似かよっている。 「あたし今まで、美喜ねえさまってお呼びしてたから、あなたさまだの旦那さまだなんて、言いづらいわ」 「だめだめ。郷に入れば郷に従えって諺《ことわざ》にもあるじゃない? ここでくらすなら、ここの言葉に馴れなければね」  と、まくし立てる生意気さが、そのくせ憎めなかった。  正反対に無口なのは、多門役のお丑《うし》という女で、名は体を現す仏頂面《ぶつちようづら》な下女なのである。百合が初対面の挨拶をしたときも、 「うう」  と咽喉に絡んだような唸り声を発したきり、名を名乗るでもなければ、「よろしく」でもない。七、八人かかっても動かせない石臼《いしうす》を、かるがると一人で運んでのけるほどの大力の持ちぬしだと聞くと、感心するより気味がわるい。 「でも見かけによらず芯は実直な、骨惜しみしない働き者なのよ。酔っぱらうと山出しの地金が出て、胴間声《どうまごえ》を張りあげるの。米搗《こめつ》き唄ひと色だけだけどね」  と俊也はすっぱぬく。  新参の百合がいちばん頼りにしたのは、若江という名の相ノ間だった。三十そこそこ……。主人の絵島より年嵩《としかさ》だけに、目くばりが行き届いて親切だし、おのずと部屋子たち全員を監督する立場にあった。  絵島は朝、出仕すると、遅くまでもどらない。奥での宿直《とのい》も義務づけられていたから、ほとんど一日、百合は絵島の顔を見ずにすごす日もある。そんなとき母代り、姉代り、師匠代りにもなって、行儀作法はじめ城中のしきたりいっさいを躾《しつけ》てくれるのは若江だった。  御殿へあがった最初の日も、百合を御錠口《おじようぐち》へつれていって、 「さあ、よくごらんなさい。畳廊下のはずれに厚いお杉戸が立っていますね。この戸が、御広敷《おひろしき》と奥向きを分けるたいせつな境界なのです」  若江は教えた。 「ここから奥が男子禁制——。百合さんもお杉戸から内で見聞きしたことがらを、かるがるしく他言《たごん》してはなりませんよ」 「はい」  神妙に、百合はうなずく。おぼえることはたくさんあるし、習う仕事もなかなか多い。 (迷子にならないか)  と恐れていた西ノ丸大奥の広さも、又者が立ち入ることのできる範囲は限られていたから、やがて隅から隅まで諳《そら》んじてしまった。  ひとくちに長局といっても身分格式によって部屋には差があり、絵島たち御年寄は一ノ側《かわ》と呼ばれる棟に住んでいる。  御客会釈、御錠口役は二ノ側。表使《おもてづかい》、右筆などは三ノ側と四ノ側に部屋を与えられていた。  それ以下の女中たち——火ノ番だとか仲居、お末など、雑用を分担する者たちは下側《しもがわ》におおぜい、ひしめき合っていて、部屋部屋に使われる又者まで加えれば、西ノ丸だけで二百名を越す大世帯だった。  くだされ物もたくさんある。伯父の奥山交竹院は、 「朋輩の手前、恥をかかないように……」  と、ひと通りは着る物など用意して、百合に持たせてくれたが、部屋子や小僧は紅絹裏《もみうら》のついた縞《しま》ちりめんの仕着せ、髪は稚児輪《ちごわ》に花かんざしと決まっていたから、家から持参した衣裳など箪笥にしまい込んだきり手を通す折りもなかった。  菓子だのくだものなどは絵島がお喜代ノ方から頂戴してきたのを、退出後、百合たちにくれるので、ときには食べきれないこともある。ほうぼうからの献上品が、おさがりの形で逆もどりするわけだし、市販では見られない結構な蒸し菓子、打ち物などが、日常の間食となった。 「残しては、もったいない」  と、戸棚などにうっかり仕舞うと、鼠を呼ぶ材料になるので叱られる。生類憐み令の余波がこんなところにまで打ち返していて、猫が飼えないのだ。万一、猫が鼠を捕りでもしたら飼主はお咎めをこうむってどんな目に遭うかわからない。 「気にしないでいいのよ。貰い手はあるんだから……」 「お菓子の?」 「そうよ。やりに行きましょうよ百合さん」  俊也が先に立ってつれて行ってくれたのは、『七ツ口の手すり』と呼ばれる御広敷の裏手であった。  西ノ丸には七ツ口が二ヵ所あり、その一方に締め戸番の役人が詰める番所が設けられている。斜め向かいには、伊賀者の詰め所と添番《そえばん》の詰め所……。そして、そのうしろに横板が張られ、丸太の手すりが付いていて、下は土間になっていた。  俊也がここから半身を乗り出して、 「市助さん、角三《かくぞう》さん」  と呼ぶと、 「おう」  同音に答える声がして、手すりの下へだれか寄って来た気配である。 「いらっしゃい百合さん、この人たち、うちの旦那さまに使われてるゴサイさんよ」 「ゴサイ?」 「そう。男の使用人。男だからお部屋へは入れないの。毎日、この手すり下の土間まできて、お仕事を言いつかるのを待ってるのよ」  ゴサイとは、どういう字を当てるのか、訊《き》いても俊也は知らないという。 「年とってるほうが市助さん、上《かみ》ゴサイといって少し偉いの。若い人が角三さん。下《しも》ゴサイよ」  新しく絵島さまの部屋子になった百合さんだ、と引き合わされて、二人の男は、 「目はしの利きそうな子だね。幾つだい?」 「よろしくたのむよ」  馴れ馴れしい笑顔を見せた。唐桟《とうざん》の着物を尻はしょりし、上に牡丹餅紋《ぼたもちもん》のついた銘仙《めいせん》の羽織を重ねている。腰にさしているのは脇差が一本だけ……。むき出しの両|脛《ずね》に千草股引《ちぐさももひき》をはき、素足に麻裏草履を突っかけた姿は、供奴《ともやつこ》というには野暮《やぼ》ったすぎた。  宿元への使い、あるいは信心している神仏への代参、私用の買物などに使うため、常時、所定のこの場所に詰めさせておくいわば家来のたぐいで、奥女中も御年寄になると、男|扶持《ぶち》三人、女扶持は七人までの支給が認められている。つまり官費で男女十人の使用人が傭えるわけなのである。  朝はめいめい自宅で済ましてくるけれど、ゴサイの昼食は旦那の部屋から与えられる。炊事係りのお丑がつくる弁当を、市助や角三もぱくつくわけだが、菓子など、頂き物が余った場合、 「この人たちにあげれば、よろこんで食べちゃうわよ」  と俊也は言うのであった。 「そうだよ。百合ちゃんとやら……。食いものとはかぎらねえ。いらない品があったらあんたもおれたちにお寄こし。何によらず貰っちまうからな」  差し出した菓子の包みを受け取りながら、ねだりがましい口をきく。給金は年に二両前後……。役得がなければやってゆけない勤めではあろうけれど、卑しさが皮膚さながら表情に貼りついてしまっている男たちなのであった。     四  そのくせ百合も俊也もが、しょっちゅう『七ツ口の手すり』へ出かけた。西ノ丸大奥の中でただ一ヵ所、ここだけが外部に向かって開かれた窓なのである。  市助や角三ばかりではない。ほかの部屋部屋に所属するゴサイたちも、手すりの下で日なたぼっこしているし、大奥出入りの用達商人も来ている。  商人連中は主人みずから詰めているときもあり、番頭や手代がくるときもあるが、買物があれば部屋部屋から注文が出され、品物はほとんどその日の夕刻までに届く仕組になっていた。  商人たちもゴサイも、帯に大きな革袋をさげていて、中に御門札を入れている。 「これさえあれば出はいりは自由自在さ。籠の鳥のお女中衆はうらやましかろう」  と見せびらかして、 「代りに言《こと》づけでも手紙でも、持っていってやるぜ。百合ちゃんの親元はどこだね?」  市助はたずねる。 「小石川の、水戸さまの邸内よ」 「へええ、水戸家のご家中かい。お父《と》っつあんは……」 「でも、身もと引き受け人は伯父さまなの。表医師の奥山交竹院って人、知ってる?」 「本道《ほんどう》の先生だろ。百合ちゃんは奥山さんの姪御《めいご》かね?」 「そうよ。こんどお便り書くから伯父さまの屋敷へ届けてね」 「駄賃しだいだよ」  と要求はあざといが、おかげで伯父と文通できるし、父の喜内が交竹院にことづけたのか、 「ねえちゃん、おやどさがりのときは、きてください。まってます」  習いはじめた仮名文字で一生懸命書いたらしい千之介の手紙までが、ゴサイを通して入手できた。  出入り商人の中に、栂屋《つがや》善六という者がいて、俊也や百合を絵島の部屋子と知ると、顔を見さえすれば、 「こんにちは」  にこにこ声を掛けてくるようになった。 「何ぞお入り用の品があったら手前が買ってきてさしあげますよ。市助さんたちにお申しつけになると駄賃を取るばかりかピンはねします」 「ピンはね? 嘘でしょう」 「嘘など、だれが言うものですか。近ごろ江戸市中のお子供衆のあいだで引っぱりだこなのは、箔押《はくお》しに泥絵《どろえ》で頼光《らいこう》鬼退治などの図柄を描いた羽子板です。正月も近いことだし、求めてきてさしあげましょうかな?」  そんな提案にそそられて、 「おねがい。買ってきて……」  百合も俊也もがとびつくと、すぐ栂屋は調達してくるばかりか、 「金はいりません。お年玉がわりに進呈しますよ」  と、気前よく手を振る。 「わるいわ。貰っては……。ねえ俊ちゃん」 「そうよ。お鳥目《ちようもく》、取ってよ」  子供でも、それくらいの常識は働かせるのだが、 「いりませんてばさ。わたしゃ子無しなのでね、小っちゃな嬢ちゃんがたを見ると可愛くてならないんです。ご遠慮は無用になすってくださいよ」  他意なさそうな口ぶりで栂屋は言う。  安物の羽子板が、つぎは値の張るうんすん歌留多になり、たちまち立派な双六盤《すごろくばん》にまで昇格すると、百合たちもさすがにいささか、気がとがめだした。象牙の駒と漆塗りの台が組み合わさった高級品はすでに玩具の域を越えている。 「賽《さい》を二つ振り出して、駒をこう、打《う》っ違《ちが》えに進めてゆくやり方を、折羽っていうんですって……」 「柳とかいう打ち方もあるそうよ」  こそこそ遊んでいるのを若江に見つけられて、栂屋善六からの贈り物だと、他愛なく白状させられてしまった。 「栂屋?」  若江は眉をひそめた。 「米や薪炭を扱っている店ね」 「なにを商う人なのか、よく知らないけど、七ツ口の手すりで時おり顔を合わせるうちに懇意になったんです」 「手すり下の土間にくる町人は、呉服小間物、紅おしろいや髪油など女中衆の使う日用品を売るか、さもなければ部屋方のあつらえ物を買いととのえて届ける使い屋にかぎられているのに、米穀商がうろつくなんて訝《おか》しいわ。おおかた新店《しんみせ》か何かで、奥に手蔓が欲しいんでしょ。ご用達の仲間入りしたいために折りを狙っているんですよ。あなたがたに物をくれるのも絵島さまに取り入る魂胆からなのだろうから、むやみに栂屋なんぞに籠絡《ろうらく》されてはいけません」  市助だの角三など、ゴサイたちとしたしくしすぎるのも感心しない……そう若江は注意する。ついでに、かねての疑問を口にしたら、 「え? ゴサイという字? 五斎《ごさい》と書くようよ」  と教えてくれたが、ではなぜ、五の字に斎の字なのか、そのわけまでは若江も知らなかった。  七ツ口の伊賀者の詰め所には、大きな櫓型の南蛮時計が置かれていて、時刻がくるとギリギリ音をたててゼンマイが巻きほどけ、チャーン、チャーンと時鐘が鳴る。それもおもしろくて、子供たちは入りびたるのだが、若江に言わせれば伊賀者などとも、やたら部屋の女中たちは口をきいてはいけないのだそうだ。  奥ではあの人たちを、イガ者と濁って呼ばずに、イカ者と澄んで発音する。世間で偽造品、まがいものを、 「こりゃイカモノだよ」  と侮蔑《ぶべつ》的に言うのは、伊賀者から出た言葉なのだ、出自《しゆつじ》からして忍び、隠密など、うす暗い陰の部分で働いてきた者どもである。正式には士分とも認めがたい連中なのだから、いくら子供だからといって不用意に近づいてはならぬとの、若江の意見は、どこまで信じていいか少々|胡乱《うろん》としても、しかしそれなりに説得力はあった。 「わかりました。ごめんなさい」  俊也も百合も、以後はつつしんで、なるたけ七ツ口の町人溜まりに近づかぬ算段はしたけれど、もともと五斎たちに昼飯を届けるのはお小僧の役だから、やはり外部の男どもと少女たちの接触は、すっぱりとは断ち切れなかった。 「かまいませんよ。貰ったからって、たかが女の子のもて遊びじゃないの。栂屋が自身言う通り、百合さんたちが可愛くて持ってくる贈り物かもしれないのだからね。気を回しすぎても、かえって妙なものですよ」  と、闊達な絵島は歯牙にもかけない。  彼女にかぎらず、西ノ丸大奥ぜんたいが目立ってこのところ活気づき、高揚状態を呈しているのは、かねて、 「楽観できぬ」  と噂されていた五代将軍綱吉の容態が、にわかにここへきて悪化しはじめたからである。  まさか口に出して、それを寿《ことほ》ぐわけにはいかないけれど、 (お代がわりも目前に迫った)  との弾みは、だれしも抑え切れなかった。  名を『家宣《いえのぶ》』と改めて待機中の前甲府宰相綱豊はもとより、そのまわりをとりまく女性たち——正室の近衛|煕子《ひろこ》、側室|新典侍局《しんてんじのつぼね》お須免《すめ》ノ方、やはり側室の右近局《うこんのつぼね》お古牟《こめ》ノ方、そして左京局《さきようのつぼね》お喜代ノ方までが、 (ようやくわが君の頭上に、日ざしがほほえみ出した)  そんな感懐を、揃って抱かされたのであった。  綱吉将軍による不当な冷遇に、それだけ家宣が、長期間、泣かされた証拠だが、 「どうやらお喜代ノ方さまはおめでたらしゅうございますよ」  前後して流れた情報には、 「ほんとうですか!?」  煕子の眉がくもった。 「女の子でしょうか男の子でしょうか」  生まれてみなければわからない。でも、男であれ女であれ、側室たちにこの上、みごもってなどもらいたくないというのが、じつは正夫人の肚《はら》なのであった。  煕子は、過去に男女一人ずつの子を生んだ。しかし、二人ながら早死してしまったし、次にお古牟ノ方が生んだ家千代という男児も、育たずに夭折《ようせつ》している。  いま、家宣の一粒種は、お須免ノ方を母とする大五郎という世子《せいし》だけだが、 (一人あればよい。お喜代にまで、お腹さまなどに成り上ってほしくない)  とする嫉《ねた》みにも、煕子は揺さぶり立てられるのである。     五  それからしばらくのあいだ、百合のような又者たちまで本丸への移転準備に忙殺された。うれしい忙しさだった。  宝永六年正月十日、ついに五代将軍綱吉が薨《こう》じたのである。享年、六十四歳——。病名は、前年の冬から関東一円に流行のきざしを見せていた悪性の感冒で、高熱、悪寒《おかん》、嘔吐《おうと》、発疹《はつしん》などの症状を伴うところから麻疹《はしか》とも疱瘡《ほうそう》とも、医者によって診断は一定せず、的確な治療法が見つからぬまま年を越してしまったのであった。  綱吉もいったんは持ち直し、酒湯《ささゆ》を浴びるまでに軽快したが、下痢による衰弱に勝てなかったのだと取り沙汰された。  臨終の床に、綱吉は、後継者ときめた前甲府宰相綱豊——改名して『家宣《いえのぶ》』と名乗りはじめた甥を招き、 「わしの死後も、生類憐み令だけは遵守してくれ。何よりの、それこそが叔父への孝養であるぞ」  くり返し遺言した。枕頭には側用人の柳沢美濃守|吉保《よしやす》も憂い顔を並べていたが、家宣は叔父が息を引きとるとただちに、 「生類憐み令を撤廃する」  と宣言した。 「先代のご遺志を踏みにじる形になるのは心ぐるしいが、すでにこの法に触れて多くの人々が罪に堕《お》ち、密告の奨励による人心の荒廃もはなはだしい。本来、生きものへの慈悲の精神から発布された法が、人を悩ませる悪法に変じている。悪は改めるのが為政者たる者の道だからな」  柳沢吉保は、まだ、この時点では老中職を罷免されていなかった。 「仰せの通り、生類憐み令が世間一般の不評を買い、継続についてとかくの批判が出ていることは、わたくしも承知しています。しかし先君のご遺骸を納棺するかせぬうちに、はやくもご遺言を破らるるのはいかがなものでしょうか。せめてご葬儀がすんでのちに、存廃を議せられても遅くはないとぞんじますが……」  と、抵抗する気なら、そのくらいは言えたのだ。  彼は、でも、無言のまま頭をさげた。家宣の全身からほとばしる改革への熱情——。怒りに裏打ちされた火のような意志の前に、なまじな抗弁など、 (無意味!)  と覚ったのだろう。  歴史が、大きく暗転する軋《きし》みを、柳沢は聞いた。演技し終った役者は、 (黙って舞台から去るほかない)  とも痛感した。  そのまま足ばやに御用部屋へもどってくると、同じ側用人の松平|輝貞《てるさだ》、松平|忠周《ただちか》ら、やはり先代に重用された臣僚たちが不安そうな表情で、 「御前態《ごぜんてい》、いかがでござった?」  問いかけてきた。 「終り申した。なにごともな」  言い捨てたきり、柳沢は退出してゆき、綱吉の葬送がすむのを待って隠居落髪……。保山《ほうざん》と名を改めて巣鴨の下屋敷に引き籠《こも》ってしまったのである。  まさしく一つの時代の終焉、新しい次の時代の幕あけと見えたが、松平忠周はじめ、心中ひそかに、 (いいや、終ってはおらぬ)  つぶやく者も少くなかった。 (木に竹を接《つ》ぐような、唐突な変革を強行しようとすれば、たとえその理想がどれほど純粋であっても反撥をまねく。政治とは元来、汚いものだし、汚水には清水《せいすい》にない混沌とした活力がある。せきとめても地下をくぐり、いつの日か再び、地表に噴き出してくるにちがいない)  その予測の根拠となったのは新将軍家宣の健康状態だった。 (短命……)  と口には出さないまでも、眼の鋭い者はそろって洞察していた。  家宣はすでに四十八歳——。それなのに世子には、かぞえ年ようやく一歳の大五郎がいるにすぎない。側室お喜代ノ方が懐妊中との噂もあるけれど、大五郎|君《ぎみ》にしろ、この赤児にしろ、つつがなく育ち切る保証はどこにもないのだ。それほど片はしから、生まれてくる子に夭折されつづけてきた家宣だし、父の虚弱体質が、子らにまで災《わざわい》している家系なのである。 (けっして、長つづきする政権ではない。すぐにまた、次の転換期を迎えることになるのではないか)  柳沢は早まった、もっとも先代との間に、特殊な結びつき方をしていた柳沢のような寵臣では、延命はむずかしいかもしれぬ、でもわれわれの場合、隠忍して時を待つうちには、捲き返しの機会はかならずめぐってくるはずだ、それも、 (さして遠くはない将来に……)  と踏んだのは、松平忠周だけではなかった。  新旧交替の渦の中で、幕閣につながりを持つ重臣たちの思惑はさまざまだが、そこへゆくと庶民層の反応はごく、単純明快だった。 「生類憐み令が解かれたそうだぞ」  どっと、それだけのことで歓声が湧いた。  綱吉の葬儀は一月二十二日、上野の東叡山寛永寺でおこなわれ、二十八日、埋葬——。翌月十二日に勅使が下向し、『常憲院殿《じようけんいんでん》』の諡号《しごう》と、正一位太政大臣の追贈があった。  生類憐み令が撤廃されたのは、葬儀の二日前で、江戸西郊の中野・大久保に設けられていた犬小屋も、即時、廃止となった。  保護の目的で生類方という役職を置き、鳶《とび》や雁《がん》などを飼育させていたし、石川島では鶴を囲いの内に入れて餌を与えていたが、それらもいっせいに大空へ放たれた。 「飛んでゆくぞ」 「おお、帰るのだな、故郷《ふるさと》の山や海に……」  鳥たちの羽ばたきを、めいめいの心の解放に重ね合わせて人々はよろこんだ。 「罪人も許されるとか……」 「向かいの泥鰌《どじよう》屋の爺さま、では家へもどれるな」 「わしの兄貴は、大川でこっそりハゼを釣った咎《とが》で、召し捕られました。ご赦免になりましょうか」 「なるとも。生類憐み令で罰せられた者には、すべてご赦免の沙汰がくだるそうだよ」  施行年月が長かったから、延べでいえば何万、何十万もの科人《とがにん》が出たし、江戸だけでもこのとき、数百人が入牢|吟味《ぎんみ》中だった。罪案が決定しないうちに獄死したため、塩漬けにして保存している屍体だけでも十体近くあったのである。  このほか、遠島、追放に処せられて服役中の罪人が、江戸市中と府下だけに限っても八千六百数十人……。日本全国ではさらにおびただしい数にのぼるが、ことごとくそれらが大赦の恩命に浴した。  綱吉の死に引きつづき、その感冒に感染したものか御台所の浄光院殿《じようこういんでん》が五十二歳で薨じた。  大御所夫妻、前後しての逝去だから、歌舞音曲の停止《ちようじ》など重い服喪が触れ出された。でも世間には、喪中のつつしみなど、みじん、見られなかった。 「亀の甲府が世を取った」 「宝永年《ほうえいねん》のお祝いじゃ。お祝いじゃ」  踊り出さんばかりの景気が漲《みなぎ》った。  生前、綱吉は、城中の北ノ丸に隠居所を造ろうと計画し、邪魔になる飯田町近辺の民家に、よそへの引き移りを命じていたが、その死によって当然、新御殿の建造も中止となり、住民たちは、 「移転に及ばず」  との達しに、 「助かった……」  思わず笑顔を見交し合った。  悪貨の流通も禁止されたし、これまで将軍家が出御するたびに、犬の仔一匹通さなかった道路規制までが、 「急患や出産に駆けつける医師、産婆にかぎり、通行くるしからず」  と緩められて、 「さすが苦労人だけに、下情に通じていらっしゃる。こんどの将軍さまは話せるおかただなあ」  人々を感激させた。     六  将軍宣下の式をあげて、家宣が正式に六代目の大封を継いだのは宝永六年五月一日——。江戸の町々にも大城の空にも、端午《たんご》の幟《のぼり》がはためく皐月《さつき》晴れの日であった。  西ノ丸から本丸へ……。どうにか引越しを終らせて、女中たちもほっとひと息入れながら幟を仰いだ。大奥に立てられたそれは、家宣の嫡男大五郎のためのものである。  去年、宝永五年の十二月二十二日、西ノ丸御殿で誕生したのだから、満で数えればまだ生後、五ヵ月にも満たぬ嬰児だが、父なる家宣が将軍職についためでたい年ではあり、初節句でもあったから、祝いは生母お須免ノ方の住む棟で華やかに挙げられた。 「だけど、肝腎かなめの若さまが二、三日前からひどいお熱ですって……。お乳母をはじめ不眠不休の看病だそうでございますよ」  絵島の肩を揉みながら相ノ間の若江が言う。同情を匂わせた口ぶりの裏に、どことなく大五郎の病気をこころよがっている響きがあった。 「夏風邪だろうかねえ」  と絵島の調子にも、他人事《ひとごと》の軽さがある。珍しく今日は退出が早かったので、彼女は髪を洗い、湯上りの単衣《ひとえ》にくつろいで、のびのびと脇息《きようそく》に片肘《かたひじ》を突いていた。奥山百合がその手の爪を切り、お小僧の俊也は団扇で風を送っている。  西ノ丸も広かったけれど、本丸の大奥はさらにいっそう広大だし、新しく絵島が賜わった私室も、階上階下を合わせると畳数だけで八十畳近い枚数が敷けた。これにたっぷりした板敷が付く。  庭に面した上《かみ》廊下——。その、すぐ脇に二間に仕切られた縁座敷があり、一方はお仕舞い所と呼ばれる化粧ノ間、つづいて床ノ間付き八畳の上ノ間、二ノ間。六畳の次ノ間がさらに二つ附属する。その脇が若江たち仲働きの詰める八畳の相ノ間で、二階への階段が隅にあった。  中央は吹きぬけの入側《いりがわ》に作られ、高窓からにぶい日ざしが落ちてくる。上は物干しになってい、万力で常時、紅網代《べにあじろ》に真鍮紋《しんちゆうもん》を打ちつけた絵島の乗物が吊してある。  百合や俊也ら、部屋子どもは相ノ間の次の八畳で寝起きし、お丑たち炊事洗濯を受け持つお末の多門は、下《しも》廊下に面した八畳間でくらした。  土間と、板敷の台所が横にあって、相ノ間との境は洗い場までいれると、十畳は充分ありそうな総檜造りの湯殿になっていた。絵島がここで入浴し、奉公人は廊下の向こうの下湯殿を使う。厠《かわや》が並び、物置代りに雑物を入れておく向部屋《むかいべや》に隣接して、絵島専用の上厠もあった。  あまりに広すぎて、よほど日脚が長い季節でもないかぎり、相ノ間や次ノ間まで日光がはいりにくい。やむなく中央の入側に高窓をうがったのであろうけれど、それでも昼間から階段の昇り口など掛け行灯《あんどん》をともしっぱなしにしておくほど薄暗かった。 「すこし、陰気ねえ」 「幽霊の出るお廊下があるんですって……。百合さん、知ってる?」 「いやよ俊ちゃん、こわい話はしないでよ。夜、歩けなくなるわ」  初めはびくつきもしたが、やがて馴れて、それぞれ好みの飾りつけなどすると、 (こここそ、わが家……)  そんなしたしみがだれの胸にも湧いた。西ノ丸の大奥では、 (いずれ引き払うところ……)  と見ていたせいか、落ちつけなかったのに、本丸ではそれがない。絵島を中心に、菓子などつまみながらすごす就寝前のひとときは、ことに愉しかった。 「もう、よいよ若江、くたびれたろう」  いたわって、絵島がやめさせようとしても、 「まだ何ともございません。わたしへのお気づかいより、旦那さまのお肩の凝っていること! いましばらく揉みほぐさなければお楽にはなりますまい」  若江は手の力を抜く気配すら見せない。 「今日はながいこと、お喜代ノ方さまのおみ足をさすってさしあげていたからね」 「だるいものだそうでございますね。妊娠中はどなたも、足腰が……」 「でも、ふだんお達者なせいか、案じてたよりずっと悪阻《つわり》も軽かったし、順調にお見受けするので、わたしや宮路《みやじ》どのなど、おそば近くお仕えする者たちはみな、胸をなでおろしているのだよ」 「あとはつつがなく、お生みあそばすことだけですね。いま、たしか……」 「八月《やつき》におなりだけど、裲襠《うちかけ》を召されても、お腹《なか》のふくらみが隠せなくなった」 「五月のいま、八ヵ月のお身重《みおも》とすると、生み月は七月ですね?」 「秋のはじめ……。姫さまでも若さまでもかまわない。どうか事なく出産あそばしていただきたいものだね」 「姫さまだなんて、お気弱なことを……。ぜひともお喜代ノ方さまには、すこやかなご男子《なんし》をお儲けいただかねばなりません」  力み返った若江の言い方をおかしがって、 「こればかりは授かりものだよ」  絵島は笑った。 「御台さまはじめ他の側室はお二方とも子を生んだことがおありだが、お喜代ノ方さまお一人はこんどが初めてのご懐妊だもの、赤児《やや》さまの選りごのみはさておき、母体のご無事をまず、願わなければ……」 「それはもう、申すまでもございません。でも、お子のこともなおざりにはできませんよ旦那さま」 「むろんさ。だが、いくら若君のご誕生を望んだところで、変成男子《へんじようなんし》の秘法でも修すればともかく、人間業ではどうにもならないだろう」 「それそれ、その修法を修験者《しゆげんじや》どもに行わせて、お喜代ノ方さまのご胎内のお子をむりやり女の子に変えようとしている者があるとしたら、どうなさいます?」 「えッ、なんだって? そんなこといったい、だれが……」  驚いて振り向いた拍子に、若江の手が絵島の肩からすべった。 「御台さまとお須免ノ方さまでございますよ。初節句の祝宴にすらお出ましなされぬほどの、大五郎君のひ弱さ……。これまでのお子がた同様、また早死でもされたら一大事ですもの、生母のお須免さまにすれば気が気ではありますまい。万一、大五郎君が亡くなり、お喜代ノ方さまが男のお子をお生みにでもなったら、今度はそのお子が将軍家のお世嗣《よつぎ》ですからね、なんとか邪魔したいと御台さまあたりが智恵をつけて、変成男子ならぬ、変成女子の秘法をひそかに行者に申しつけたと、近ごろ、ささやく声がしきりでございますよ」 「ひどいことを!」  叫ぶように絵島は言ったが、この噂なら百合や俊也までとっくに耳にしていたから、 「旦那さま、ご存知なかったんですか?」  むしろ絵島の迂闊《うかつ》さを不思議がった。  家宣将軍の正室煕子は、近衛|基煕《もとひろ》を父に持つ関白家の姫君だが、輿入れしてまもなく豊《とよ》姫という女児を生んだ。この子はしかし、一年と二ヵ月生きただけで亡くなり、二本榎《にほんえのき》の三行寺、のちに小梅の常泉寺に改葬された。  男の子も誕生はした。でも若君に至っては呱々《ここ》の声さえあげずに逝去……。やはり小梅の常泉寺に葬られている。名も、夢月院殿《むげついんでん》の法名だけという哀れさだし、元禄十二年九月のこの出産以後、御台所は懐胎しなくなった。 「死児を難産された苦しみに懲りはてて、上さまとお褥《しとね》を共になさらなくなったのだ」  と、ささやかれているけれど、百合あたりにはそのへんの真偽はわからない。  宝永四年、お古牟ノ方の腹から家千代という男児が生まれたときは、したがって、 「ようやくお世嗣ができた」  と、周囲は喜悦したものだが、この子もこの世の空気をたった二ヵ月吸っただけで他界してしまった。法名、智幻院殿《ちげんいんでん》……。小石川伝通院に葬られた。  大五郎は、その翌年、出生した。  母のお須免は園《その》中納言|宗朝《むねとも》の娘で、そもそもは御台所近衛煕子の入輿に従って江戸下りし、侍女として身近に仕えていた女性なのである。  お褥辞退を願い出て以後、煕子はお須免を推挙して夫の側室に加えた。それだけに、お須免は御台所と仲がよい。恩義も感じている。 「ご世子大五郎さまのご生母……」  と仰がれる身になった現在なお、むかし通り、女主人に仕えるまめまめしさで御台所にかしずいていたし、腹心と呼んでもおかしくない密着の仕方をしていた。お古牟ノ方やお喜代ノ方にすれば、二人の結束が何となく気になる。若江たち又者の心情にまで、微妙な対立感情が芽ばえはじめてきた昨今なのであった。     七  絵島はすぐ、お小僧の俊也を使いに立てて同僚の宮路を呼びにやらせた。やはりお喜代ノ方のそば近く仕える御年寄で、年は二十六——。絵島より三つ若い。えくぼの寄る愛くるしい顔だちのせいか、宮路は押し出しはやや、軽いが、町家の出だけに人当りがなめらかだし、如才もなかった。  家宣の将軍位襲封が確定すると、正夫人煕子はもちろん側室三人の格もあがり、召し使われる女中たちの身分までがそれに伴っていっせいに引きあげられた。  新規採用者も多く、西ノ丸にいたころとくらべると倍近く人数はふえて、将軍家の大奥らしい陣容を備えてきている。  お喜代ノ方附きの御年寄はいま、七人……。末席だった絵島は一躍、四番目の中堅に抜擢されたが、宮路はその次に位置していて、仲間うちではだれよりも親しい。御年寄筆頭の滝川《たきがわ》はじめ、勝瀬、松坂、浦尾、花沢ら四十代、五十代で占められている同役の中で、絵島と宮路だけが年が接近していたし、長局での私室も隣り合っていたから、奉公人同士の行き来もどこにもまして頻繁だった。  俊也が迎えに行くと、同様、この日お退《ひ》けの早かった宮路は、 「なにかご用ですの?」  気さくに絵島の部屋へやって来た。 「ごめんなさい、お呼び立てして……。洗い髪のままお廊下を歩くわけにまいりませんのでね」 「とんでもない。わたくしのほうから伺うのが当然ですわ。それに、ほら……」  いたずらっぽく首をすくめながら、捧げ持ってきた塗り盆を宮路はそっと絵島の膝先へ置いた。 「うちの多門のいたずらですの。ごらんあそばせ」  上覆《うわおお》いの袱紗《ふくさ》をとり、その下の蠅帳をのけると、現れたのはみごとな切り子の大鉢であった。 「まあ、おいしそう……」  覗きこんで、百合や俊也が生《なま》つばを呑みこむ。見るからに涼しそうな寒天の寄せ物が小ぎれいに盛られていたのである。 「たくさん作りましたので、絵島さまのお部屋にもお裾分けしようと思って仕度していたやさきでした。お迎えがなくても伺うところでしたのよ」 「それは好都合でした」  百合に言いつけて取り皿を出させ、めいめい好きに取り分けさせて、 「さっそく、では頂戴しましょう」  それじたいギヤマン細工のように見える透明な一片を、絵島は口に含んだ。 「いただきます」  先を争って、部屋子たちも楊子《ようじ》に手をのばす。西瓜と真桑瓜《まくわうり》が彩りよく刻み込んであり、寒天には果汁の芳香がほのかに漂って、舌に乗せると溶けそうに甘かった。切り子の鉢が曇るほど冷えているのは、今の今まで籠に入れて井戸の底に吊しておいたからだという。 「夏向きの、こんなしゃれたお菓子を、よくまあお作りになることね、お宅では……」 「多門のお縫《ぬい》って娘が、器用でしてね、いろいろ目先の変ったものをこしらえてくれるのですよ」  お縫は、百合とも仲のよいお婢《はした》だが、同じ炊事係りでも手ぎわの下手な者を傭っていると、うまい食事にはありつけない。絵島の部屋などは、多門のお丑が山出しそのまま蕪雑《ぶざつ》な味附けをするので、汁でも煮物でもがあだ辛く、沢庵漬けなど、 「見てよ、まるで蛇みたいじゃないの」  箸で端のひと切れを摘まんで、俊也あたりが持ちあげると、ぞろぞろ全部つながってくるような切り方が日常茶飯事だった。 「毎日のことですし、これではたまりませんわ。料理人を変えましょうか」  若江がこぼしても、 「まあ、我慢してやろうよ。お丑はお丑なりに一生懸命つくっているのだし、たかが惣菜に、目くじら立てることもあるまいからね」  絵島はかばって、塩からい汁を啜《すす》りつづけている。  でも今夜のように、まざまざ多門との腕の相違を見せつけられると、さすがにいささかは情けなく思うのか、苦笑まじりに、 「お丑にも賞味させておやり」  残りを台所にさげた。お縫を見習って少しは煮炊きの技を磨けと、暗に諷したつもりだろう。 「で、ご用とおっしゃいますのは?」  皿や鉢が片づけられるのを待ちかねて宮路が膝を乗り出した。 「ご馳走さま。とてもおいしゅうございましたけど、これからお耳に入れるのは口当りの悪い、いやな話ですの。お喜代ノ方さまのご懐妊を嫉《ねた》んで、ご胎内の赤児《やや》さまを若君から姫さまへ、転じ変えようと工作している人たちがおられるとか……」 「まあ恐ろしい。そんな企みがあろうなどとは、ちっとも存じませんでした」  宮路は目を丸くする。 「わたくしもたった今、ここにいる若江から聞かされてびっくりしたのですが、修験者に命じて変成女子の秘法を修させておられるのは、どうやら御台さま、お須免ノ方さまらしいのです」 「御台さまがたが!?」  と驚くのも、若江にすれば歯がゆかった。 「ほんとうですか? 若江さん」 「修法の現場を見たわけではありませんから、真実、そのような企みがなされているかどうかは請け合いかねますけど、わたしら又者のあいだでは風評しきりでございますよ」 「あたしたちだってその話、聞いてますわ」  それが癖の早口で、俊也が小ましゃくれた横槍を入れた。 「でもね、お丑さんが言うんです。もしお喜代ノ方さまが女のお子をみごもっていらしたら、どうなるんだろうって……。もとっから女の子のところへ、また、変成女子のご祈祷などしたら、おなかの赤ちゃんはかえってまごついて、男の子に変っちまうかもわかりませんよね」  大まじめな顔つきのおかしさに、 「滑稽《こつけい》なことを言うわねえ、たにしさん」  思わず宮路は吹き出してしまったが、 (笑いごとではなかろうに……)  と、そののんきさも、若江にはにがにがしかった。  御台所が近衛関白家の姫君。  かつて『大輔殿《おおすけどの》』の女房名で御台所のそばに仕えていたお須免ノ方が、これもまた園中納言の息女。  このため二人を取りまく女中たちは、ほとんどすべてと言ってよいほど京から召しくだした女ばかりで構成されている。 「関東者はがさつで礼儀をわきまえぬ。江戸ぐらしの荒々しさに耐えるために、せめて身のまわりだけでも京女で囲み、雅《みやび》た京ことばを耳にしながら過ごしたい」  そう煕子が言ったと聞けば、 (まるで上さまとの婚姻を悔いてでもいるようなおっしゃりようではないか)  と、こちらは生粋の江戸育ちだけに、お古牟ノ方もお喜代ノ方もが、よい感情は持てない。  お古牟は大田|内記《ないき》という小旗本の娘だし、お喜代の父は町医者で、勝田|玄哲《げんてつ》と称した。浅草の唯念寺《ゆいねんじ》境内にある林昌軒《りんしようけん》という塔頭《たつちゆう》に住んでいたが、家宣に見染められて玉の輿に乗るさい、大御番《おおごばん》役の旗本矢島治大夫を仮親とし、その養女分の資格で桜田御殿にあがったのである。  家宣には、部屋住みの不遇時代、お忍びで江戸市中を徘徊《はいかい》した一時期があり、お喜代とはそのころからのなじみであった。天くだりの政略結婚で、正妻に迎えた相手でもなければ、その妻に押しつけられて仕方なく手をつけた側室でもない。  未来の将軍だなどとは夢にも知らずに、お喜代は家宣に抱かれたのだし、家宣もまた一介の町娘を、素《す》のままの男に還って熱愛したのだ。したがって二人の結びつきは固かったが、出自《しゆつじ》が出自だけにお喜代ノ方は、高慢なところのすこしもない気さくな、さっぱりした気質の持ちぬしだった。いわゆる竹を割ったような江戸女……。しぜん、召し使う女中たちにも絵島や宮路のような、江戸生まれ江戸育ちが多く選ばれていたし、側室同士ではお古牟ノ方と、もっともよくお喜代ノ方は気が合った。 「類は友を呼ぶ」  と言う。女主人に似て、仕える女中にも明朗な、小股の切れ上った男まさりが目立つ。絵島あたりもその一人だ。  相模生まれの板東者《ばんどうもの》だけに、若江も日ごろ、京女の集団に反撥する一人ではあったが、部屋子でさえ聞きかじっている噂を、御年寄の重職にいながら絵島も宮路もが、 「初耳でした」  と驚くうっかりさ加減には、 (そんなことでよいのか)  との批判も、内心、湧くのであった。     八  遅まきながら、では、どう対処するか、方法を考えなければならないが、宮路は一途《いちず》にのぼせて、 「お喜代ノ方さまに訴えましょう」  と逸《はや》る。 「いえ、それはいけますまい。余計なご心配をおかけして、お身体に障りでもしたら大変です」 「ではせめて、滝川さまのお耳にだけでも……」 「あのかたは、お年のわりに口がお軽い。ご口外ご無用と申し上げておいても、お方《かた》さまに喋ってしまう恐れがありますよ」  絵島はとめて、それよりも相手方に負けず劣らずの効験卓抜した行者をたのみ、こちらもまた、秘法を修させればよいではないかと提案した。 「変成男子の?」 「それもありますけど、何はさておきお方さまのおん身の息災安穏を祈らせねば……。ご胎内のお子が男女どちらであろうと、わたくしは構わないと思っているのですよ。ご病気勝ちとはいっても、すでにお世継ぎに大五郎君というれっきとした若さまがいらっしゃる以上、男のお子が誕生したところでご次男坊にすぎませんものね」 「そうですね。御台さまのお生みになった豊姫さま——あのかたが亡くなってからこっち、女児に恵まれてはいないのですから、将軍さまも珍しがって、姫君のひさびさのご出生をよろこばれるかもしれませんわ」  行力《ぎようりき》のある修験者を、それではどうやって探すか、つぎの問題はその点だが、ふと思いついて、 「伯父さまの友だちに、乗勝院|快融《かいゆう》という行者がおりますよ」  口をはさんだのは百合だった。 「奥山交竹院先生のお知り合い?」 「はい。芝の愛宕下《あたごした》にお住まいでした、たしか……」 「それは耳寄りな話ね。どんな行者さんなの?」 「白いお髯をたらしたご老人です。もう、だいぶのお年ではないかしら……。盆栽がお好きなところから伯父さまとしたしくなったようです。時おり、みごとな寄せ植えの鉢などかかえて、見せにいらしてました」 「験のほうはどうなのかしら……」 「伯父さまは、『人助けを無数にした偉い行者だ。きびしい修行を今なお欠かさず、年に一度の峰入りも立派に果たしておられる大先達だ』って、しじゅう褒めてますけど……」 「そこまで交竹院先生に太鼓判を押されているならまちがいないわ。ねえ、宮路さま」 「そうですとも。身二つになられるまで、その乗勝院とやらにお喜代ノ方さまのおん身安泰を祈念させましょう。わたくしと絵島さまが、個人で依頼する形で……」  翌日——。百合は使いに出された。  行く先はむろん奥山交竹院の屋敷である。  上五斎《かみごさい》の市助が保護者代りに供につき、真夏の日ざしを日傘でよけながら梅林御門まで出てくると、番卒詰め所で門番相手に世間話をしていたらしく、 「百合さん、お使いですかい?」  栂屋善六が声をかけてきた。 「そうよ。伯父さまのところへね」 「そいつはちょうどよかった。たのみがあるんですがね、聞いてもらえませんか」 「どんなこと?」 「交竹院先生に一度でいいから診ていただきたいんです。背中に、たちのよくない腫れものができちまってね」 「だれの背中に?」 「六ツになるうちの倅……」  ひょいと口をすべらせたのを聞き咎めて、百合は小首をかしげた。 「へんねえ。栂屋さん、前にわたしや俊ちゃんに羽子板だのうんすん歌留多だのを買ってくれたとき、自分ンちには子供がいない、だから嬢ちゃんがたが可愛くて、玩具《おもちや》をあげたくなるのだって言わなかった?」 「申しましたよ、はははは、よくおぼえていなさるねえ」  照れかくしの高笑いを、市助が皮肉な嘲《あざけ》りでさえぎった。 「出放題なでたらめばかり言うから、すぐ尻が割れるのさ。百合ちゃんたちに胡麻をするついでに、おいらや角三の悪口まで喋ったろう善六さん、お見通しだぜ」 「え? あんたがたの? そいつは濡れぎぬだよ」 「とぼけなさんな。五斎どもに買物などたのむと、駄賃のほかにピンはねまでするって、部屋子さんがたに吹っ込んだろうが……」 「いや、ご勘弁ご勘弁。わたしゃ思った通り何でも言っちまうたちだから、つい口がすべったのさ。子供もね、百合さん、実子じゃないんですよ。跡取りがいないのも困るってんで親戚からそのう……そう、甥ッ子をね、貰ったんです。つい先《せん》だってね」 「ヘッ、どうだかわかるもんかい」 「まあさ市助さん。そうツンケンしなさんなよ。あんたや角三さんにもいずれ一杯買いますからさ。——それでね、百合さん、その貰いっ子の甥の尻に……」 「背中でしょ?」 「そうそう、背中ですよ。おできができちまってね」  と、いつのまにか並んで、栂屋善六は歩き出していた。 「だめよ、せっかくのおたのみだけど、伯父さまは公儀お抱えの表医師だから特別に懇意な大名か旗本のほか、ふつうの患者さんは診ないのよ。診てはいけないことになってるの」 「百も承知ですよ。だからそこを、何とか……ね? お願いできませんかね?」 「ああだこうだ口実を設けて、こんどは搦手《からめて》から奥山先生に喰らいつこうって寸法かい」  市助がまた、ずばずばこきおろした。 「ちかぢかお喜代ノ方さまがお子をお生みになったら、養女の百合ちゃんの縁引きということで絵島さまを介して、交竹院先生が表から大奥へ、お子さま附きの侍医に回されるんじゃないか——そう踏んでいるんだろ。え? 善六さん」 「どうもばかに、今日は風当りが強いなあ」  底ぬけに明るい五月の陽光の下で、栂屋はまぶしそうに目をぱちつかせた。 「わたしには欲に絡んだ下心なんぞ、これっぽっちもありませんよ。奥山交竹院といえば本道の中でも、特に小児科の泰斗でしょ。だからこそ倅の腫れものを……」 「でも、おできなら外科よ」 「なるほど、外科か。こりゃあ百合さんのご指摘通りですな。仕方がない。今日のところは、ではお願いを引っ込めてと……ははは、ちょうど四ツ辻にさしかかりましたな。手前はこちらの道から帰ります。ごめんなすって」  立ち去って行くうしろ影へ、 「気をつけなよ百合ちゃん」  唾を吐きかけんばかりな語調で市助が言った。 「大奥に取り入ろうとしている商人どもは、ダニだからね。いったんこうと目星をつけたら離れるもんじゃねえ。あの手合いの口車なんぞにうっかり乗っちゃいけねえよ」 「わかってます。若江さんにも、物など貰ってはいけないって叱られたわ」  うなずきはしたものの上《うわ》の空だった。年に一度の宿さがり以外にも、お使いの名目で絵島は何回か百合を伯父の屋敷へ行かせてくれていたし、 「ひと晩だけなら泊まっておいで」  とも、そのつど許してくれはしたけれど、ひさしぶりに接する町すじの風物は、やはりたまらなく新鮮だった。行き交う物売りの声、荷車のとどろき……。風にひるがえる暖簾《のれん》の下から、腹を反して燕が飛び出すのを見てさえ胸が弾む。  伯父の家の庭も、池の菖蒲が咲き盛《さか》っていて、枝折《しお》り戸からじかに邸内に走りこんだ百合は、紫と白の、重なり合うような群落に、 「わッ、きれい」  思わず歓声をあげてしまった。  太閤江戸へくだる     一  おりよく非番で家にいたとかで、 「やあ、百合か、よく来たな」  交竹院は機嫌よく迎えてくれた。花鋏を手にしている。盆栽いじりに余念なかったようだ。 「お前がいなくなってしまってからは気のまぎらわしようがなくてな。庭木の手入れでもせんことには淋しくてかなわん」  さあ座敷へあがれ、それとも築山の亭《ちん》が涼しくてよいかな、今日はまた、何のご用で来たのじゃと切りなく口を動かすのも、日ごろ無聊《ぶりよう》を喞《かこ》っていた証拠だろう。 「乗勝院さまに、御産《ごさん》平安のご祈祷をお頼みしたいのだそうです」  と、百合は絵島からの伝言を口にした。 「よいとも、さっそく快融坊に伝えておこう」  奥女中が、仕える主人の平産や病気平癒を願って、個人の資格で民間の祈祷師に加持など依頼するのはよくある例だったから、交竹院も気やすく請け合った。 「泊まっていってよいのじゃろ?」 「ええ、旦那さまはそうおっしゃったけど、帰ります。朋輩たちを働かせて、わたしばかり楽をしては悪いから……」 「おとなびてきたな百合。感心なことを言う。よしよし、それなら伯父さんも我慢して、無理に引き止めることはすまい」  絵島さまに差しあげてくれと、孫七爺やに言いつけて交竹院が切らせてきたのは、庭に咲いている菖蒲の花だった。 「まあ、うれしい。こんなにたくさん」 「はじめてお前が絵島どのにお会いした日も、池のほとりは菖蒲の花ざかりだったな」 「この花にそっくりな方だと思ったわ」 「油紙にでも包ませよう」  よく気のつく交竹院は、あり合せの肴で五斎《ごさい》の市助に酒を振舞い、 「荷物を持たせる駄賃じゃよ」  過分な附け届けまで握らせたから、 「いい先生だねえ。匙《さじ》加減もたしかだって評判じゃないか」  帰路、現金に市助は交竹院を褒めちぎった。 「百合ちゃんがうらやましいな。あんな伯父貴なら、おれも持ってみたいよ」  御本丸の大奥へは平河御門から入るが、その前にいま一つ、一ツ橋御門をくぐらなければならない。御門前には二ヵ所、大きな火除け地が作られ、堀を渡ってくる風にざわざわ夏草が揺れていた。  炎昼の日ざしは、日傘では防ぎきれないほど暑いし、草いきれもひどい。なまじ風があるだけに熱風に吹き立てられるようで、百合も市助もたちまち身体じゅう汗びっしょりになった。 「頭がくらくらするわねえ」 「霍乱《かくらん》でも起こしそうだ。どこかその辺で、ひと休みしていこうか」  見回しても、堀端に沿って大名屋敷の土塀ばかりつづく一劃では、日をよける立ち木すらない。 「もうすぐ御殿よ。帰ってお行水でも浴びたほうが早道だわ。でも、それにしても市助さんの顔!」 「赤いかい?」 「まるで金時の火事見舞いみたい」 「おれはすぐ、顔に出る上戸なんだ。交竹院先生がまた、すすめ上手ときてるんで、つい、いい気になって飲んじまったが、暑さと酔いの両方じゃ赤くもなるさ」  笑いながら行きかける背へ、 「もし」  声をかけてきた者があった。おずおずした遠慮ぶかい呼びかけである。 「あら、あなたは稲生さま」  思わず、百合は逃げ腰になった。 「おぼえていてくださいましたか」  と、相手は、うれしそうに近づいて、 「大きくおなりですね」  しげしげ百合を見た。絵島に求婚し、芝居見物にかこつけて見合いまでしながら、手ひどくはねつけられたあの、稲生文次郎正祥だったのだ。 (気を悪くしているにちがいない)  百合は怯《ひる》んだ。兄の稲生次郎左衛門は尊大な、見るからにひと癖ありげな人物だし、その妻のりくがまた、驕慢な女であった。二階桟敷から扇子を落としながら、あやまろうともせず、怒り猛《たけ》る白井平右衛門を向こうに回してあべこべにやり込めようとさえした激しい気性の持ちぬしである。  まして、嫌われた当の花婿どのとすれば、不快さはひとしおであろう。もう二度と、稲生家の人々と顔を合わせる折りはあるまいけれども、 (万にひとつ、どこかでばったり出会いでもしたら、さぞおたがいにばつが悪かろうな)  そんな想像をしていただけに、いきなり文次郎に声をかけられて百合が仰天したのも無理はない。 「白井美喜どのは、大奥に奉公して御年寄にまで出世されたとか聞きましたが、お達者でしょうか?」  文次郎の表情には、しかし少しも怒りの色がなかった。ひたすらなつかしげな笑顔を見せて絵島の近況を訊《き》こうとする。 「お部屋さまのお一人に、お喜代ノ方さまとおっしゃるかたがいらっしゃいます。美喜ねえさまはこのかたのお側にお仕えして、いま絵島と呼ばれておいでですの」 「絵島どの……そうでしたか」  それじたい甘美な味わいでも持つもののように、文次郎は絵島の名をくり返し口の中でつぶやいたあげく、 「兄上ご夫妻はお変りありませんか?」  白井平右衛門の消息をたずねた。 「破損奉公とやらに任ぜられ、白井さまは内室の佳寿さまともども、一家をあげて大坂へ移られました」 「大坂へ? それはそれは、ちっとも知りませんでした」  と、流れ落ちる汗を拭いながら、 「百合さん、とおっしゃいましたな?」  気弱げな口ぶりで文次郎は誘った。 「炎天での立ち話も苦しい。兄の屋敷がすぐ近くなのですが、お立ち寄りくださいませんか。いろいろ伺いたいし、わたしの気持も聞いていただきたいので……」  百合は尻込みした。とんでもない話だ。文次郎一人でさえ持て余しているのに、稲生家になどつれてゆかれて、もし次郎左衛門夫妻にまで対面させられる羽目になったら到底百合ごときの手に負えない。逃げるにしかずと判断して、 「わたし、お使いの帰りなんです。絵島さまの部屋子ですので、道草など食っていては叱られます」  断乎、申し出をしりぞけた。 「いいじゃないか百合ちゃん、あんまり暑いから、どこかでひと休みしようかって今の今、相談してたところだろ。このお侍さまのお宅で冷たい麦湯でもご馳走になって咽喉のひりつきをとめようよ」  市助のねだり声に耳もかさず、 「さようなら」  すたすた百合が歩きはじめたのにあわてて、 「では、せめて御門まで送らせてください」  文次郎は哀願した。対等の大人を相手にしているように言葉つきは叮嚀《ていねい》だし、態度も慇懃《いんぎん》だが、中低《なかびく》の、目尻のさがった顔だちは末成《うらな》りの瓜さながら生気を欠いていたし、男にしては小柄な、骨細な体躯も、あいかわらず百合の目には貧弱に映る。並んで歩き出すと、伸びざかりの百合と文次郎の背丈は、おっつかっつにさえ見えるのであった。 「あれから足かけ五年になります」  溜め息まじりに文次郎は述懐した。 「兄や嫂《あね》は、新しい縁談をつぎからつぎへ持ちこんできますが、よほど未練がましい性格に出来あがっているのでしょうか、わたしには美喜さんが——絵島どのが、どうしてもあきらめられません。一生奉公の覚悟で桜田御殿にあがるつもりだとあのとき、あのかたはおっしゃっておられたけれど、まさか本気ではありますまい。どうでしょう百合さん。いま一度、考え直してくださるようあなたのお口から頼んでいただくわけにはいかないでしょうか?」  返答に、百合は窮した。 (いまさら何を言うか、ばかばかしい)  と、文次郎のめめしさを嗤《わら》いたくもなった。 「絵島さまには意中の人がおありだったのですよ。平田彦四郎さま……。そのお方との恋が実らなかったために、御殿にあがる決心をされたんです」  と、得手勝手《えてがつて》な片想いに、一発、止《とど》めを刺してやりたかったが、市助が脇で聞き耳を立てていると思うと、さすがにそこまでの暴露はできなかった。 「じつは今日も、百合さんに偶然、遇ったわけではないのです。美喜どのが御本丸の大奥に移られたらしいと知って、毎日一ツ橋御門の近くをうろついていたのでした」 「わたしがお使いに出るのを待ってたんですか!?」 「奥出交竹院先生の屋敷へ行かれたでしょう? 見え隠れについて行ったのですが、ついつい声をかけそびれてしまった。で、帰り道、御門の前の火除け地が見えてきたので、このままではまた、機会を失ってしまうとあせって、思い切ってお呼びとめしたわけでした」  そんな優柔不断ぶりが、そもそもじれったいし、執念深さも気味がわるい。 「わかりました。おっしゃったこと、旦那さまにお伝えだけはしておきますわ」  言いすてるが早いか、百合は門を目ざして一散に走り出してしまった。     二  いきごんで告げたのに、しかし絵島は、 「わずらわしい話ね」  薄く、眉をひそめただけだった。 「いい加減に思い切ってくださらなければ迷惑だわ。待ち伏せなどしていられては、あなたを外へ使いに出せないではありませんか」 「しつっこい人ですね。こんど遇ったら手きびしくやりこめてやろうかしら……」 「それより百合さん、行者さんの話はどうなったの? 今日のお使いの眼目《がんもく》でしょ?」  たしなめるとき、絵島の全姿には厳しさが滲み出て、打ちとけたふだんの表情とは別人のようになる。 「すみません。肝腎なことをあと回しにしました」  ちぢみあがって百合は言った。 「交竹院伯父は、こころよく引き受けてくれました。今日にでも乗勝院さんに御産平安のご祈祷を頼みに行くそうです」 「それはよかった」  ニコッと笑うと、急に言葉つきまでが砕けて、 「暑かったでしょう、ごくろうさん」  絵島はやさしくねぎらってくれた。 「この菖蒲は?」 「伯父からの贈り物です。絵島さまに差しあげてくれって……」 「美しいこと。白と紫の二色《ふたいろ》だけなのもすがすがしいわ。お喜代ノ方さまのお部屋にすこしお持ちしましょう」  とりわけみごとなのを七、八本選り出して、絵島は御前へ出て行ったが、やがてもどってくるなり、 「よい知らせよ百合さん、これからはちょくちょく伯父さまにお目にかかることができますよ」  弾んで告げた。 「え、ほんとうですか? なぜ?」 「菖蒲の花がとりもつ縁で奥山先生のお名が出たの。そしてね、『小児科では、折り紙つきの名医だそうな。だれかれと迷うより、交竹院どのを生まれてくる子の主治医にたのもう』と、お喜代ノ方さまみずから仰せ出されたのよ」  そういえば五斎の市助も、 「いずれ大奥お出入りの侍医になる人と目星をつけて、今から奥山先生に取り入る魂胆だろう」  と栂屋善六をきめつけていたが、 (その通りになりかけてきたではないか)  百合は内心、彼らの読みの確かさに舌を巻いた。  ——それはいいが、六月にはいると残暑のきびしさに加えて、連日うっとうしい雨つづきとなり、臨月近いお喜代ノ方の体調が崩れはじめた。きまって夕方になると微熱に悩まされ、手や足に軽度のむくみも出て、まったく食欲を失ってしまったのである。  妊娠の初期から附ききって経過を見てきた産科の専門医が、 「赤児《やや》さまの侍医に奥山先生が内定したのなら、ご出産前に一度とっくりご母体の診察を仰せつけられてはいかがでしょう」  進言したため、交竹院は大奥に呼ばれ、お喜代ノ方の容態を診た。そして別室に退り、二人の医師は小声で相談し合っていたが、やがて御年寄筆頭の滝川に沈痛な面持ちで、 「お産は、楽観をゆるしませぬ」  打ちあけた。 「赤児《やや》さまの、ご胎内での位置が、どうやら骨盤位にあるようです。いわゆる逆子《さかご》でございます」 「逆子?」  滝川の顔色がみるみる変った。 「無事にお生まれあそばすでしょうか」 「腕の立つ産婆をたのみ、われらも及ばずながら力をあわせて、なんとかおん母子のお命をお助けするつもりでおります」  お古牟ノ方が家千代を生んだとき、介添えとして立ち会った千庵《せんあん》という老女が、助産の名人で、 「すでにこれまで、千人もの赤児を取り上げたことがある」  と、その実績を讃えられ、『千庵』の称号を用いるようになった産婆だという。  日ごろ、お喜代ノ方と親密に交際しているお古牟ノ方が、 「さっそく千庵を差し向けます」  と言って寄こしたし、行者の乗勝院快融宅へは、さらに相ノ間の若江が出向いて、絵島と宮路の連名でなおいっそう加持修法に精魂を傾けてくれるよう依頼した。たいまいの祈祷料が追加して支払われたのは、いうまでもない。  六月もなかばを越し、産み月が近づくと、お喜代ノ方の症状はますます予断できなくなった。浮腫がひどくなり、四肢ばかりか顔面にまで拡がって、人ちがいするほど面変りしてしまったのだ。 「お目にかかるのは恥かしい」  ひと間にこもりきって、家宣将軍が見舞いに訪れても対面しようとしない。  絵島の看病ぶりは必死だった。昼夜お喜代ノ方の枕辺に詰めきって、長局の自室にもどって来なくなった。 「ほとんど眠ってもおられないらしいわ」  とお小僧の俊也は言う。 「宮路さまのところのお縫さんに聞いたんだけど、うちの旦那さまは毎晩こっそりお百度を踏んでいるそうよ」  俗に、百間廊下と呼ぶほど廊下は長い。その一方の端に祖師の尊像を安置し、みとり疲れで朋輩の宮路らがうたた寝しはじめる真夜中、絵島は足音も立てずに部屋を抜け出す。そして口の中で題目を唱えながら一心不乱に、長廊下を往復するのだという。日蓮宗の信仰ばかりは、正室、側室の分ちなく大奥にくらす女たちすべての心に浸透していた。 「だれも気づいてはいなかったんですって。ところがある晩、気配を訝《いぶか》って宮路さまが起き出し、金網灯籠のぼんやりした光の下を行ったり来たりする女の姿を遠目に見て、幽霊かと思ったのよ」 「胆をつぶしたわけ?」 「いいえ、泣いたって言うわ。絵島さまだなって、すぐ判ったし、真剣な様子に胸を打たれてね」  聞きながら、百合も泣きたくなった。文字通り不眠不休の介護である。 「いったい、いつ休息なさるの? そんなことをつづけてたら、いずれ旦那さまのお身体が参ってしまうでしょうに……」  いよいよ陣痛の開始、と知れ渡った七月はじめには、お喜代ノ方、お古牟ノ方附きの女中たちはもちろん、その召使の又者までを捲き込んでの異常な興奮に包まれた。法華経|読誦《どくじゆ》の声々……。忍び忍びに叩く団扇《うちわ》太鼓の音も洩れて、 「なにとぞつつがなく、お産が終りますように……」  との願望一つに、だれの心も燃え上った。  側室中、ぬきん出て愛をそそいでいるお喜代ノ方の初産《はつざん》である。しかもどうやら逆子らしいとささやかれて、家宣も心痛した。中奥《なかおく》に待機して吉報を待ちながらも、気が気でないのだろう、寺社に急使を派遣して幣帛《へいはく》を捧げさせ、 「医師の手は揃っておるか? 産婆が千庵ならまず、まちがいはなかろうが、せめてお喜代の一命だけでも救いたい」  と立ったり坐ったり、そわそわし通した。御台所の近衛煕子や、お須免ノ方|母子《おやこ》の住む棟が、鳴りをひそめて成りゆきを見守っている冷静さとは、対照的な熱気であった。     三  産声《うぶごえ》は細く、産婦のお喜代ノ方が二昼夜も苦しみ通したほど重い産ではあったが、ともあれ赤児は誕生した。  宝永六年七月三日——。星空の冴えが深まりはじめた新秋の明け方である。  男の子で、名は鍋松《なべまつ》と附けられた。産科の医師の診断にたがわず、逆子だったのを、どういう方法でか正常位にもどし、分娩にまで漕ぎつけさせた老女千庵の助産の腕前が、あらためて、 「神業《わざ》……」  と、賞歎された。 「さあ、もう、お生まれあそばしてしまえばこっちのもの……」  とも、お喜代ノ方に仕える女中たちは勇み立った。標準より目方が軽く、乳の飲み方すらおぼつかなげな、毀《こわ》れ物のような赤児ではあるけれど、 「かならず立派に成人いたさせてごらんに入れます。ご安堵なされてくださりませ」  奥山交竹院は胸をたたく。小児科の泰斗が受け合うのだから、 (育つかどうか?)  あまりな弱々しさに心中、首をかしげていたひとびとも、この、交竹院の保証に賭ける気になった。  家宣将軍の喜悦は、まして非常なものだった。庶民の家庭と大奥はちがう。御台所近衛煕子の、正室としての権威は、それなりに認めねばならず、大五郎を生んだお須免ノ方にも、世子《せいし》の生母に払う尊敬をつねづね家宣は忘れたことがない。そのほかの側室——お喜代とお古牟に対しても、確執など起こさぬよう公平な扱いをこころがけてきたこれまでだが、男としての感情はやはり別だった。いとしいものは、理屈抜きにいとしい。そして、その正直な思いに従えば、お喜代ノ方こそが家宣の妻であり、命にも代えがたい愛の対象だったのである。 (だめか!)  と一時は絶望しかけたほどの危険からお喜代ノ方が脱出してくれたよろこびは、家宣に日ごろの自戒を忘れさせた。 「よくやった、よくぞ死にまさる苦しみに耐えて、子を生み落としてくれたなって、上さま、お喜代ノ方さまのお手を取って涙をこぼされたそうですよ」  そんな取り沙汰を聞かされると、百合や俊也のような又者たちまでが貰い泣きさせられてしまう……。  お古牟はさっそく祝いに駆けつけて、 「よかった、よかった。お喜代さま、おめでとう」  大きな犬這子《いぬぼうこ》を差し出した。 「芯のしっかりしたあなたのことだもの、きっと難関を切りぬけるにちがいないと信じてましたよ。これはね、石町《こくちよう》の浜庄に注文して特別に作らせた犬這子です。鍋松ぎみの、つつがないご成長を念じて、お守りもたくさん封じてあります」  子育てには欠かせない縁起物の魔除けだが、よく枯らした軽い桐の木地《きじ》に、照りが出るまで厚く幾重にも胡粉《ごふん》を塗りかさね、胴体には金銀の砂子を散らして、極彩色の松竹梅を描くという豪勢なものだった。 「ありがとうお古牟さま」  お喜代ノ方もすっかり安らぎを取りもどした笑顔で、赤児の枕上に犬這子を飾った。身と蓋に分かれてい、刳《く》りぬかれた内側は物入れにもなっていて、 「錦のおくるみに包まれた嬰児《やや》さまが、すっぽり入ってしまうくらい大きく、みごとに出来ているんですってよ」  とは、これまた早耳の俊也がどこからか仕入れてきた噂であった。 「浜庄って、塗り物屋なの?」 「あらいやだ。江戸一番の人形師じゃありませんか。知らないの? 百合さん」  御台所とお須免ノ方も連名で祝儀の品を贈ってきた。使者の口上はこまやかな、いかにも耳ざわりのよい京ことばだが、持参したのは大奥のお搗《つき》屋で搗かせた紅白の鳥の子餅にすぎない。 「なんとまあ、いつもながらけち臭いこと。受け取るほうで気がひけますわね」  使いの女を送り出したあと、お喜代ノ方附きの女中たちは苦笑まじりに言い合った。 「都ぶりのしきたりが、どんなものかはぞんじませんけど、お二方《ふたかた》ご一緒に、鳥の子をたったひと襲《かさ》ねとは……。お古牟ノ方さまの切れ放れのよさにくらべると雲泥の相違ですわ」 「そんな言い方をするものではありませんよ」  お喜代ノ方がたしなめた。 「品物のよしあしではない。祝ってくださるお気持のあたたかさが、ありがたいのだからね」 「それが、じつのところ少しもあたたかくないのでございます」  と昂《たかぶ》り気味に、 「いまだから打ちあけますけど、御台さまとお須免ノ方さまは怪しげな巫蠱《ふこ》の徒輩《とはい》に命じて……」  しゃべりかける宮路の口を、 「およしあそばせ。すぎたことなのに……」  さすがに急いで、絵島が封じかけたが、 「いいえ、もしかしたらご一命にかかわったかもしれない大事です。一応、お方さまのお耳に入れておいたほうがよいと思いますわ」  と宮路はきかない。富裕な町人の家庭で、わがままいっぱいに育ったやんちゃ気質が、江戸女の鼻っぱりの強さ、考えの浅さに相乗して現れると、これはこれで始末に負えなくなるのである。 「臨月まぢかいお方さまに、お気に障る話などお聞かせしてはいけないと絵島どのがとめるので、今まで黙っていましたが、御台さまがたはご出生あそばす嬰児《やや》さまを、ご胎内のうちに女のお子に変えてしまおうと企んで、変成女子の秘法とやらを修させていたのでございますよ」 「まさか……」 「はい。わたくしどももはじめはまさかと思いました。でも、どうやら本当らしいと知って、驚きもし、腹も立てたのでございます。だって、あまりと申せば陰険な、汚ない企みではございませんか」 「まあ、お待ち宮路」  おだやかにお喜代ノ方がさえぎった。 「おなかの子の性別を、祈祷や加持で変えることなどできるだろうか。わたしには、そんなことは不可能に思いますよ」  出自《しゆつじ》からすれば、これも町医者を父に持つ市井《しせい》の育ちである。さすがにしかし、思慮、分別ともに宮路などよりお喜代ノ方ははるかにすぐれていた。江戸女に共通した明るい、さっぱりした気性ではあったが、召使などの口車に乗って、かるがるしく騒ぎ立てる浅薄さは持ち合わせていない。 「はじめから、わたしの胎内に宿ったのは男の子——祈ろうと祈るまいと、だからこそこうして、鍋松が誕生したのでしょう」 「恐れながら、そのお考えは悠長にすぎます。こちらもまた、行者をたのんで応戦したからこそ、あやうく姫さまになるところをくいとめて、若ぎみのご出生を見たのかもしれませぬ」 「祈祷を依頼したのですか? 当方も……」 「いたしました。交竹院先生のお知り合いに乗勝院快融と申す大先達がおられると聞き、修法をお願いしたのでございます。ねえ、絵島さま」  宮路の多弁に辟易しながらも、 「胎児の性を転じ変えるというような、おどろおどろしい祈祷ではありませぬ。お方さまのおん身の安泰を、宮路どのとわたくしが個人の資格で祈らせただけでございます」  仕方なく絵島は答えたが、そんな、御前でのいきさつがだれの口から拡まるのか、たちまち細大洩らさず又者の末にまで行き渡って、茶請《う》けどきの、賑やかな話題となるのであった。     四  案じられた通り鍋松の発育はよくなかった。生まれてまもなく、赤児の大半は黄疸《おうだん》にかかる。しかし症状は、六日か七日、ながくても十日で消えるのがふつうだった。それなのに鍋松の場合、二十日《はつか》すぎても身体じゅうの黄色味《きいろみ》が失せず、 「眠ってばかりおられますなあ」 「お乳の飲みかたも、どうもはかばかしくありませぬ」  と周囲をはらはらさせた。  どうやら、でも、黄疸は癒《なお》り、並の子よりだいぶ歩速はゆっくりしているものの、それからは大病もせず、少しずつ大きくなっていった。生母のお喜代をはじめ絵島や宮路ら附き女中一同の努力、そして何よりは奥山交竹院の、懇切叮嚀な育児指導のたまものであった。 「掌中の珠の若ぎみゆえ、みなさま寄ってたかってちやほやなさるのも無理はござりませぬがの、大切にしすぎると丈夫なお子には育たぬ。時おりは風に当て、日にもお当てなされ。ただし秋の日ざしはきつい。乳母どのがお抱きして、お庭をぐるりとひと廻りほどでよいのじゃ。それだけでもお肌が焼けて、ぐんとたくましゅうなられますぞ」  乗勝院快融の功績も嘉《よみ》せられ、ひきつづき彼は、鍋松の息災延命を祈願することになった。改めてお年寄筆頭の滝川が、お喜代ノ方の意を体して依頼におもむき、つつしんで乗勝院もこれを了承した。  交竹院は二日おきに拝診にくるが、その姪が絵島の部屋子をしていると聞いて、 「どんな子か、つれておいで」  お喜代ノ方が興味を示したため、百合は思いがけず御前に召され、お目通りを許されるという光栄に浴した。 「ね、ね、どんなおかた? お喜代ノ方さまって……。うちの旦那さまや宮路さまより、また段ちがいにお美しいって聞いたけど、ほんとうだった?」  退出してくるなり、俊也に根掘り葉掘りされたが、百合はろくに答えられなかった。  上段の簾《みす》の内に、それらしい透き影を仰いだけれど、ずらりと左右に女中衆の華やかな裲襠《うちかけ》姿が並んでいるし、目が、やたらチラチラして、何が何やらわからなかったのだ。 「名と年を申し上げなさい」  介添えの絵島に小声でうながされて、 「奥山百合と申します。十二歳でございます」  そう言うのがやっとだった。 「伯父さまが悪いのよ俊ちゃん。御前でわたしをからかうんですもの」 「交竹院先生も出仕してらしたの?」 「上段の、すぐ下に坐っていてね、『こう見えても百合のやつは、三味線が弾けるし、加賀節の一つ二つ歌ってのけます。拙老が仕込みました。お慰みに歌わせてごらんあそばせ』なんて、そそのかすの」 「それで、歌ったの?」 「歌うものですか。それどころか、お女中衆が面白がって責めるもんだから、わたし、とうとう泣き出してしまったのよ」 「まあ、可哀そうに……。どうりで百合さんの目、赤いわよ」 「旦那さまが気をきかしてお廊下につれ出してくれなかったら、どうなったかわからないわ。意地悪な伯父さま!」  でも、そんな失態がかえってお気に召したのか、 「吟味《ぎんみ》に出してはどうか?」  と後日、お喜代ノ方から絵島に、誘いのお言葉があったらしい。又者の身分を脱して、大奥にじか奉公する気はないかとの、問いかけである。  当人がそのつもりになれば、絵島が願い親となって二つ折りした小奉書《こぼうしよ》に、奉公したい旨の願い書をしたため、提出して吟味を受ける。身許調べと併行しておこなわれる資格審査だが、これに合格すると御宛行《おあてがい》書きと呼ばれる辞令が出され、役向きと給金、知行《ちぎよう》などが決まるのであった。 「どうする? 百合さん。大奥勤めに踏み切る気持、ある?」  絵島に訊かれて、百合は迷った。じか奉公に切りかえても、絵島とは一つ屋根の下にくらすのだし、精出して勤めればいずれは出世もできる。給島や宮路、滝川たちのように、女ながら四百石、五百石ものお禄を頂く御年寄にも努力次第でなれるのだ。  又者でいるかぎり、それはなかった。せいぜいが若江のように相ノ間の古参となって終らなければならない。そのかわりのんきでもあった。仕える主人が絵島だから何ひとつ気詰まりなことはなく、又者同士の交流の中で四季それぞれの愉しみを享受しながら身に合った働きを忠実にしていればすむ。  このまま給島の部屋子でいたいのが、百合の本心だった。じか奉公に出て苦労を舐めるより、絵島の庇護の下でくらしたい。 (父さんや母さんも、そう望んでいるのではないか?)  実家の状況に思いが及ぶと、百合の気持は、しかし重くるしく鬱《ふさ》いでしまう。  絵島からの貰い物などを、五斎の市助や角三にことづけて時おり百合は家に届けるが、そのたびに礼手紙など書いて寄こすのは、異母弟の千之介であった。字も少しずつうまくなり、文章にも情味が添って、身体こそ不自由ながら、千之介が賢い、素直な少年に育ちつつあるのはわかる。でも継母の兼世はあいかわらずだし、その妻に遠慮してか父の喜内もそっけない。使いに出た日など、絵島の許しを得て水戸邸内の役宅に寄ってみても、居づらくて早々帰って来るありさまである。  千之介が喜内の職を継いで、御徒士《おかち》勤めをすることは到底むりだ。奥山の家は結句いずれは百合がもどり、養子でも迎えて存続させてゆくほかないのであった。 (……と、すれば、身体を縛られるご奉公より、お暇を頂くつもりならすぐにでも頂ける又者勤めのほうが気ままということになる)  だが、絵島がそれを、すらりと許してくれるかどうかはわからない。身分こそ部屋子ながら、百合は絵島の娘分ということになっているし、 「死水はこの子に取ってもらうつもりです」  そんな言い方を、しばしばしてもいる絵島なのである。  狭くるしい役宅に帰り、どうせ水戸家の軽輩にすぎなかろう男を夫に持って、両親や弟の面倒を見ながら終る一生など、想像するだけで百合には我慢できない。じか奉公に出るほうが、それよりずっと増しに思えるけれど、千之介を足萎《な》えにしてのけた負い目からは、やはり生涯、逃げ出せるものではなかった。 (父さんたちが年とったら、あの子の杖代りには、わたしがなってやらねばならない)  それならば、又者のままでいたほうがよいとの結論に、つまりは到達するのであった。 「お喜代ノ方さまも、どうしてもとおっしゃっているわけではないのだから、では、もうしばらくわたしの部屋子でいなさい」  と絵島も言ってくれたが、俊也の意見にしたがえば、「せっかくの好機を逃がす手はない」のだそうである。 「お目見得《めみえ》以上になれば、噂に聞くだけでお顔も見たことのない将軍さま御台さま、お部屋さまがたのおそば近くにだって出ることができるじゃないの。気楽だけれど、又者なんてつまらない。百合さん、ばかねえ」  と、さんざんだ。  このところ女たちの口にしきりに交されているのは、 「御台さまの父上が江戸へくだっておいでになる」  という衝撃的な情報だが、 「じか奉公していれば、その爺さまのお顔だって見られるのに……」  俊也は残念がる。 「お公卿《くげ》さん?」 「太閤さまですとさ。偉いのよ」  名は近衛|基煕《もとひろ》——。後陽成帝を曾祖父に持つ皇胤《こういん》だし、 「北ノ方さまがこれまた、後水尾天皇の皇女さまだそうよ」  と聞かされれば、説明してくれる若江の口許をみつめて、子供たちはただ、驚くほかない。 「じゃあ、御台さまのお母さんは皇女さまなの若江さん」 「そうよ、常子《つねこ》内親王とかおっしゃる姫宮さまよ」 「どうりでお高くとまってるのね」  俊也の批評には辛子《からし》がきいている。 「京から江戸まででは、ずいぶんな道のりでしょうに、なぜ、わざわざ出てくるの? お年寄りでしょ? 太閤さま……」  いぶかる百合に、 「ご老体だからくるのよ。幾らかでも身体がきくうちに、娘の御台さまに逢っておきたいんですって。出費はかさむし、ご公儀とすれば迷惑な話よねえ」  若江は言った。彼女自身の負担にでもなるかのような、露骨な眉のひそめかただった。     五  近衛基煕が、行粧《こうそう》美々しく江戸入りしたのは、宝永七年四月十五日——。重なり合う家並みの果てに、まだ少し、頂きに雪を残した遠富士が、くっきり泛《う》かんで、風は強いが、初夏のこの季節にふさわしく爽やかに晴れあがった日であった。  百合たち又者の部屋子などには隙見《すきみ》すらできなかったけれども、人からのまた聞きによれば基煕は、前夜、とりあえず旅装を解いた浜御殿から、手輿《たごし》に揺られて、まず辰《たつ》ノ口《くち》の伝奏屋敷に入ったのだという。  家宣将軍には左右の腕ともたのむ近臣が二人いる。その一人は、側用人の間部詮房《まなべあきふさ》……。いま一人が侍講《じこう》の新井白石である。典礼にくわしい高家《こうけ》の人々とともに、彼らはあらかじめ伝奏屋敷に待機して、近衛基煕の到着を迎えた。 「おう、そこもとらが補佐の良臣と噂に高い詮房どの、白石どのか。高名は洛中にまで聞こえておる。今日は馳走役、ご大儀にぞんずる」  そつのない口ぶりで基煕はねぎらい、ほんの一刻《いつとき》ほど休息すると、もう、 「登城いたしてよろしいかな?」  せがみだした。 「婿どのに対面したい。娘の煕子にも、輿入れさせて以来逢うておらんのでな。無事な顔を早う見たいのじゃ。はははは、年寄りは気が短こうてすまぬな」 「お二方《ふたかた》さまも、さぞかしお待ちかねでございましょう。お疲れでなければ、それがしら、ご先導つかまつります」 「では、まいろうかの」  と、伝奏屋敷を出て、まず正式に大手門から登城し、安着の挨拶を家宣将軍に述べたあと、ふたたび輿で平川口へ廻り、基煕は大奥に入った。騎馬で家宣が供をし、玄関式台の雨落ちには御台所煕子をはじめ、お須免、お喜代、お古牟ら側室たちまでが、それぞれの召使を従えて出迎えた。 「目もくらむばかり華やかじゃな」  女護ガ島の色彩の氾濫におどろきながらも、さすがにすぐ、愛嬢の顔をそれと認めて、 「煕子か」  つかつか基煕は前へ歩み寄った。 「父さま」  その手を、御台所も固く握りしめた。三十年——いや、正確には三十二年ぶりの再会である。  そなた、老けたな……。  すっかりお父さま、お髪《ぐし》が白くおなりあそばして……。  おたがいに、咽喉もとまで出かかった言葉を呑みこむと、代りに涙が溢《あふ》れあがった。  延宝七年の冬、そのころまだ、甲府宰相綱豊と名乗っていた家宣とのあいだに縁組みがととのって、京から江戸へ、はるばるくだっていったとき、煕子は十八歳だった。花婿と同い年——。家宣がことし、四十九だから、煕子もまた四十九歳ということになる。そろって女ざかりの美しさに輝いている二十代の側室たちにくらべれば、容色の衰えは覆うべくもなかった。  大五郎は生母のお須免ノ方に抱かれ、鍋松も同様、お喜代ノ方に抱かれて、老太閤を出迎えていたが、 「やあ、いずれも愛らしいお子がたじゃ。こちらがご嫡男の大五郎ぎみ、そしてこちらが、去年《こぞ》の秋、誕生なされたとやらいうお鍋どのじゃな」  あやまたず、名まで言い当てたところをみると、しかし実家の近衛家と、小まめに煕子は、手紙のやりとりをしているらしい。 「ご老公さま、おつつがなく御下向あそばし、うれしゅうぞんじます」  お須免ノ方の笑顔に、 「そなたも達者でめでたい。お世嗣のお袋どのとなったのも宿世《すくせ》の果報……。大五郎ぎみを大切にお育ていたさねばなりませぬぞ」  基煕が、やはり親しげな笑顔で応じたのは、相手を同じ京の者、園中納言|宗朝《むねとも》の息女、煕子の婚礼に附き添って江戸くだりした侍女の中の一人と、承知しているからである。 「宗朝卿ご夫妻も息災でおられるよ。そなたに逢いたがっておったが、わしのような廃《すた》れ者の隠居親爺と違うて、中納言どのは働きざかりの現役。帝《みかど》のご信任もあつい上卿《しようけい》じゃで、なかなか暇がつくれぬ。わしに便りをことづけて寄こしたゆえ、のちほど渡そう」 「太閤殿下に文使《ふづかい》の役をおさせ申すなど勿体ない。罰があたります」  と、お須免ノ方の口つきも馴れ馴れしい。御台所|父娘《おやこ》とのつながりの深さを、ことさら誇示しているようにも見える。 「お父さま、さあ、どうぞ奥へお通りくださいませ」  煕子にうながされて歩き出そうとする基煕の手に、家宣が脇からそっと差し出したのは、握りの部分を精巧な象牙の彫りで飾った杖だった。外出のさい、太閤が愛用している品である。 「や、恐縮」  無造作に受け取って廊下をコツコツ音をさせながら突いて進む姿に、お喜代ノ方とお古牟ノ方は思わず目を見交してしまった。  年とっているといっても、六十二——。体躯は骨ばって、がっしりしているし、腰なども一向に曲ってはいない。さがり目尻の、一見、福々しげな目袋の奥に、どこか油断のならぬ、小狡《こずる》げな眼光を秘めた老人なのだ。屋内でまで杖を必要とするほど足つきもあぶなくない。つまりは舅《しゆうと》への、家宣将軍の尊崇の現れだが、それにしろ殿中で杖を許されるというのは、なみなみならぬ恩恵であった。  大奥には、すでに『太閤御休息の間』がしつらえられ、接伴《せつぱん》係りの侍女たちも多数、任命されている。初登城のこの日は、そこへは通らずに、客殿の大広間に基煕は案内されて、いま一度あらためて挨拶の交換があった。  お喜代とお古牟は、儀礼的な目通りが終るとすぐ、自室へ帰り、 「積もる話がおありでしょう。しばらくごゆっくり煕子とおくつろぎくださいませ」  言い置いて、家宣もまもなく中奥《なかおく》の政務所へ引きあげたので、あとは父と娘に、お須免ノ方だけを混じえた水入らずで、打ちとけた団欒《だんらん》のひとときが持たれた。どのような話が交されたかは、しかしお喜代ノ方たちには知るすべもない。  ——ともあれ、それからは宿舎の伝奏屋敷を拠点にして、自由気ままに基煕は大奥、あるいは中奥へ出入りしだした。はじめての江戸くだりを、大いに愉しむ身構えに見える。  じじつ、因循《いんじゆん》旧弊な公卿社会、平安遷都以来数百年、先祖代々見馴れて見飽きて、食傷しきっている狭くるしい京の山水から一時的にせよ逃げ出し、関東平野の海っぱたにまったく新しく興った都会の、荒々しい熱気に触れるのは小気味よかった。  何もかもが基煕には珍しく、興味ふかい。饐《す》えた古沼さながら動きのない宮廷生活からは、到底、受けられない活力が、老いの生理をこころよく刺激するのだ。  もっとも身分柄、気軽に江戸の町を歩き廻ることはできなかった。お忍びで、たまには出ても、乗物の前後は厳重な警固に守られていたし、どうやら事前に通達もゆくらしく、寺社の境内は掃き清められ、景勝地からは遊山客も追い立てられて、犬の仔一匹見当らないことが多い。しもじもの、ありのままな生活ぶりなど、なかなか目にできにくいのである。     六  そうした公儀の、過度な心づかいが、いささかは迷惑でないこともないが、もともと基煕は生まれながらの雲上人《うんじようびと》であり、世間を計る物差しからして一般の尺度とは大きくかけ離れている上流階級であった。庶民のくらしぶりなどに、さして関心はなかったし、それを見られないことを残念とも思わなかった。  何にもまして老太閤が好奇心を疼《うず》かせているのは、じつは大奥をも含めて、幕府内部の人間関係——言いかえれば家宣治政下での、政界の現況なのである。むしろ、何事につけても、 「京こそが一番……」  と誇りたがる都|気質《かたぎ》の自負心からすれば、江戸の町など、 「がさつでほこりっぽくて、半日と歩いてはおられん」  煕子相手に、こきおろす結果になる。 「今日は供の侍どもが気をきかしてな、芝居町というところへまいったぞ」 「まあ、父さま、戯場《げじよう》などにお入りなさいましたの?」 「京にいては、思いも寄らんことじゃが、そこが旅の空……。こっそり荒事とやらを見物したよ。わしをだしに使って、本心は供の者が芝居を覗いてみたかったのじゃろ」 「それにしては、おもどりが早うございました」 「なに、ほんの一幕じゃ。と、申すのも、くだんの荒事なるものが、いやはや見るに耐えぬ下手物《げてもの》でな。……煕子、そなたは芝居町などへ、まさかまいったことはあるまい」 「足踏みもいたしませぬ。女中たちは宿さがりのおりなどに見物するらしゅうございますけど、それのかなわぬ者は大奥に出入りする踊り音曲の女師匠に、役者どもの声色や仕草を真似させ、わずかに心を慰めております」 「けっこうじゃ。荒事なんぞ、わざわざ見に行く値打ちは毫《ごう》もないわ。ご当地|根生《ねお》いの大立者《おおだてもの》、二代目市川団十郎とやらの舞台であったが、その阿呆らしさ、くだらなさ……。隈取《くまど》りとか言うてな、顔に赤筋青筋を引きこくり、大股ふんばって見得を切るのじゃが、もうまるで、子供|騙《だま》しよ」 「ご老公さま」  と、かたわらに侍坐する煕子附きの老女が、置き眉に鉄漿黒《かねぐろ》の、京風な化粧をほどこした顔をやんわり、ほころばせて、 「その団十郎という役者は、もと市川九蔵と申し、父親を不慮の災難で死なせた男……。弱年で二代目の名跡《みようせき》を継いだため、同情もあってか、いま江戸では名題《なだい》の一人にかぞえられている若手だそうでございますよ」  と注釈する。 「そりゃ、名題役者ではあろうがの、太竹を引き抜いて握りつぶし、しごいて襷《たすき》に掛けるやら岩をちぎって投げるやら雑兵どもの首をねじ切るやら……」 「おお、恐ろしい」 「むろん作り物じゃよ煕子、でもな、あんな幼稚な大立ち廻りを上方で演じても、観客は承知すまい。腹をかかえて笑うじゃろ」 「お父さま、存外お芝居におくわしいのね」 「祖父《じじ》さまの後水尾上皇は、浄瑠璃作者を贔屓あそばし、修学院村に建てさせた離宮で、おんみずから手製の土偶《でく》を舞わされたことさえある。和事《わごと》と荒事のちがいぐらいは、したがって、わしも心得てはおったが、はじめて一見してみて呆れ返った。いかにも東夷《あずまえびす》の好みそうな芸能……。江戸の風土に合うた芝居じゃと思うたよ」  寺社をめぐれば、堂塔はどれも新しく、仏像にも古色がまったく附いていない。立派だし、きらびやかなだけに、 「こけおどし……」  としか見えないし、風光明媚と江戸者が自慢する勝地に案内されても、木立ちは浅く、むき出しの赤土はすぐ乾いて、名物のからっ風にたちまち舞い立つ。 「苔あつく、みどり深く、流れ清らかな京都には、しょせん、かなわんなあ」  食べものも、煕子をはじめ京女の女中たちが、ご膳所の調理人にうるさく指図して、京風な味附けで供するからこそ咽喉を通るのだ。 「江戸ごのみの料理はくどいし、辛い。わしの舌にはとても合わぬ。それにまた、あのとげとげしい東《あずま》言葉……。はたで聞いておると喧嘩口論でもしておるようじゃ。野卑、粗暴の一語に尽きる。煕子のところへ来て、柔かな京なまりに囲まれると真底《しんそこ》ほっとするよ。よくまあ、そなたたちは女子の身でこのような土地にくらせるものじゃ」  それほど不満なら帰洛すればよいものを、そのくせ基煕は腰をあげようとしない。ちやほやされる江戸滞留が、じつは快適でたまらないのだ。  元来がきまじめな、日常の規範を儒教の道徳律に求めている家宣将軍である。老太閤に対しては、ほとんど賓師《ひんし》の礼を尽して接していた。  煕子との夫婦仲は、愛情の面ではすでにとっくに冷えきっている。彼女の苛立ち、それを正室としての誇りから、ながいあいだ抑えつづけて来た鬱屈がどれほどのものか、察しないではなかっただけに、せめて形の上だけでも家宣は、岳父への尊敬を失うまいと努めた。  上に立つ将軍が、下へも置かぬもてなしぶりを示すのだから、諸侯旗本、御家人の末までが基煕の気息をうかがって戦々兢々《きようきよう》としている。居ごこちが悪かろうはずはない。  皇室の血をひく摂関家といっても、禄高でいえば近衛家は千八百石——。中級以下の旗本並みなのである。徳川将軍を婿に持つおかげで、家領のほかの貰い物は潤沢にあり、戦国乱世時代の公家《こうか》の逼迫《ひつぱく》ぶりからみれば、家計ははるかに豊かになっているけれど、 「おこぼれの恵みで生かされている」  という自嘲が、たえず一方で、自尊心を刺した。徳川氏なに者ぞ、本来なら殿上の交りすら許されぬ三河の一土豪——。武力を持ち権力を握り、いまこそ天下に君臨しているものの、血の尊貴でくらべれば地を這う虫にひとしい輩《やから》ではないかと、さげすむ思いがつねにある。  しかもその唯一の拠りどころともたのむ血統上の優越が、彼我の力関係の上では何ら実際の役に立っていない口惜しさ……。汁の味つけ一つにしろ、江戸のものとなると文句を並べたくなるのは、結局は敗北感の裏返しでもあるのだが、 「そんな江戸へ、嫁入りさせたのはどなたですの父さま」  煕子に怨《えん》じられると、さすが気性者の老人も返答に窮する。 「上卿の家に生まれた姫は、いずれ入内《じゆだい》するか五摂家のだれかにとつぐか、もしくは将軍の御台所となる運命にある。つまり政略のほかの結婚など、望んでも得られるものではないのじゃ」  そう、あからさまには、まさか言いかねた。 「容姿といい教養といい、家宣どのは非の打ちどころのない夫ではないか。言語明晰、進退礼にかない、まことに優雅な貴公子じゃ。あれならば生涯添うても悔いはあるまい。なあ煕子、そなたはそうは思わぬか?」  と、せめて慰藉を口にするほかなかったが、生《なま》返事するばかりで、老父の家宣讃美に、煕子がなぜか、はかばかしい反応を示さないのも気がかりであった。  それどころか、時おりふっと、涙ぐみさえして、 「父さま、お帰りになってはいや。なるべくながくいてくださいね」  幼女の昔に還ったような甘え方をされると、基煕は一も二もなく娘の願いを聞き入れてやりたくなる。 「よしよし、どうせわしは隠居の身……。幾月なりと滞在しようぞ」  だからといって、ただ、用もなく居坐ってもいにくい。 「いかがじゃな婿どの」  家宣将軍に、老太閤ははかった。 「新井白石に師事して、こなたは四書五経、周礼《しゆらい》、儀礼《ぎらい》、春秋|左氏伝《さしでん》から我が国の史籍までを学びつくされ、その篤学《とくがく》ぶりは学者も舌を巻くほどと聞いておる。しかし古典はどうであろう。源氏物語、枕草子、あるいは万葉、古今、新古今のたぐいを、もし読んでみたいとおぼし召すならば、不肖老骨、蘊蓄《うんちく》を傾けてご講義つかまつる所存じゃが……」 「願ってもないしあわせ……。御意なくば、当方より申し出るつもりでおりました」 「お望みか?」 「なにとぞご教示くださいませ」 「では、ついでというのも異《い》なものなれど、よい機会じゃ、有職故実《ゆうそくこじつ》についてもご伝授いたそう」 「ありがとうぞんじます」  まず、これで、長|逗留《とうりゆう》をきめこむ口実はできたのである。     七  ますます、それからは大手を振って城中と伝奏屋敷のあいだを、近衛基煕は往き来しはじめるようになった。  講義は隔日——。場所は大奥の、『太閤御休息の間』と決められ、教科書にはまず、日本書紀と源氏物語が選ばれた。 「日本紀は本邦典故の起源、源語《げんご》はこれまた、有職の階梯《かいてい》じゃによって、万民の上に立つ者は何をおいても、この二書だけは究めねばならぬ。なお、かたわら、故実典礼についても答えて進ぜるゆえ、不明の点があらばどしどし諮問《しもん》さっしゃい」  と前置きからして、ものものしい。  もっとも、老太閤は宮廷きっての古典|通《つう》であり、将軍を�弟子�に持っても、遜色はすこしもないくらい学殖が深かった。 「かたじけのうぞんじます。鋭意、学ばせていただきます」  つつしんで師礼をとった家宣将軍が、これはこれで、無二の学問好きときている。新井白石について、たとえば『藩翰譜《はんかんぷ》』など講じさせるさいも、よほどのことがないかぎり一日として受講を休まなかった。早朝に起床し、政務所に出て、老中からの報告を受ける。決裁書類に目を通し、定めの時間まで政務に精励したあと、白石の待つ学問所に移り、午後から夕刻、時には夜半に及んでなお、講義に耳をかたむけるのである。  学問所では、きちんと裃《かみしも》を着、袴をつけて、かりそめにも服装を乱したことがない。夏、どんなに暑くてもけっして扇を使わず、蚊を追うこともしなかった。冬場、凍てつく霜夜ですら、そばに置くのは小さな火桶一つときまっている。席も、かならず上段ノ間から下へおり、机一つ挟んだだけで白石と向かい合う。 「これでは恐れ多うございます上さま。どうぞ上段に御座をお移しくださいませ」  白石がいくらすすめても聴き入れようとしない。 「そなたは師、予《よ》は門下——。礼を尽すのは当然だし、学問に払う尊敬の念からも、上座になど坐る気は起こらぬ」  まじめを絵に描いたようなこの、好学ぶりに感動し、家宣がまだ二十代なかばの青年だったころから、全身全霊をあげて教導に打ちこんできた白石である。  講義をはじめてしばらくすると、近衛基煕も、 「いや、じつに熱心な、のみこみの早いお弟子どのじゃよ」  舌をまいて娘の煕子に家宣将軍の資質を褒めそやすようになった。 「白石を傍聴させておるのじゃがな、わからぬ個所はあくる朝、わざわざ宿所の伝奏屋敷にまで白石を問いに寄こすのじゃ」  いい加減には学ばぬ、とする態度は、教える側にとっても気持よい。白石がそうであるように、基煕も家宣相手の授業には張りきって、ありったけの知識を注ぎこもうと躍起になった。  一日ましに、婿への親近感が深まり、距《へだ》たりや遠慮もとれた。しかし狎《な》れはじめると、高びしゃな舅風《しゆうとかぜ》を吹かすようにもなる。幕府というもの——その存在じたい、公家《くげ》にとっては目ざわりの種なのだ。 (武人ごときに政治がとれるか?)  と、さげすむ思いは、つねにある。  源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、だが北条氏が受けつぎ足利氏が受けつぎ、織田、豊臣をへて徳川氏の手に天下が握られた現在まで、武家政権はりっぱにつづいて来ていた。衰弱し、支えぬく力を失ったからこそ摂関体制は崩壊したのだし、それにもかかわらず公卿社会が、形の上だけでも生きながらえている事実こそ、むしろ不思議といわねばならない。 (消してしまう気なら、とうの昔に叩きつぶせたのに、彼らはなぜ、それをしなかったか?)  老太閤は知っている。 (力を伴わない権威を、頭上に頂いておく有利——。武家たちが賢くそれを計算したからにほかならぬ)  のしあがるにつれて欲しくなるのは、身を飾る勲章だ。それを持たぬ者を、威圧する小道具としての官職位階はくれ手を温存し、そのくれ手に相応の箔をつけておいてこそ、貰う側の輝きも増すのである。  まだ、ある。いかなる�敵�であれ、敵とたたかう羽目に立ち至ったとき、いち早く錦旗《きんき》さえ抑えてしまえば相手は賊、こちらはたちまち、 「官軍だぞ」  と、呼号できる利点……。これも、ばかにならないことは、歴史上の幾多の事例が証明していた。 (だからこそ武士どもは、われわれを生かしつづけておる。骨を抜き牙を抜き、飼い殺しの侮辱の上面《うわつら》で、見せかけだけの敬意を装うておるのじゃ)  こちらも、したがって彼らの思惑を、逆手に利用しなければならぬ。  武力にも富力にも裏づけされていない権威……。霞にも似た実体のない権威だけに、保ってゆくには苦心が要る。毛すじほどでも、その権威を侵害するものには神経をとがらせ、また、どんなささいな機会でも、それを伸ばす好機と見たら逃がさずに活《い》かす機敏さがなければならなかった。  皇室も貴族も、よく、その辺の機微を心得ていたし、近衛基煕あたり、ましてなかなか老獪《ろうかい》な策謀家でもあったから、家宣将軍が想像以上に温雅な、知的水準も高い貴紳だとわかると、 (三国一の婿どのじゃった)  惚れこむ半面、 (くみしやすいぞ、これなら……)  と見くびる気持にもなって、そろそろ奥の手を出しはじめた。 「大樹《たいじゆ》は、ご存知あるまいのう」 「何をでございましょう」 「京畿近郊での天皇家ご所領、上皇御所ご所領の名札《なふだ》じゃよ」  大樹とは、将軍をさす唐風《とうふう》の別称である。 「名札がどうかいたしましたか?」  家宣のいぶかり顔へ、 「書きざまが感心せんのじゃ」  老太閤は不平をぶつける。 「京都所司代の役人ばらが、禁裏《きんり》御料地、もしくは仙洞御料地などと書いた榜示杭《ぼうじぐい》を隣接地との境界に打ち込んでおるのじゃわ」 「なんぞ、それがお気に障りでも……」 「わからんか?」 「汗顔の至り……。不都合がございますならば、どこをどうせいとお聞かせたまわりとうぞんじます」 「たとえば琉球国、朝鮮国、オランダ国など、異邦からの使節が洛中洛外を散策いたした場合、かの榜示杭を目にすれば、天皇家や上皇御所までが諸大名と同列に、公儀より所領の割譲を受けておると解釈しかねぬ」 「ははあ、なるほど」 「つまり皇室もまた、徳川家の家臣と早合点する恐れが生じるわけじゃよ」 「わかりました」  にこやかにうなずいて、さっそく側用人の間部詮房を呼び、 「禁裏、仙洞の二文字を杭から削り、単にその所在地に合わせて、たとえば嵯峨御料地、山科《やましな》御料地などと改めるよう、すぐさま京都所司代に通達させてくれ」  と命じる家宣の、柔軟な応対ぶりが、かえってはるかに大人に見える。  外国人が洛外を歩き廻ることなど、めったにあるものではない。つまりは�異人の眼�を口実にして、権威保持のための抵抗をこころみるわけだが、もとはといえば問題の御料所じたい、おおかたは幕府からの献上地なのだ。 (だからこそ、なおのこと我慢ならぬ)  とする心情の動きが公卿たちにはあり、ささいなことにもすぐ、目くじら立てるのであった。     八  素直《すなお》に家宣が言うことを聞くと、老人はますます図に乗って、城中の建物や諸侯旗本幕臣たちの服装にまで、何だかだ、うるさく文句を並べはじめた。 「服制は国家の典拠じゃ。上下貴賤、定めの色種《いろしな》に従ってこそ秩序は整然と保たれる。服制正しければ礼節おのずから正しく、進退したがって度あり、風俗も依って乱れず、天下めでたく治まる道理じゃよ大樹」  と、例によって言うことが仰々《ぎようぎよう》しい。 「しかるに拙老、江戸にくだってつらつら城中の服装を見るに、まず大樹の身なりからして腑《ふ》に落ちかねるな」 「どこぞ、おかしなところでも?」 「まず、その裃じゃよ」 「はあ」 「役立たずの老いぼれでも、舅と思えばこそ礼儀を重んじて、こなたは裃を着用しておるのであろう」 「仰せの通りでございます」 「ところがそれが、少しも礼にかなってはおらぬ。裃とは何ぞや? 本来が袖無し羽織、肩衣《かたぎぬ》のたぐいから発した普段着ではないか。いかめしく両肩を突っ張らかし、礼服に用いておるが、われらの目から見れば片腹いたい。正二位内大臣に右近衛《うこんえ》の大将さえ兼ねるそこもとごとき上卿ならば、たとえくつろぎのさいの便服《べんぷく》でも定めの服制を守らねばならん」 「では、何を着たらよろしゅうございましょう」 「さよう、さしずめ直衣《のうし》じゃな」 「直衣?」  と、いかな家宣も、目をしろくろせざるをえない。 「でなければ、せめて小直衣に指貫様《さしぬきよう》のくくり袴。頭には烏帽子《えぼし》、冠のたぐいをかぶらっしゃれ」 「でも、ご老公ご自身、かぶり物など召されてはおられませぬが……」 「わしゃ隠居じゃで、着やすいなりをしとるのよ」 「はあ」 「諸大名が礼服に、狩衣《かりぎぬ》を着るのも笑止じゃ。読んで字のごとく狩衣は狩場装束ではないか。朝廷の服制で申さば五位以下の卑服を、高位の諸侯が平気の平左で着用しとる。いやはや滑稽《こつけい》とも何とも、評しようがござらんよ」  言いたい放題、止めどもなく言いまくる。 「城中の建物もそうじゃ。大臣大将たる人の邸宅には、かならず中門を附けるのが決まりでな、かたわらには槐《えんじゆ》を植える。ゆえに大臣の異称を一名、槐門《かいもん》とも申すのじゃが、登城のたびごとに眺めれば、中門の在るべきところにただ、廊《ろう》を建てたのみ……。はなはだもって故実に合わぬ。これも可笑しな話じゃよ大樹」  仕方なく家宣は新井白石に言いつけて、宮中お出入りの番匠《ばんしよう》中井|大和《やまと》を江戸へ召しくだし、殿舎の一部を改造させたりしたけれども、幕臣たちにすれば基煕の指図は、ありがた迷惑以外のなにものでもなかった。 「冗談じゃないぜ。紫式部や清少納言が檜扇《ひおうぎ》かざして歌を詠んでたころと同じにされてたまるものか」 「時代の移り変りを、てんで頭に入れていないのだ。狩衣が昇格して礼装になったからって、かまわんじゃないか。なあ」 「われわれは武士なんだし、ここは城郭だぜ。敵を引きうけて戦う場所に、公卿屋敷然とした門などあるほうが、よほど変だよ」 「あの老公にも困ったものだ。箸のあげおろしに難癖つけて面白がっているんだからな」 「上さまが従順すぎるのもよくない。はねつけてやればいいのに、ご無理ごもっともで聞き入れるから重箱の隅を楊子でつつくようなことばかり言い出すのだ」 「いったい、いつまで居坐るつもりだろう。そろそろ帰ってくれないかなあ」  うんざり顔を見合わせているが、それは陰での譏《そし》り口であって、宿所の伝奏屋敷には連日、大名や大身の旗本など、ご機嫌うかがいの訪客が引きも切らなかった。 「門前、市をなすとはこのことじゃな」  と悦《えつ》に入るほどで、豪華な手土産、贈り物のたぐいが山を築いた。  しかし、いくら居ごこちがよいからといって、三年もの長期間、江戸にとどまることになるなどとは基煕自身、まさかこの時は予想もしていなかった。 「そろそろ、おいとませねばなるまいな」  そう言い言い、つい長逗留を余儀なくされたのは、重大な気がかりが生じたからである。  ——それは、大五郎の病臥であった。お須免ノ方の生んだ跡取り息子……。つつがなく成長しさえすれば、父家宣の譲りを受けて、七代目の将軍位を継ぐはずの男の子だ。  この大五郎が、消化不良から腹くだしを起こし、危篤に陥った。しかもどうやら、その原因は、 「ご老公さまがお持ちくださった巴旦杏《はたんきよう》にあるらしい」  と聞かされて、 「な、なに、そりゃ、まことか!?」  さすがの基煕も色を失った。  訪客の一人がみごとな籠に、季節のくだものを形よく盛りあげて、 「お慰さみに……」  と持参した中から、とりわけよく熟れた幾いろかを、老太閤は大五郎に、 「どうじゃ。甘いか? つぎはどれにするな? 巴旦杏がまっ赤でうまそうじゃぞ」  手ずから食べさせたのだ。もし、このことが因となって将軍家の世子が病気を引き起こし、一命を落とす結果にでもなったら一大事である。 「婿どのに、わしは顔向けならぬ。何というて詫びたらよいか……」  頭をかかえる老父を、 「いえいえ、くだものが悪いのではありませぬ」  懸命に煕子はなだめた。 「まして父さまのせいでなど、あるものですか。だれがいったい詰まらぬことをお耳に入れたのやら……」  数えで、大五郎は三歳になる。でも誕生は、宝永五年も押しつまった師走の二十二日だったから、満でいえばまだ、一年と七ヵ月にすぎない。ことし——宝永七年の十二月を迎えて、ようやく正味二歳に達するのである。  舌たらずな片コトで話しかけ、大奥へ出かけるたびにヨチヨチ膝先へまつわって、人なつこいえくぼを見せるのが愛らしくてならず、 「若よ、早う大きゅうなれよ」  と、血つづきの孫ででもあるかのように抱いたり、あやしたりしていただけに、基煕の受けた衝撃は深かった。 「わしとしたことが、取り返しのつかぬしくじりをしてのけた。いかにも香りゆたかな、色つやも良い水菓子であったのでな。よもや腹痛など起こす気づかいはないと思うて、せがまれるまま与えたのじゃが……」 「大五郎はもともとひ弱《よわ》な生まれつきです。何によらず、ほんのわずかな食べすぎで、いままでにもよく腹をくだしました。あの子に限りません。わたくし所生の子供らも二人ながら夭折しましたし、お古牟どのの生んだ家千代という男の子も、たった二月《ふたつき》きりの儚《はかな》さで世を去りました」  それもみな、家宣どのが蒲柳《ほりゆう》の質だからだ、父なるお方の虚弱体質が災して、子らが丈夫に育たないのだと、語気はげしく煕子は太閤に訴える。  まして生母のお須免は、 「死なしてなるものですか。癒します。わたくしの一念だけでも、かならず元気にしてみせますッ」  侍医を督励し、侍女たちを叱咤して、死もの狂いの看護に当った。  世継ぎの母であるゆえに、お須免ノ方は今、側室中だれよりも重んぜられている。大五郎が将軍位につけば、まして天下人の御母公だ。世人の尊崇を一身にあつめる身となるのである。それは同時に、お須免を自身の�身代り�に立てている正夫人の煕子にも、望ましい帰結といえるものであった。  大五郎はつまり、御台所とお須免にとって、大奥での女の戦いを勝利せしめたかけがえない手駒であり、未来の運命までを輝かしく保証する希望の星だった。  この大切な掌中の珠を、万一、失いでもしたら情勢はどう変るか。お喜代ノ方の生んだ鍋松がすぐさま浮上して、世継ぎの座についてしまうだろう。あざやかすぎる逆転である。 (そんなことになっては大変だ)  と、お須免はもとより、御台所派の女中たちすべてが歯をくいしばったのも無理はない。  花冷え     一  生かすための努力にどれほど精魂をかたむけても、死ぬ運命にあるときは死ぬ。 「大五郎ッ、気をたしかに持っておくれッ」 「若ぎみ、どうぞもう一度、お目をおあけあそばして……」  母のお須免《すめ》や、侍女たちの、声をふりしぼっての呼びかけも空しく、宝永七年八月十二日夜半、大五郎は息を引きとった。仲秋の満月には三日早い。わずかに欠けた月が、女たちの悲歎を静かに見おろしていた。 「ご容態が、急変いたしました」  と聞かされて、中奥《なかおく》の寝所から家宣将軍も駆けつけて来た。子供の手足はすでに冷えはじめていて、 「しっかりせい、若ッ」  家宣がその手をにぎりしめた瞬間、拭《ぬぐ》い取りでもしたように、かすかに残っていた頬の赧《あか》みが消え、命の火はひっそり絶えた。  この日、御台所は朝から病間に詰めきっていたが、 「上《うえ》さま、お成り」  と知ると、そのまま立って、自室に引きあげてしまった。 (わたくしの生んだ子供たち、お古牟《こめ》どのの腹から生まれた家千代、そしてまた、こんどはお須免の子の大五郎までが、ろくさま育ちもせずに黄泉《よみじ》へ旅立って行きました。それぞれに母は異《こと》なるけれど、父は一人——。あなたさまです。お身弱なお生まれつきとは言いながら、つぎつぎに我が子を死なせ、縁につながる女どもを歎かせつづけるとは、なんとまあ、因果な宿世《すくせ》をお持ちなのでございましょうね)  面と向かって難詰するよりもはっきりと、煕子《ひろこ》の素振りは、彼女の怒りを表明していた。  妻に責められるまでもない。家宣自身、子らの夭折に遇うたびに、どれほど慚愧《ざんき》したかしれないのである。 (すまぬ)  と心中、詫びもしたが、こればかりは、家宣の力でどうなるものでもなかった。  妻妾は四人ながら、そろって健康体だ。と、すれば、煕子が無言で批判するように、原因はすべて家宣の虚弱体質にあると言える。  煕子の怨みは、ことにも死なせた我が子への愛惜に根を発している。言っても甲斐のない繰りごとを、あきらめわるく口にすることを俗に、 「死んだ子の年をかぞえる」  と、いうけれど、煕子が附き女中たちを相手にしばしばくり返すのも、 「夢月院童子が現存していたら……せめて豊姫だけでも生きていてくれたらどれほどよかったか」  との、愚痴であった。  さんざん、母なる煕子を苦しませたばかりか、自身も死産でこの世に出て、命名すらされず、夢月院殿の法号だけで葬られてしまった男の子——。元禄十二年の生まれだから、もし無事にこの子が大きくなっていたら、いま十二歳のはずである。 「さぞかし凜々しい、末たのもしい少年に生い立ったにちがいない」  思いやるたびに残念でならないし、長女豊姫は、まして煕子が、輿入れしてまもなく十九で生んだ初子《はつご》である。そのまま成長していればすでに三十歳の女ざかりだった。 「もう今ごろは、どこぞへ嫁して、孫も誕生しているはずだ」  直系のこの孫が男の子ならば、貰い受けて跡目を継がせることも可能だったのに、 「なぜ二人ながら、はかなく死んでしまったのか」  そう思うと、胸が張りさけそうに悲しい。正室腹に子が生まれてさえいれば、側室がどれほど増えようと、妾腹の子供が幾人できようと、高みの見物でいられるのである。 「だからこそ、いち早くわたしはみごもった。男女二人まで子を儲けたのだ。石女《うまずめ》ででもあるならば、非は自身に帰すけれど、わたしには懐妊の能力がりっぱに備わっていた。それなのに……」  出産の苦しみ、子らとの死別の苦しみだけを味わわされ、しかもその上に、側室たちが子の母となるたびに、人知れず嫉妬に悩まなければならない。  せめて気に入りの侍女の中から目がねにかなった女を選び、夫の閨《ねや》に送りこんで、この女の生んだ子の、後見の地位におさまれば、子を持たぬ正室でも、それなりの権威をいくらかは保持できる——そう目算し、京都の父太閤とも手紙で相談して、気ごころの知れたお須免を家宣の側室陣に加えたのに、一歩先んじてお古牟ノ方が、家千代を生み、これが世継ぎと決まってしまったときの口惜しさ……。  でも、家千代はあっけなく亡くなり、お須免の腹から出生した次男の大五郎に、世子の座が回ってきたおかげで、ここ一、二年、やっとどうやら煕子の気持は安らいできていた。我が子でないのは不満だが、お須免の子なら、実子に準じる者と見て愛することもできるのである。  さっそく父の基煕に吉報をしたため、 「祝着至極じゃ、ちかぢか待望の江戸くだりして、そなたに逢うついでに、お須免ノ方や大五郎ぎみにも対面しようぞ」  よろこびあふれる返書まで貰っていたのに、その父の与えたくだものから腹をこわし、大五郎が死んでしまうとは、何という皮肉なめぐり合わせか。お須免ともども、我が世の春を謳歌した年月は、あっというまに手の指からすり抜けてしまったのだ。  家宣も父として、大五郎の死を歎いてはいるけれども、その心情の底に、 (さいわい、まだ、お喜代の生んだ鍋松がいる)  と恃《たの》む思いがあるのを煕子は知っている。  家宣にすれば、大五郎も我が子、鍋松も同じく我が子であった。子らを見る目に分けへだてはみじんもないが、煕子の感情は別である。大五郎を可愛がることはできても、鍋松には愛情など抱《いだ》けっこない。  出自に根ざした自尊心、京女の抑制力から、つとめて顔には出すまいとしてるけれど、お古牟にもお喜代にも、煕子はけっして好感を持っていなかった。  夫の寵を一人占めしているお喜代ノ方には、わけて嫉みをくすぶらせていたのに、その腹から生まれた鍋松が大五郎の不幸と引き替えに、にわかに浮上して、世継ぎの地位に昇るなど、我慢なりがたい。 (仕方のないことだ。ものの順序というものなのだから……)  理性では納得しても、憎悪の深まりは抑えようがないのである。  まして、お須免は取り乱して、 「鍋松どのも死んでしまえばよいのに……」  まなじりを吊りあげた。  大五郎の遺骸は小石川の伝通院に埋葬され、お須免の手もとに残った形見といえば、おびただしい玩具や生前身にまとった衣類のほかは、『理岸院殿』の戒名を彫った一基の位牌だけになってしまった。 「そんなお前、はしたない口走りを……。万一、上さまや、お喜代ノ方の耳にでもはいったら、どれほど疎まれるかしれませんよ」  たしなめる煕子にまで、 「どうせわたくしなど、上さまは人数《ひとかず》に入れておられないのですから……」  八ツ当り気味に、お須免はくってかかる始末であった。 「うしろ楯にさせていただいている御台さまのご威光……。それに大五郎の母というだけの理由で、上さまはわたくしを、いやいやながら立てていてくだされたのです。でももう、大五郎が亡くなってしまえば、見向きもなさりますまい。わたくしのような不《ぶ》縹緻《きりよう》者など……」 「それは僻みというものです。子に先立たれたそなたをきのどくがって、しきりに上さまは慰めておられる様子ではないか」 「つれ添う者の、そうするのが勤めだと思っておられるからですわ。律義なご性分ですものね。でも、お裾分けのお情けになどあずかりたくはございません。上さまがしんそこ、いとしんでおられるのはお喜代どのです。もしかしたら鍋松ぎみにお跡目相続の幸運がころがりこんだことを、上さまは内心よろこんでおられるかもしれませんよ。そう思うとなおさら死んだ大五郎が可哀そうで……」  泣きじゃくりかけたところへ、 「お須免ノ方さま、上さまがお成りでござります」  あわただしく老女の一人が呼びにきた。 「ほれ、ごらん」  苦笑まじりに煕子はせきたてた。 「このところ、夜ごとお訪ねあそばすのはそなたの部屋ではありませんか。愛しておられればこそ、ご不憫《ふびん》も増すのです。さあ、急いで化粧でも直して、おそばへ行っておあげ」 「はい」  とバネ仕掛けの現金さで立ちあがって、 「では御台さま、おやすみなさいませ」  いそいそ出てゆくうしろ姿に、これはこれで、割り切っているつもりでいながら、やはり妬心をそそられもする煕子なのである。     二  鍋松の身分が、ただの次男坊からにわかに将軍家の世子に引き上げられたことで、お喜代ノ方の処遇も、たんに側室の一人にすぎなかったそれまでとは大きく変った。 「お世継ぎさまのご生母……」  尊崇の目がいっせいに、その観点からそそがれるようになり、地位には重みが加わって、滝川はじめ絵島や宮路ら、そば近く仕える女中たちにまで群がり寄る勢いで世人の媚《こび》が集まりはじめた。  栂屋《つがや》善六のように、まだ海のものとも山のものともわからなかったころから、 「将軍家のご寵愛がもっとも深いのはお喜代ノ方さま……。そのお喜代ノ方さまにだれよりも信任されているのが御年寄の絵島どのだ」  と目をつけて、部屋子の百合や俊也はもとより、たかが絵島附きの五斎にすぎぬ市助だの角三にまで、抜かりなく胡麻をすっていた者は、 「どうだい。やっぱりおれの思惑《おもわく》通りになったろうが……」  先見の明を誇ったし、出遅れた者も争って幕臣といわず御用商人といわず、お喜代ノ方の勢力圏内にくい込むべく焦りはじめた。 「驕《おご》ってはなりませんよ」  賢明なお喜代ノ方は、さすがに情勢の変化にともなう悪影響を懸念して、召し使う女たちに釘をさすのを忘れなかった。 「大五郎どのを失ったお須免さまの悲しみ……。その代償として恵まれた鍋松の仕合せなのですからね。これ見よがしな振舞いは、固くつつしむように……」  言われるまでもなく、だれもが自戒はしていた。  御台所やお須免ノ方をできるだけ刺激しないよう気を配ってはいたが、元来がいささか深謀に欠ける江戸女の集団である。よく言えば、あけっぴろげ……。わるく言えば思慮の浅い単純性格の寄り集まりだから、思いがけぬ時節の到来に、開花期を迎えた花園さながら、ぱっと一気に浮き立ったのもやむをえなかった。  つい炸《はじ》ける高笑いや、いきいきした言葉のやりとり、知らず知らず弾みのついた立ち居にまで、上げ汐に乗り切った者たちの持つまぶしいばかりな光彩がふりこぼれたし、やれ若ぎみお髪《ぐし》置きの祝いだ、根津権現への吉例の宮参りだ、それを寿《ことほ》いで、諸大名からあれこれ美々しい献上物があったなどと聞くたびに、御台所派の神経はささくれ立つ。鍋松を中心にして回転しているお喜代ノ方の日常の、華やぎや活気がすべて気に入らない。あげく、そんなつもりでしたわけでもない事までを、 「人もなげな見せつけ」  と誤解し、 「傲慢な、思いあがり……」  とも受け取って、隔意の溝はいよいよ深まった。  大奥に起居する女たちの数は常時、二千人を越える。お喜代ノ方に仕えている人数だけでも三百人に近い。お目見得以下の軽輩や、局々《つぼねつぼね》で使われている又者まで加えると、末広がりに裾野はひろがり、数はさらに増えた。上に立つお喜代ノ方がいくら訓《さと》し、絵島たち頭《かしら》立った女中が何ほどか自戒したところで、奉公人すべてにその戒《いまし》めが行き渡るものでもない。下々《しもじも》のよろこびようは、たしかに反感を持つ側の目には不快にうつるほど傍若無人だし、手ばなしでもあった。  御台所の出産、お古牟ノ方の出産、お須免ノ方の出産……。生まれた子らは、ことごとく早逝したけれども、ともあれ懐妊の取り沙汰がつづく中で、一人、お喜代ノ方だけがながいこと子無しの淋しさを喞《かこ》ち、 「上さまとのおん仲はだれにもましてむつまじいのに、どうしたことだろう」  と女中たちの気を揉ませていたのだ。それだけに逆子の危険をしのぎ、やっと誕生したばかりか、鍋松が世子の座まで獲得したとなれば、 「やった! 結句お喜代ノ方さまがお勝ちになったじゃないか」  反り返りもしたくなる。百合や俊也のような又者までが有頂天《うちようてん》のはしゃぎようで、 「ね、百合さん、『待てば海路の日和《ひより》』って諺《ことわざ》、知ってる?」 「知ってるわ」 「じゃ、『棚からぼた餅、果報は寝て待て』というのは?」 「ふふふふ、知ってるわよ俊ちゃん、『残り物に福あり』とも言うじゃない?」 「鍋松ぎみは、福運を引き当てなすったのねえ」  人聞きのよくない冗談を投げ合うほどだった。  それはいいが、ここへきてまた、百合の身柄をどうするか、論の蒸し返しがはじまったのである。 「又者勤めをつづけるか、もしくはお喜代ノ方さま附きの腰元として、お直《じき》奉公にあがるか」  しかも、百合が意外に思ったのは、今回それを言い出して、 「もし、望んでかなうものならば願って出て、お直奉公に切り替えてはどうか?」  とすすめて来たのが、父の奥山喜内だったことだ。交竹院伯父を通じ、喜内がめずらしく寄こした手紙の文面を、百合は絵島に見せて、 「どういうつもりでしょう」  いぶかりを率直に口にした。 「両親は、わたしを伯父さんの家に厄介払い同様、押しつけておきながら、いざ旦那さまの部屋子になると聞けば、よい顔はしなかったんです。『娘分か何か知らないが、親にろくさま相談もせずに、人の子を手許へ引きとってしまうとは絵島さまもあんまりだ』なんて、ぶつぶつ言ってました。手前勝手ですよね」 「それというのも、行く行く百合さんに、千之介さんの面倒はもちろん、自分たちの老後までを見させたい肚《はら》だからでしょう」 「そうなんです。千之介はあんな身体だから家督は継げないし、その因を作ったのはわたしですから『婿養子を取って弟や親の世話をしろ』と強く言われれば、抗《あらが》うことはできません。あきらめていたんです。それなのに、なぜ今になって父のほうから、お直奉公に出ろなんてすすめてきたのか……」 「一日、暇をあげるから、家に帰って親御さんがたの真意をよく聞きただしてごらん」 「帰らせていただいてよいでしょうか」 「よいとも」  そこで百合は、千之介にやるつもりで溜めておいたおさがりの干菓子《ひがし》の箱を小風呂敷に包み、ひさしぶりで小石川水戸邸内の役宅へ出かけたのだが、 「まあ百合、よく来たねえ」  継母の兼世の愛想のよさに、まず度胆《どぎも》を抜かれてしまった。 「父さんもちょうど非番でうちにいなさるよ。さあさあ、おあがり」  千之介が不自由な足を曳きずりながら出迎えて、 「姉ちゃん、こんにちは」  にこにこ挨拶するのはいつものこととしても、父の喜内までが、 「しばらく見ぬまに、また背が伸びたじゃないか百合。もういっぱしの娘だな。絵島さまもご息災だそうで、めでたいなあ」  見えすいた世辞を並べる。その意図が何か。百合にもすぐ、呑みこめた。 (鍋松さまがお跡取りに決まったからだ)  いずれ将軍位につく若ぎみの、ご母公——。権勢ならびなくなるであろう女性の身近に、娘を仕えさせる有利を打算して、手の裏返す気になったにちがいない。 (お直奉公をすすめたのも、そのためか)  わかってみればふしぎはない。この夫婦らしい変り身の早さなのであった。     三  父の奥山喜内を、百合はかくべつ悪人とは思っていない。それどころか、どちらかといえば臆病な、小狡く立ち廻りはしても、大それた悪事などとは縁のない男と見ている。  継母の兼世にしてもそうだ。本来なら、目のかたきに百合を苛《いじ》めるような人柄ではなかった。実の倅の千之介——。子守りを言いつけた百合の油断から、ひと粒種のこの息子を生まれもつかぬ足萎《な》えにしてしまったため、「継子《ままこ》憎し」の一念に凝り固まったにすぎない。  水商売あがりの女にしては、むしろ兼世は武士家庭にうまくなじんだほうだろう。役宅はお長屋のかたちに造られているから同役もいれば下役もいる。その家族たちまで住んでいて、朝夕、井戸端で顔を合わせるあいだがらである。他人の噂や悪口など、つきあいはなかなかむずかしい。  場ちがいなくらしの中へ入りながら、兼世が上手に新しい水に溶け込み、近所隣りはもちろん組下の徒士たちからも、 「お頭《かしら》のとこのご新造さん」  と、たよりにされて、こまごました相談ごとなど持ちこまれるまでになったのは、やはり彼女なりの努力のたまものであった。  喜内がまた、如才のない世話好きな性格で、部下の面倒を小まめに見るし、自腹を切ってまで飲ませてもやったりするほうなので、徒士仲間にはわりに人望がある。  若いころは道楽者で、小遣銭に不自由しなかったせいか派手に遊んだ。  奥山交竹院の実弟だから、喜内の父親は同様、水戸黄門光圀卿の侍医をつとめた奥山隠徳院である。法印にまで昇ったこの父の天分を受けついで、交竹院は公儀の表医師となり、いまは奥医師に転じてご世子鍋松ぎみの主治医だ。  交竹院もむかしはよく遊んだほうだし、 「勘当するぞ」  とまで父におどかされるほど、小唄、三絃などに打ち込んだ一時期もあったが、一方に医学の習得も怠らなかったため、結局は立派に独り立ちして家業を継ぐことができたのである。  そこへゆくと次男坊だけに喜内はのんきだった。甘くできている母親に金をせびっては遊所に入りびたり、酒に溺れて、十日二十日、一ヵ月も帰宅しないことすら珍しくなかった。父の怒りを心配して交竹院がさがし廻ると、芝居町の色子相手にいかがわしい陰間《かげま》茶屋に流連していたり、吉原の小格子《こごうし》にはまりこんで情夫きどりでいたりする。  引手茶屋の仲居をしていた兼世とも、そんなあけくれの中で知り合ったのだが、すでに当時、喜内は百合の実母と結婚し、百合を生ませてもいたわけだから、 「けしからん」  それでなくてさえ短気な隠徳院はひどく腹を立てて、 「手のつけられぬ蕩児《とうじ》……。あんな者を倅の数に入れておいては家名にきずがつく。親子の縁は切ったぞ」  と言い渡した。母親や交竹院がいくら取りなしても耳をかさない。脅しどころか、こちらは本当に勘当されてしまったのである。  たちまち喜内は生活に窮した。兼世と夫婦になり、その稼ぎに縋《すが》って生きるうちに、先の妻は去り、あいついで両親も他界したため、やっともと通り実家に出入りできるようになったのだが、 「前非を悔いて、これからはまともな主取りでもしろ」  交竹院は諫めた。そして、亡父の縁故をたよって水戸藩の江戸|上《かみ》屋敷に喜内を仕官させたのであった。  いわば不肖の弟である。しかし、わずかな間にせよ勘当は効果があったのだろう、喜内自身、懲りたのか、お徒士奉公をまじめに勤め、やがて配下を三、四十人預かる組頭にまで出世して、こんにちに至っている。  もっとも、骨の髄にまで沁みついた享楽志向は、容易に矯《た》め直せるものではないらしい。隠徳院の余光とはいえ、新参者の喜内がともあれお徒士頭の一人になれたのは、上司にうまく阿《おもね》ってその引き立てをこうむったからだった。  質実な士風で知られる水戸藩中だが、江戸詰めともなると堅いことばかりは言っていられない。  奢侈《しやし》な都会の風潮にも染まるし、家老、留守居役など上層の重職たちには、まして他家との折衝や饗応、音物《いんもつ》のやりとりなど外交手腕が求められる。茶屋酒の味ぐらいわからなくては、万事が円滑に運ばないのであった。  さむらい稼業には不向きにさえ見えるほど達者な弁口や、腰の軽さ、そつの無さ……それに何よりは遊所の内情に通暁している喜内の前歴が重宝がられ、硬骨の家臣たちには、 「ありゃ武士ではない。幇間《たいこもち》じゃ」 「べらべらと油紙に火をつけたように喋《しやべ》りおるが、軽薄な追従口《ついしようぐち》、虫唾《むしず》が走るな」  爪はじきされながらも、接待の手配や料理屋相手の交渉に走り廻って、出世の糸口をつかんだのである。  手こずらされた過去があるだけに交竹院は弟夫婦をさほど好いていなかったし、喜内の側もけむたがって、日ごろ、あまり親しくは兄の家を訪ねなかった。百合を押しつけておきながら、 「お世話になります」  と改まっては挨拶ひとつ兼世も口にしなかったのに、最近になって急に盆だ暮れだと口実をつけ、二人そろって顔を出しはじめたのは、交竹院が鍋松附きの侍医に召され、しかもその鍋松が将軍家の世継ぎに決定したからだった。  ご母公の地位を約束されたお喜代ノ方。お喜代ノ方の片腕とも見られはじめている絵島……。  我が子の百合が、目も綾な権勢の渦中に、思いがけず接近して生きることになった幸運を、 (なんとかうまく利用しなければ嘘だ)  と考えたにしても、小才の働く喜内の気質からすれば当然であったろう。 「では、じか奉公に出てかまわないのですね?」  百合の念押しにも、 「そのほうがいいにきまっているじゃないか」  一も二もなく喜内はうなずいた。 「振り出しは軽輩でも、お喜代ノ方さま附きの腰元となって忠勤をはげめば、いずれは絵島どののようにお年寄にまで昇れるかもしれぬ。気楽は気楽だが、又者奉公では先ゆき、たいしたことはないよ」 「そのかわりお暇をいただくのも、又者ならば自由です。父さんや母さんの老後を見なければならないのはわたしだし、千之介にも、わたしはその世話を、一生涯しつづける責めがあります」  思いが弟の身体の上に及ぶと、百合はいまだに目がしらが熱くなる。一方の足を曳きずり、上体をねじるようにして歩行する姿をまのあたりに見ては、なおさらだった。 「ありがとうよ百合ちゃん」  兼世がいそいで口をはさんだ。 「悧発な上に、五体も満足なあんたが、婿養子を迎えて末々千之介の支えになってくれるなら、こんな心づよいことはない。だけどまだ、父さんも母さんも老い朽ちたわけじゃなし、いまは百合ちゃん、お前さん自身の仕合せだけを考えたほうがいいと思うよ」 「小川町の兄貴にチラッと聞いたが……」  喜内も機嫌をとるように言った。 「お喜代ノ方さまが絵島どのに、じきじきおすすめくださったそうだね? お前を、吟味に出してはどうかって……」 「ええ。それで一度、お目通りにも罷《まか》り出たの」 「渡りに舟とはこのことだ。引っこみ思案は禁物だよ。ぜひ、願って出なさい」  熱心に説きつけるのも、状況がガラリと変ったいまとなれば、 (はるかに、お直奉公のほうが得……)  と踏んだからだった。     四  たとえば身近な絵島を例にとると、禄高は四百石——。役名は中年寄《ちゆうどしより》だが、実際の収入ははるかにお禄を上回っている。  まず、ご合力金《ごうりききん》のさげ渡しがある。自分用の召使いに支払う給金、食べさせる米……。そのためのお扶持《ふち》やお蔵米も別途に支給されるし、年末には賞与のかたちでご褒美金が出た。将軍家と御台所のお手許から、黄金何枚かが、きまって年に一度、下賜もされる。  このほか、上使役をうけたまわってご三家はじめ諸侯の邸宅などへ出向けば、かならず行った先から、 「お使者への御礼」  という名目で、綾、錦、ちりめんなど高級反物二十反ほどの引出物が出るし、貰い物はそれ以外にもおびただしかった。  町屋敷まで賜わった。江戸市中の一等地——。広大な庭附きの美邸だが、住むのが目的ではない。人に貸して地代と家賃を取るのである。つまり言えば、これも大奥勤めに附随する恩恵の一つなのだ。  もともと衣食住すべて、公儀に依存してくらしているのだから、奥女中たちには収入がいくら多くても使い道がない。女の一生を束縛し、主人ひとりへの奉仕に終らせる代償として、せめて物質での満足感を潤沢にあたえようというわけであろうけれど、貯《た》めこんだところで当人にとっては、さして意味がないのであった。  ありがたがるのは、おこぼれにあずかれる親《おや》同胞《きようだい》、親戚ばかりで、絵島にしても、彼女自身は籠の鳥にひとしい。兄の白井平右衛門が、妻の佳寿ともども大坂へ赴任してしまったため、帰る場所がなかったともいえるが、大奥へあがってかれこれ七年……。一度もまだ、宿下《やどさが》りすらしていない。その不自由さは、又者の百合などとはくらべものにならなかった。 「げんに今日だって、旦那さまのお許しさえ出れば、わたしはこうして父さんや母さんに逢いにこられるのよ。でも、お直奉公に切り替えれば宿下りは年に一度……。旦那さまみたいな上《かみ》役人になると、それさえ返上しなければなりません。もう、めったに千ちゃんの顔も見にこられなくなるわ」 「かまわないよ百合、交竹院伯父さんが一日おきに鍋松さまを拝診しに行くのだから、お前の様子は聞くことができる。こちらの消息も、伯父さんの口を通してお前に伝えられるのだからね」 「だけどわたしみたいなグズには到底、旦那さまのようなめざましい立身はおぼつかないわ。いろいろな昇進の仕方があってね、御広座敷《おひろざしき》詰めからお三ノ間、御次《おつぎ》、御右筆《ごゆうひつ》などとお役替えしながら昇ってゆくらしいの。でも、ほとんどの人がそのへんで止まってしまうんですって……。表使《おもてづかい》まで進むのだって、容易なことではないと聞きましたよ」 「百合は賢いし、気性がしっかりしているから、おくれを取るようなことはないさ」 「それに絵島どのが附いてるし、小川町の伯父さんもお喜代ノ方さまにえらく信頼されているそうじゃないか。百合ちゃんはその交竹院先生の姪だもの、いざ競《せ》り合いとなれば強いよ」  と、けしかけたり、おだてたりするのも、欲に眩《くら》みはじめているからだと思うと、わが親ながら浅ましくなる。 「わかりました。よく考えてご返事します」  小風呂敷から土産の干菓子を出して千之介に渡し、 「今日はゆっくりしておいでよ。ろくなお菜《かず》はないけど、晩ごはんの仕度をするからね」  引きとめる兼世の手をふり切って百合は出て来てしまった。  そのまま神田小川町を目ざしたのは、伯父の意見を聞くためだったが、今日は出番の日とかで、伯父はまだ帰邸していなかった。 「じきにおもどりなさいますよ嬢さま、お庭の亭でお待ちなさりませ。ご秘蔵の鞠なと、持って参じましょうかな」  孫七爺やが迎えに出て言う。 「鞠よりも、庭掃除を手伝うわ。何かしていたのでしょう?」 「梅の枝おろしでござりますわ。桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿と申しますじゃろ。無駄枝は落としてやらぬと、よい花が咲きませぬ」 「じゃあ、あたし、切った枝を縄で束ねてあげる」 「めっそうな。爪《つま》はずれがほっそりして、嬢さまはめっきり美しくおなりなすった。もはやどう見ても一人前の上臈《じようろう》じゃ。荒仕事などおさせ申したら爺《じじ》めが先生さまに叱られますでな」  喜内夫婦の追従とはちがう。真顔《まがお》で口にした褒め言葉だけに、百合は羞《はじら》って、つい知らず頬を染めてしまった。  この正月で百合は十四歳になり、月の徴《しるし》を見た。意識の上ではともかく、身体だけは大人の仲間に加わったのである。そのせいか渋皮がむけ出し、肢体にもふくよかさが添いはじめた。ひさしぶりに顔を合わせた孫七が目をみはったのもむりはない。  あらかじめ絵島に教えられていたし、相ノ間の若江もこまかく気をくばってくれたので、百合は落ちついて初潮を迎えることができたけれども、親たちには、継母の兼世にさえ何ひとつ打ちあけなかった。愛らしい旬《しゆん》の桜鯛を、赤飯の膳に附けて、 「おめでとう」  と祝ってくれたのは、絵島であり若江であった。部屋の人々こそが、いまは百合の母代り姉代りだし、たいせつな身内でもある。  お直奉公に切り替えるとなれば、居ごこちのよいこの、絵島の部屋から出なければならない。なによりも、それが百合には辛《つら》かったが、やがて帰邸して来た伯父の交竹院は、 「又者勤めより、そなたにはじか奉公のほうが向いておるのではあるまいか」  と言うのであった。 「年歯《としは》がゆかぬわりに、百合は気性のしっかりした働き者じゃ。考え深いし、落ちついてもいる。父親の喜内の、あの軽佻さを、いささかも享《う》けついで生まれなかったのは、ありがたいことであった。絵島どのもつねづねそなたを末たのもしい娘じゃとおっしゃっておられるぞ」  持って生まれた資質を、又者の部屋子でなど朽ちさせてしまっては惜しい、お喜代ノ方附きの腰元となり、たとえお役は何であれ誠実に、与えられた仕事に励んでこそ絵島どのへの恩返しともなるのではないか……。 「それというのもな百合」  こころもち声を低めて交竹院は言った。 「上さまのご健康が、どうも近ごろすぐれぬのじゃ」 「将軍さまの?」 「どこと言うて、特に悪いところはないようじゃが、お食気《しよくけ》が弱く、眠りも浅いと仰せられるそうな……。風邪など引かれると微熱が抜けず、咳や痰がいつまでもつづく。お係り違いゆえ、お脈を取ったことはないけれども、奥へお成りのさい、よそながら見奉ると、ひところより一段とまた、わしの目にさえ痩せが目立ってきたようじゃ」 「大五郎ぎみが亡くなられたり、小うるさいお舅の太閤さまが、いつまでも長逗留しているための気疲れではないかしら……」 「それだけならよいが、いま少し厄介な宿痾《しゆくあ》を上さまはかかえておられるのではないかなあ」 「労咳らしいなんて、女中衆はこっそり噂し合ってますよ。血をお吐きになったこともあるんですってね」 「もしもじゃよ百合、将軍家がご他界あそばし、ご幼弱な鍋松ぎみが七代目の大封を継がれる日が来たら、ご母公はもとより、絵島どのらお守り役の責務はいよいよ重くなる。側用人の間部詮房《まなべあきふさ》どの、侍講の新井白石どのなど補佐の良臣はおるにせよ、おん母子のぐるりを固める忠義者が一人でも多いに越したことはないのじゃ。な? そうは思わぬか?」 「思います」  百合は、つよくうなずいた。 (又者づとめもお直奉公も、つまるところは同じだ。絵島さまの手足となって働こう)  そう、はっきり肚が決まったのだ。  ——絵島に願い親を引き受けてもらい、百合はやがて、大年寄の滝川にあてて吟味願いを提出した。資格審査を受けるわけだが、その通知を待つあいだに、妙な風評が殿中に拡まった。 「大五郎ぎみの死は、病気によるものではない。絵島と宮路に呪詛《じゆそ》されたためだ」  という穏やかならぬ取り沙汰である。     五  呪詛、呪殺……。耳にするだけでも禍々《まがまが》しい言葉である。それがしかも、世継ぎと決まっていた大五郎ぎみを狙って、お喜代ノ方附きの老女——絵島、宮路の両名によって企まれたというのだから、大奥じゅうが震撼《しんかん》したのも当然であった。槍玉にあげられた二人は、まして、 「とんでもない濡れぎぬです」 「いったい、何を証拠に……」  けしきばんでお喜代ノ方に訴えた。 「中傷も、事に依ります。ご世子を呪い殺したなどと、たとえ噂にせよ言い囃《はや》されては、わたくしども女ながら一分《いちぶん》が立ちませぬ。ぜひとも潔白を証《あかし》いたしとうぞんじます」 「言うまでもありません」  日ごろ女中たちの口さがなさや、はしゃぎすぎ、あるいは女ばかりの生活にありがちな感情の波立ちなどを、和《なご》めたり鎮めたり、やんわりたしなめたりする側に廻るお喜代ノ方が、こんどばかりは先に立って怒った。 「あまりといえばたちの悪すぎる譏《そし》り口……。だれがこのようなことを言い出したのか、上さまに申しあげてかならず糺明《きゆうめい》していただきましょう」  正面切って、女たちに言われるまでもなく、しかし家宣将軍にはすべて判っていた。  絵島や宮路、お喜代ノ方にしてからが、はじめから誹謗者の見当はつけている。大五郎の死を、愛惜してやまない人々。鍋松の浮上に、憎しみのまなざしをそそぐ人々……。それはお須免ノ方であり御台所|煕子《ひろこ》であり、彼女らを取りまく女中たちである。ことによったら老太閤近衛|基煕《もとひろ》までが、背後にいて糸を引いた一人かもしれないのだ。  だからといって、いくら彼らでも火のない所に煙を立てるわけにはいかない。妊娠中、お喜代ノ方のむくみがひどく、胎児までが逆子と知って、心痛のあまり絵島と宮路が個人の資格で平産の祈祷をたのんだ乗勝院快融——。この行者の存在に目をつけ、大五郎の急逝と結びつけて、まことしやかに呪詛の流言をばらまいた、ということだろう。 「快融は徳望あつい老先達。いかがわしい行法を修したか否か、芝愛宕下の居宅をお調べくださればいっさい、明白になるとぞんじます。さっそく司直の手を通してご捜査くださりませ」  つねにない強硬さでお喜代ノ方が申し入れたのは、 (あやふやにしては置けぬ事柄だ。怒るときに怒らなければ、この先また、どんな卑劣な罠を仕掛けられるか知れたものではない)  と危ぶんだからだが、 「まあ、そうむきになるな」  家宣将軍はなだめた。 「いつとはなしにささやかれ、拡まって行った噂を、どこが火もと、だれが元凶ときめつけるのはむずかしい。じたい風に似て、実体がないのが流言|蜚語《ひご》というものなのだ。無視していれば、やがて消えてしまうよ。もともと馬鹿げた作り話なのだし、さわぎ立てるよりも、笑って取り合わないのが賢い対処の仕方ではないかな」  そうまで言われてなお、強情を張るほど、我《が》のつよい性格ではなかった。それでなくても女同士の角《つの》づき合いが家宣をどれほど困惑させるか、お喜代ノ方はよく承知している。 「弱虫の負け犬だからこそ、吠えるのですよ。鍋松ぎみがまだお喜代ノ方さまのご胎内におられたとき、あちら様にこそ変成女子とやら何とやら、妙な祈祷を修させた前科がおありではありませんか」  と大年寄の滝川に言われると、そこが淡白な江戸ッ子気質だろうか、一時はカッとのぼせて、対決も辞さない剣幕だったのに、 「そうですわね」  宮路も絵島もが、案外なほど早くいつもの快活さを恢復した。 「語るに落ちるとはこのこと……。我が身に引きくらべての嫌がらせでしょう。まともに相手にするなど、ヤボかもしれませんね」  と笑い捨ててしまったのは、優位に立つ側のゆとりであり、驕りでもあったかもしれない。  むしろこの件を、だれよりも気に病んだのは奥山交竹院であった。乗勝院の行力を保証し、絵島と宮路の依頼を取りついだのは交竹院である。産婆の千庵はじめ、介護の医師たちの功績はもちろんだが、 「行者の法験もいちじるしかった」  ということで無事、お喜代ノ方の産がすんだあとも、引きつづき快融は加持祈祷を命ぜられ、鍋松の息災延命を念じて朝夕、護摩を焚き、経文を誦していたのだ。  出かけて行って、交竹院が、大五郎ぎみ呪殺の風評について話すと、 「けしからん」  白髯《はくぜん》の老先達は一国そうなへの字口を、さらにグイッと一方へへし曲げた。 「わしの行力は万物を生かすためにある。殺すのは邪法じゃ。邪には用いん」 「わかっているさ快融坊、あんたの人となりはこのわしがだれよりも知っているよ。だからこそ友だち甲斐に、こっそり忠告に来たのじゃ。鍋松ぎみの護持僧《ごじそう》役、辞退したほうがよい、とな」 「言われるまでもない。大五郎どのかどなたか知らんが、いたいけな子供を呪殺するなどというおぞましい噂のだしに使われてはたまらん。ご世子の加持は今日かぎり当方から願いさげにさせてもらおう。依頼主のお女中衆には奥山先生、あんたからよろしく申しあげておいてくれ」  それにしても、厄介なところじゃなあと、溜め息まじりに乗勝院は言った。 「いつ何どき足もとに落とし穴を掘られるかわからん。お世継ぎの座をめぐってお腹さま同士、相手の隙を窺い合っておるような物騒な大奥に、あんたもできれば出仕などせんほうがよいよ」 「いや、お腹さまと言うてもたった三人……。ご当代家宣将軍はお身弱《みよわ》なせいか、後宮が少い。しかも三人のうち、お子をお持ちなのは現在、お喜代ノ方さまだけじゃ。ご世子のおん母でいながらこのお方はごく気さくな、心のあたたかな女性《によしよう》でな、上さまとのおん仲もご正室をしのぐむつまじさ……。いまやご身分も定まり、おん子鍋松ぎみのご家督も決まって、ゆったりと落ちついておられる。こんどの事件でよう判ったが、油断のならぬのは御台さま、お須免さまの側じゃよ」 「どちらがどうであれ、恨みつらみの絡むじめついた葛藤になど捲き込まれてはつまらん。早いとこ、おぬしもおさらばしたほうが賢明じゃぞ」 「それが、そうはゆかぬのじゃ」  絵島どのの部屋子にあがっていた姪の百合が、ちかぢか吟味を受けてお直《じき》勤めに替るので、まだ、しばらくはよそながら様子を見ていてやりたいし、 「その絵島どのにしてからが、わしの口ききでそもそも御殿奉公に出たお人……。そしてつぎは絵島どのの推挙で、わしが鍋松ぎみの侍医に召された。言うてみりゃ二重三重にも縁がかさなる間柄じゃでな、嫌気がさしました、ハイさようならとは、いきかねるのよ」  と交竹院はほろ苦く笑った。 「なぜまた、あんたは、奉公口の世話をしてやるほどあの絵島とかいう御年寄と昵懇《じつこん》なのじゃい?」 「白井平右衛門|勝昌《かつまさ》という兄がおるのじゃ」 「絵島どのにか?」 「うむ。父ちがい母ちがいとかで、兄妹とはいえ血の繋りはないが、この兄貴とわしが永年の友だちづきあい……。無二の碁敵なのじゃよ」 「幕臣かな?」 「もと知行二百石の御家人——。いまは加増されて、五百石取りの旗本じゃ。安藤治左衛門どのの組下に属する御仁でな、新御番役を勤めておった。でも現在、お役替えとなって大坂へ行っとるよ」 「なるほど、それでわかった。絵島どのと交竹院先生とのかかわりがな」  仔細らしく老修験者はうなずいた。 「もっとも、あんたほどの小児科の名医ならご老女の引きがあろうとなかろうと、いずれは若さまの侍医に招聘されることにはなったろう。ま、天職と観念して、幼君の保育に力を尽すほかあるまいな」 「そういうことじゃ」  こうして乗勝院快融は、みずから願い出る形で大奥との関係を絶った。あとから思えばそれは、災厄への連坐を巧みに回避したことになり、達眼の選択だったとも言えるのである。     六  伯父に劣らず、百合も呪詛さわぎには心を痛めた一人であった。 「だれかよい祈祷師はいないだろうか」  と絵島が言ったとき、乗勝院の名を最初に持ち出したのは百合であり、その依頼を伝えるべく交竹院の屋敷へ使いしたのも百合だから、当の行者はもとより、伯父へのすまなさ、絵島にかけた迷惑の大きさを考えると夜もおちおち眠れなかった。  どうやらしかし、大ごとにならずに事は収まった。悪質な中傷ではあったものの噂はたんなる噂にとどまって、いつとはなしに立ち消えてしまったが、ちょうど同じころ、百合のお召し出しが決定した。  その前に、 「吟味に出よ」  との達しがあり、百合はきまりの振袖姿で御広《おひろ》座敷に出頭した。願い親の絵島が始終つき添ってくれていたおかげで、幾つかの試問にも臆さず答えられたし、大年寄らの目の前で書く礼紙《らいし》に、所定の文言《もんごん》、生年月日や親の名、自身の名なども、どうやら誤りなくしたためることができたのである。  身許調べは、奥山交竹院の姪ではあり、絵島の部屋子でもあるところから、ごく形式的に済んだ。 「中には無筆の娘もいて、礼紙を前にしながら生まれ年すらろくに書けず、願い親に大恥かかせる例もあるそうだけど、百合さんは文章もしっかりしているし、字も上手だって滝川さまが感心しておられたわ。おかげでわたしまで面目をほどこしました」  絵島の褒め言葉を、うれしく噛みしめているうちに、すべての審査が終り、いよいよ召し出しのご沙汰書がくだった。  名宛は、百合当人……。御広座敷のお末が、絵島の部屋まで持参したのだが、同一のご沙汰書が奥山喜内の家にまで届けられたのを、当座、百合は知らなかった。あとになって、 「めでたいな、よくぞすらすら吟味に通った。母さんも大よろこびしているぞ。これもひとえに絵島さまのお引き立てのたまもの。くれぐれもよろしく申しあげてくれよ」  喜色あふれる父の手紙から、詳細を知ったのである。  文面によると、水戸藩邸内の役宅にそれを持って来たのは、黒鍬《くろくわ》同心だという。柳営の掃除や荷物運び、警備だの作事、火災のさいの消火などにたずさわる軽輩で、文箱は革製の、しっかりしたものだったらしい。  召状《めしじよう》に明記された定めの日も、 「願い親の役ですもの……」  と髪から着物から、こまごま絵島が世話を焼いて、百合を御広座敷にまでつれて行ってくれた。 「あなたはね百合さん、まず御次《おつぎ》に任ぜられるはずですよ。御次頭の下にいてお仏間を清めたり、お膳部やご仏具の管理をする仕事です。年相応の軽いお役だけれど、お目見得《めみえ》以上だから御台さまにご挨拶いたさねばなりません。そのつもりでね」  そう、前もって絵島にも言われていた通り、大年寄の手からさげ渡された御宛行書《おあてがいがき》には「役名、御次」とあり、名は従前通り「ゆり」であった。絵島とか宮路、滝川のような、いわゆる「三字名」と呼ばれる名は、もっと上級の役職に進まなければ貰えないのだ。  このあと、いったん役部屋にさがり、改めてまた、絵島のあとについて百合はお目見得にまかり出た。いつも旦那さま——絵島が出仕するときは、奥ノ口まで、草履を持って百合はお供をするのが例だった。お小僧の俊也と二人、つれだって行く日もあるが、局廊下と奥ノ口の境には、大きな草履舟が置かれている。奥用の上履《うわば》きと、それまで履いてきた草履とを、絵島はこの草履舟のわきで履き替える。そして、 「ごくろうでした」  ねぎらいの笑顔を残したまま一人で奥へ消えてゆく。裲襠《うちかけ》の裾を曳いた、すらりと上背《うわぜい》のあるうしろ姿が、角を曲ってしまうまで見送りながら、 (奥は、どうなっているのだろう)  憧れとも、恐れともつかぬ気持で百合は想像したものだ。 (そこを今、御台さまにお目通りするために歩いている……)  と思うと、つい、抑えようもなく足が慄えた。  御台所とお須免ノ方を中心とする京女の集団に、お喜代、お古牟派の女中たちは根深い反感を抱いている。大五郎呪殺の流言は、ことにも彼女らを激昂させた。標的にされた絵島や宮路はもちろんだが、二人に仕える部屋子たちはことにも息巻いて、 「なんて汚ないやり方でしょう」 「上方者《かみがたもの》は腹の底がわからないっていうけど、ほんとうね」  くちぐちに御台所派を罵った。  宮路に召使われている多門のお縫などは、 「どうしたら旦那さまの濡れぎぬがはらせるかしら……」  同じ多門仲間のお丑相手に、くやし泣きしはじめる始末だし、 「あっちこそ鍋松さまに、何ぞ邪法でも仕かけたにちげえねえ、人を呪わば穴二つと言うでねえか、天罰|覿面《てきめん》、かえってだからこそ大五郎ぎみがおっ死《ち》んだんだよ」  その名の通り、ふだんは牛みたいに無口なお丑までが、田舎|訛《なま》りをまる出しにしてまくしたてるなど、しばらくのあいだ蜂の巣を突つきでもしたような騒動だったのである。 (そんな根性曲りどもの親玉だから、御台さまというお方はきっと、意地のよくない悪婆面《あくばづら》にちがいない)  と一人ぎめしていたのに、案に相違して近衛煕子は、物言いの柔かな、四十九という実際の年よりは七ツ八ツも若く見える小柄な人形じみた女性であった。 「百合と申すか?」  問いかける声もすきとおって細い。 「奥山交竹院の姪にござります」  という絵島の紹介に、ほんのわずか興味をそそられた様子だが、 「身をいたわって勤めるように……」  かけてくれた言葉はこれだけだし、百合もまた作法通り、ご座所の敷居|外《そと》に手をつかえてお辞儀をしたにすぎない。  たった、それだけの、短い拝謁の儀式だったにもかかわらず、そのくせ腋《わき》の下がびっしょり汗になるほど百合が緊張したのは、やはり怕《こわ》さのせいである。藤影《ふじかげ》どの、常盤井《ときわい》どの、万里《までの》小路《こうじ》どの、桃園《ももぞの》どの、歌橋《うたはし》どのなど——これはみな、あとから聞き知った名だが、御台所附きの老女たちが上段ノ間の左右に居流れて、冷ややかな視線を絵島と百合に、じっと射向けていたのだ。 (それはいいけれど、お顔がどれもみな同じなのはどうしたことか)  御台所も同様、その顔貌は、居ならぶ女どもと区別がつけにくい。 (御所風な化粧のせいだ)  百合はすぐ、気づいた。絵島たち江戸女の、素顔に近い薄化粧にくらべると、仮面でもかぶったようにここにいる女中衆の白粉は濃い。額に寄せて、ぼうっとかすませた描き眉、玉虫色に光る下唇だけの京紅……。一人一人よく見れば目鼻だちに違いはあるのだろう。しかしいきなり目にすると、薄くらがりに白い、硬質な、同じ陶製の顔ばかりが浮かんでいるようで、百合は身の毛がよだった。 「御台さま、お知らせがございます」  と、このとき先触れもなく、いきなり走り込んで来た女がある。やはりその顔も、没個性的な人形顔だが、 「たったいま、医師に告げられました。わたくしまた、懐妊したらしゅうございますよ」  と告げる声は、明るく弾んでいる。棟つづきに住むお須免ノ方であった。     七 「なに? なんですと?」  御台所の声もわずかながら上ずった。 「お須免どの、そなたまた、上さまのお子をみごもったと言うのですか?」 「はいッ」  上段下《じようだんした》に突っ伏して、 「うれしゅうございます」  お須免は肩を慄わした。 「大五郎に先立たれてからは、世の中が味気なくて……いっそ尼にでもなってしまいたいとさえ思い詰めました。そんなわたくしを哀れとおぼしめしたのでござりましょう。再々、お成りあそばし、上さまはねんごろにお慰めくださいましたが、そのお情けの露を受けてか、どうやらこのたび、二度目の懐胎にこぎつけた模様でございます」 「それは重畳《ちようじよう》。女の子であろうか男の子であろうか」 「さ、どちらともまだ、そこまでは……。三月目の終りと医師は申しておりました」 「いずれにせよ、めでたい」  ほほえむ尾について、白塗りのお中臈たちがいっせいに、 「お須免ノ方さま、おめでとうぞんじます」  と寿《ことほ》ぎを述べたのが、人形が口をきいたようで百合の目には異様だった。 「ありがとう」  左右へ会釈《えしやく》したついでに、はじめて絵島に気づいたのだろう、 「そなた、なぜここに……」  お須免ノ方は眉をひそめた。公家《くげ》の出であることを強調するつもりか、御台所らと同じくお須免の額に点ぜられているのもまた、俗に言うぼうぼう眉——。黛《まゆずみ》で描いた置き眉である。 「はい。奥山百合と申すこれなる部屋子が、このたびお直奉公に替り、御次として出仕いたすことになりました。すなわち今日は初お目見得……。御台さまへお礼言上のため召しつれました次第にござりまする」 「奥山?」  聞きとがめて、 「たしか鍋松ぎみの侍医も、奥山という姓でしたね」  刳《えぐ》りつけるような凝視を、お須免は百合の面上へ当てた。 「奥山交竹院先生は百合の伯父御にあたりますが、そんなことよりもお方さま、わたくしからもご祝詞を申しあげねばなりませぬ。ご懐妊のよし、まことにおめでとうござります。ご平産を、こころより念じております」  絵島の挨拶に、やはり一礼は返したものの、お須免の顔面からはみるみる喜悦の輝きが消えてしまった。 (たとえ、また若ぎみを生んだところで、鍋松どのがいるかぎり、もはやお世継ぎの座は望めぬ)  わかりきったその事実に、あらためて思い至ったのだ。  なまじ大五郎という世子を持ち、ご母公の顕位を夢見た一時期があっただけに、わが子から、わが身から、それが失われた悔しさは人いちばいだった。 (でも……)  お須免は気をとり直した。 (生んでさえおけば、機会はふたたびめぐってくるかもしれない。御台さまのお子がたのように、お古牟どのが生んだ家千代ぎみのように、そして大五郎のように、鍋松どのもまた、早死しないとは言えないではないか)  今度こそ丈夫に育てることだ。それが勝だと奮い立つ思いで上段ノ間を仰ぐと、表情を殺した厚化粧の下で、御台所煕子の両眼も、銀泥《ぎんでい》でも塗りつけたように暗がりの奥に光って見える。 (賭けてみよう、いま一度、お須免の生む子に……)  との、それは決意の現れにちがいなかった。  長居は無用と踏んだのだろう、 「では、わたくしどもはこれにて……」  百合をうながして、絵島は早々退出してしまったが、その口からすぐさまお喜代ノ方に、お須免の妊娠が告げられたのは言うまでもない。  そして半日か一日のうちには、お針子の末端にまで噂が拡まり、 「こんどは鍋松ぎみが用心する番だよ」  口さがない婢《はした》たちの、恰好の話題となった。 「もしもお須免ノ方さまの腹に、男の子が誕生してごらん。こんどはあべこべに鍋松ぎみを呪い殺そうとして、躍起になるだろうよ」 「手をこまぬいてはいまい。お喜代ノ方さまだって……。きっとまた、験のある山伏か何かを傭って相手方の呪いなんぞ吹き飛ばすような護摩でも焚かせるさ」 「やれやれ、ご祈祷合戦かい。見ものだねえ」  ——二度目の受胎だけに、経過は順調だった。大五郎のときは母体が衰弱するほどだった悪阻《つわり》も、今回は軽くすみ、正徳元年八月二十六日早暁、お須免はつつがなく男児を生み落としたのである。 「大五郎の生まれ代りです」  と、彼女は信じて疑わなかった。 「あの子は去年のやはり八月、十五夜さまの三日前に亡くなりました。月世界へ昇って行った大五郎が、母の悲歎を見かねて、また、もどって来てくれたのですわ」  こんどこそ健やかに、たくましく成長するようにとの願いをこめて、家宣将軍みずから、『虎吉』の童名を選んだが、その父にもまして、 「でかしたぞお袋どの、大手柄じゃ」  相好を崩したのは近衛基煕であった。自身の不注意から大五郎を死なせてしまったと信じている老太閤は、 「お須免にすまぬ。煕子にすまぬ。大樹にも、わしは合わせる顔がない」  と、去秋以来、自責の言葉を吐きつづけていたが、虎吉の出生によって、 「やっと少しは、胸が晴れたわ」  ひさびさに笑顔を取りもどした。  残念なことに、その喜びはしかし、またたくまに潰えた。虎吉は風邪を引きこみ、手当の甲斐もなく十一月六日、はかなく亡くなってしまったのである。生存期間、わずか七十日たらず……。まっ白に霜のおりた明け方であった。  お須免は虚脱した。  その心情を思いやって、さすが陰口好きのお婢《はした》連中までが、心ないおしゃべりを慎んだほどだが、周囲の思いやりをすら御台所派の女中たちは屈辱ととった。まだ、ほんの水子《みずこ》だし、嗣子《しし》というわけでもなかったので、 「表向キノ御沙汰コレ無ク、鳴リモノ音曲《オンギヨク》ノ御|停止《チヨウジ》モ無シ」  と触れ出されたことにも、 「おきのどくな嬰児《やや》さま……」  涙と憤りをかき立てられた。  小さな柩は、西久保の天徳寺という寺に葬られ、虎吉の名は、『俊覚院殿』の法号に変ったが、それにしても、 「鍋松どのばかりは、なぜ病みもせず弱りもせずに、すくすく生い立っておられるのか」  御台所派の女中たちは、こぞっていぶかりもし、嫉みもした。  逆子で宿り、難産のあげくやっと生まれた虚弱児のはずである。まがりなりにも、そんな鍋松がつつがなく育っているのは、母のお喜代をはじめ絵島や宮路ら、そば近く仕える附き女中たちの丹精のたまものであった。  それと、適切な奥山交竹院の育児指導……。腹くだしや攣《ひ》きつけ、発熱など、へたしたら大事に至りかねない関門を、そのつど無事にくぐりぬけてこられたのも、主治医の手腕によるのである。  御台所派にすればこの点もまた、こだわりの種だった。大五郎にも、虎吉にも、それぞれ名|国手《こくしゆ》と自他ともにゆるす小児科医が附いていたのだし、力およばず、それでも死なせてしまったのは、いわば子供自身の持つ運命なのだが、 「よい医師を、お喜代ノ方にとられてしまった」  とする思い込みは抜きがたい。しかもその交竹院を、鍋松の侍医に推挙したのが絵島である。不快感のはけ口が、ともするとその名に向けられるのも致し方ないことかもしれなかった。     八  お直奉公には、さまざまな段階がある。でも、お目見得以上の御次となれば、もう立派に大奥お女中の仲間入りだ。十四にしては抜擢だが、やはり百合の場合も絵島の口添えがあったればこそだった。 「旦那さまが肩入れしてくださるお気持を、裏切ってはならない」  と百合は思う。いや「旦那さま」とは、すでに呼べない。百合がいま仕える主人は、直接にはお喜代ノ方だし、直属の上司は御次頭のお曾和《そわ》という四十がらみの女性だった。 「女|角力《ずもう》」  と、かげで御次たちが仇名するほど肥えふとって、声が大きい。ざっくばらんな性格なので、しくじると容赦なく叱るが、ふくぶくしい童女顔のせいか、御次たちはだれも叱られているとは思わない。だから中には、 「蹴とばしたわたしが悪いんじゃありません。出はいり口に硯箱《すずりばこ》なんぞ置いとくからいけないんだわ」  口ごたえして、 「こいつめ。素直にあやまらんかい」  ゴツンとおでこをこづかれる気のつよい御次すらいる。百合が最年少の新参者だが、ほかの同役もおおむね十五、六のお転婆《てんば》ざかりだから、解け込んでしまえば気がおけなかったし、仕事そのものも楽なものだった。  お喜代ノ方は法華の信者で、これは御台所もお須免もお古牟も、大奥じゅうが同じである。絵島たち奥仕えの女中衆も同様、題目を日課に唱える日常だから仏間の形式はどこもほとんど変らなかった。  御次の用は、お目見得以下の三ノ間が拭くなり磨くなりしておく仏具類を、さらに清めて飾りつけたり、お膳部の器物を調えたりするだけだから、精出してやればたちまち終ってしまう。あとは御前に出て小間用《こまよう》をたすか、役部屋にいて、むだ話に興じる毎日だった。  探せば、それでも細《こまか》い仕事はいくらでも見つかる。「出しゃばり」と言われないよう気をつけながら百合がかげ日向《ひなた》なく勤めに励んだのは、絵島の信頼に応《こた》えたい一心からである。  なにげない顔でいて、お曾和はちゃんとそんな百合の働きぶりに目をとめているのだろう、 「小さいのに感心な子だね」  と可愛がってくれるので、何をするにしろ張り合いがあった。  虎吉ぎみの誕生も夭折も、したがって百合にはさしたる関心事ではなかった。新しい仕事、新しい朋輩たちになじむのに一生懸命だったが、若江や俊也、お丑らとまったく縁が切れたわけではない。奥からさがって、私室のある長局へもどれば、絵島の部屋に行くことは自由だったし、以前の仲間と遊ぶこともできた。  絵島とは、むろんしょっちゅう接触がある。部屋子だったころは退出して来てからでないと顔が合わなかったが、今は昼間から近くにいて、その声や動きを目にしたり、用を言いつけられたりする機会が多かった。  ……そんなある日。 「大坂の嫂《あによめ》から便りがとどきましたよ」  絵島がこっそり百合にささやいた。年が明けて、正徳二年の春を迎えている。梅はあらかた散り、さくら便りがちらほら聞かれながら、寒《かん》のもどりだろうか、時おり粉雪のちらつく日もある不安定な天候だった。 「花冷えというのでしょうね。寒いから、もっとこちらへお寄りなさい」  と、役部屋の火桶のそばへ呼び入れて絵島は遠来の書状を見せてくれた。  お家流の女文字で、「美喜さま参る」と記された表書きに百合は目を当てただけで、もとの文箱《ふばこ》へ書状をもどしながら、 「お障りなくおすごしでございますか? お兄上さまや奥方さまは……」  つい知らず、笑顔になった。癇癪持ちだった白井平右衛門。舌の回転が無類に早かったその妻女の佳寿……。夫婦にともなわれて山村座へ芝居見物につれてゆかれた日のことが、あざやかに記憶によみがえったのだ。 「二人もの、子持ちになったそうですよ」 「まあ、お子がお生まれなさいましたの?」 「兄たちにはもともと、良助という倅がいたのです。でも、亡くなりました」 「では今度のお子は、ご次男とご三男ですね」 「上が伊織《いおり》六歳。下が平七郎四歳と書かれています。おそらく伊織という子は、大坂へ移ってまもなく生まれたのでしょうね」  山村座での見合いまでお膳立てしたのに、稲生文次郎との縁談を未練げもなく蹴ってのけた絵島に、佳寿がひどく気分を害し、 「もうもう、こんりんざい美喜さんのお世話はごめんこうむります。一生奉公でも何でも、出たければお好きにお勤めなさいませ」  絶縁宣言ともとれる捨て科白《ぜりふ》を叩きつけて大坂へ発って行ってしまったいきさつは、百合も承知している。 (でも、それにしても、ご子息がたの誕生すら知らせてこなかったとは……)  よくよく腹を立てたからにちがいないが、その佳寿が今になって手紙をよこしたのは、どういう風の吹き回しだろう。 (たのみごとか、ねだりごとか。それともうちの両親のように、鍋松ぎみのご世子決定をあてこんで、遅ればせながら絵島さまにおべっかを使う気になったのか?)  あれこれ百合は推量した。 「そうなのよ。たのみごとです。あの短気な兄が、何かまた、大坂で不祥事を引き起こしたらしいわ」 「不祥事!?」 「山村座でも、二階桟敷から落ちてきた女持ちの扇が頭に当ったとか当らぬとか言いつのって、稲生の奥方と派手にやり合いましたね。困ったものです。あの兄にも……」  くわしいことは、手紙には書かれていないが、町人相手に喧嘩して手傷《てきず》を負わせたのだという。 「処罰されそうなので、なんとか取りなしてほしいが、詳細は、豊島の弟に報じてある、弟から聞いてくれと、嫂《ねえ》さまは言ってきているのですよ」 「弟さまとおっしゃいますと?」 「豊島平八郎|泰尚《やすなお》といってね、わたしや平右衛門|兄《あに》の、舎弟にあたる人です」  初耳であった。白井家の兄妹に、さらに弟がいるなどとは聞いたこともなかったので、百合はびっくりした。 「早くから養子に出されて、豊島という家を相続したのですよ。平右衛門どのとは父が同じ母も同じ。正真正銘、血のつながる兄弟なのに、なぜか昔から疎遠でした。気性が合わないのね。兄は火、弟は水……。でも、さすがに文通だけはしていたのでしょう」 「お出かけになりますか? その、豊島家とやらへ……」 「行かずばなりますまい。百合さん、一緒にきてくれますね」 「お供させていただきます」  三月の宿下りには、まだ二ヵ月近く間《ま》があった。お喜代ノ方は、だが、賜暇願いを手にするとすぐ、「養父の見舞い」という口実を作って、絵島を外へ出してくれた。実父は勝田玄哲という町医である。しかし桜田御殿の奥勤めに上るさい、お喜代ノ方は大御番《おおごばん》役の旗本矢島治大夫を仮親に立てた。中風《ちゆうふう》でいま、その矢島が床についている。養女の立場から、お喜代ノ方が使者を差し向けて病状を問わせるのは、当然の措置だった。  駕籠《かご》脇の人数を、ごく少数に抑えて絵島は出かけた。まず目的の矢島邸へおもむき、使いの口上を述べたあと見舞いの品を贈り、お喜代ノ方からの慰藉を伝えて、一刻《いつとき》ほどで辞去した。  つぎに弟の、豊島平八郎宅へ向かう。空は薄ぐもって、時おり寒風が路上の砂ぼこりを捲きあげた。ふくらみかけたさくらの蕾もしぼんでしまいそうに底冷えのする日だったが、物見窓の簾《すだれ》越しに、いま絵島が、どれほどみずみずしいまなざしを、刻々変化する町すじの風物に投げかけてるか、痛いほど百合にはわかる気がした。  満でいえば七年と数ヵ月——。足かけなら、じつに九年ぶりで、絵島は江戸城外の空気を吸ったのである。  正徳の治     一  豊島平八郎の家は四谷|鮫《さめ》ケ橋の、青蓮寺《しようれんじ》という寺の筋向かいにあった。無住か、と疑いたくなるほど寺域は荒れてい、その、寺の傷み方に足なみを合わせるように、土塀の崩れ、伸び放題に枝をのばした庭木など、豊島家のたたずまいにも荒廃の気配が漂っている。  今日の訪れは事前に通知してあったので、それでも門から玄関までの敷石に水が打たれ、左右の植え込みには帚木目《ほうきめ》が立って、若党と下婢が式台の脇に出迎えていた。 「どうぞ、こちらへ……」  書院造りの客間に招じ入れられたが、疵だらけな床ノ間の壁は、むき出しのまま軸物ひとつ掛けてないし、隅に置かれた竹編みの籠にも、うっすらほこりがたまって、ながいこと花など活けた形跡がなかった。  新御番《しんごばん》役を勤める幕臣と聞いていただけに、百合には豊島家の逼迫《ひつぱく》ぶりが意外に思えた。眉をひそめて、あたりを見回しているところをみると、これほどとは絵島も予想していなかったにちがいない。 「妻女が十年越しの長患いでね、寝たり起きたりしているとは聞いてました。でも、それにしても空家みたいね百合さん」  憮然とした口ぶりでつぶやく……。 「いやあ、おひさしぶりですなあ」  と座敷にはいってきた平八郎には、しかし貧しさになど、こだわっている様子はまったく見られなかった。 「おぼえてはおられんでしょう、倅の吉十郎ですよ」  背後に一人、男の子をつれていて、まずまっ先にその子を絵島に引き合わせる。父親によく似て鼻すじのきりっと通った、彫りの深い美少年なのだが、百合が驚いたのは平八郎自身、瓜二つといってよいほど白井平右衛門にそっくりだったことだ。  同父同母の兄弟ならそれも当り前かもしれないが、酷似しているのは目鼻だちだけで、纏《まと》っている印象は雪と墨ほども違う。平右衛門は陰気な癇癪持ち……。口のききかたなど重くるしいし、酒ぎらい社交ぎらいで通している世渡り下手な偏屈者である。単純だからこそすぐ、腹を立て、他人とのつき合いに亀裂を入らせてしまう。長年月、奥山交竹院とだけ例外的に碁友だちでいられたのは、相手が並はずれて気の練れた人物だったからだろう。  そこへゆくと豊島平八郎の持っている雰囲気には、白井平右衛門のようなぎすぎすした角《かど》がない。応対も表情もがなめらかだし、そつもないため、一見したところ兄よりはるかに常識人に見える。ふたこと三こと話し交すうちに、だが、その気性の底冷たさが、陪席する百合にさえ感じ取れてきた。 (義理の姉弟でいながら、ながいこと絵島さまがこの人と音信不通同然にすごされたのも、これでは無理はないな)  と否応なく納得させられたのだ。たとえば、 「わたくしが記憶している吉十郎さんは、産着《うぶぎ》にくるまった赤ちゃんでした。たいそう大きくなりましたね」  甥の成長ぶりを口にする絵島へ、 「いや、同じ年の子供に較べればこいつは小粒ですよ」  平八郎はそんな応じ方をする。 「あなたもお達者そうで、何より……」  と言いかけるのをぶち切って、 「達者じゃありませんなあ、この冬なんぞ風邪ばかり引いてましたからなあ」  首をふるし、 「ほんとうに寒い日が続きました。今日あたり少しは陽気がゆるんで、ほっとしますね」  と合わせてみても、 「だが、あいかわらず風は冷たいですよ。曇っても来ましたからね」  ことごとく答は反論じみた。右と言えば左、左と言えば右……。なんでもない時候の挨拶にすら素直な言葉を返さない。かならず「だが」とか「でも」といった否定が附く。喧嘩腰ではなく激してもいない。笑いながら、そのくせ皮肉っぽく逆を言うのであった。 (口癖というより、やはりこれは気質の現れだろう。根性にねじ曲ったところがあるからこそ、世間話にすらそれが出るのだ)  そう思って目を澄ますと、豊島平八郎の笑顔の下から、冷淡な独善気質がチラチラ覗く。 (他人はもとより、妻子をすら、自分を助けるためならば突き放しかねない男ではなかろうか) と百合は見て取って、平八郎に本能的な警戒心を抱いた。  豊島家は源頼朝が鎌倉に幕府を開いたころから武蔵の豊島郡をはじめ、足立《あだち》、多摩、新座《にいざ》、児玉あたりを支配していた武族だが、太田|道灌《どうかん》に攻められてから勢力がおとろえ、小田原北条氏、甲斐の武田氏など転々と主君を替えたあと、徳川将軍家の麾下《きか》に組みこまれて幕臣の列に加わった家柄である。  白井家に生まれた平八郎|泰尚《やすなお》が、豊島姓を継いだのは、祖父の縁故に依る。  平右衛門や平八郎からかぞえて二代前の祖に、平兵衛勝久という人がい、豊島家から白井家へ婿養子に入った。家つき娘が一人いただけで、白井家に跡取りの男児が生まれなかったためだが、同じことが、つぎは豊島家の側で起こったため、いわば逆養子のかたちで平八郎は祖父の実家に貰われて行ったのであった。  禄高は、両家とも同じ二百石。お役がつくたびに、それに百俵ほどの廩米《りんまい》が支給される程度のくらしぶりである。  縁組みしてまもなく、しかも豊島家の息女が病死したため、平八郎は幕臣仲間の平田伊右衛門という者の娘を、あらためて嫁に貰い直した。  名は艶《つや》——。吉十郎を生んだのも、 「病気がち……」  と絵島が百合にささやいたのも、この二度目の妻だった。 「さて、平右衛門兄さまの件ですけど……」  儀礼的なやりとりを切りあげて、絵島は本題に入った。 「任地の大坂で、なにやら面倒な事件を引き起こしたそうではありませんか。くわしいことは豊島の平八郎さんに訊《き》いてほしいと佳寿嫂《かずねえ》さまが言ってよこされたものですから、今日こうしてお邪魔したのですよ」 「事件よばわりするほどの大事《おおごと》でもないんです。あの佳寿って人は、よろず大仰で困るなあ」 「町人を撲ったとか嫂さまの手紙には書かれていましたけど……」 「撲ったんじゃない。斬ったんです」  絵島の顔色が変った。刃傷となれば無事にはすまない。平然としている平八郎のほうが、むしろ訝《おか》しいのではないか。 「なあに、ほんのかすりきずだそうですよ。ただ、相手がまずかった。備州の池田侯に贔屓されている抱え力士と、同じく備州家出入りの植木職人どもだったんです」 「そんな男たちを、兄さんは一人で向こうに回したのですか?」 「カッとすると前後の見さかいがつかなくなるたちですからな」 「いったい、どこで……」 「芝居小屋です。佳寿どのが芝居好きでしょう。気のすすまぬ兄上をむりに誘い出して万太夫座とかいう戯場《げじよう》へ坂田藤十郎を見に出かけた。悶着はそこで起ったらしいですな」     二  原因は足を踏んだとか踏まぬとか、取るにたらぬことだったようだ。場所といい、状況といい、山村座での、稲生家相手の喧嘩さわぎと酷似している。 「二人もの子の親になっても、一向に治らないのねえ、兄さまの癇癖は……」  百合にとも、平八郎にともつかず、吐息まじりに絵島が言った。  剣技の腕がなまくらだったのが、この場合かえって幸いしたといえよう。めちゃくちゃに振り回した切っ先が幾人かに当って、薄手を負わせた程度ですんだ。むしろ逃げ惑う群衆に揉まれて転倒したはずみに、佳寿が足首を捻挫し、平右衛門自身、角力取りに投げつけられた角火鉢で額を割るなど、負傷は白井家側のほうがひどかった。  頭取りはじめ万太夫座の者が総出で引き分けようとしたけれども、手におえない。とうとう町奉行所から手下《てか》の同心をひきいて騎馬与力が駆けつけ、どうにか取り鎮める騒動にまで発展した。  身分姓名を質《ただ》してみれば、白井平右衛門は公儀直参——。片方は力士と植木職人にすぎない。酒に酔い喰《くら》って不遜な突っかかり方をしたのも彼らなのだから、「武家への非礼」を言い立てて咎めるのはたやすい。しかしその背後には池田家の威光が控えている。大坂藩邸の留守居役からも内々に手を回してきたため、扱いに困った奉行所はすばやく手を引き、和談成立のかたちでうやむやに事を納めてしまった。 「それで終れば大人げない白刃《しらは》の舞い、一場のお笑い草ですんだんです。兄貴も憑《つ》き物が落ちたあとは後悔し、謹慎していたのに、上方者《かみがたもの》はしつっこいですなあ、根に持った植木屋どもが、ある事ない事をつつき出して江戸表へ訴え出たわけです」 「江戸表にまで!?」  いったい何を槍玉にあげられたのかといえば、破損奉行としての背任、不適格行為である。息子たちが生まれたとき、石材商の某《なにがし》から祝いの名目で金品を受け取り、入札に便宜をはかったというのが訴えの一つ……。いま一つは大坂城内の堀|渫《さら》えを監督中、人夫の怠慢を怒り、手にしていた指揮用の竹鞭で内の一人を殴打。右眼失明の怪我をさせたというものであった。  腕力沙汰のほうは真実だが、金品受納の件は事実無根だと平右衛門は言い張った。たしかに石材屋は紅白の真綿《まわた》を持参した。 「坊ちゃまご誕生、祝着にぞんじます」  と、上の倅の伊織、次の平七郎とつづけて二度、役宅に祝いを述べにきた。でも真綿ぐらいの贈物は常識だし、そのつど返礼もしている。袖の下とも賄賂《わいろ》とも平右衛門にすれば思っていないから、入札に特別の手ごころなど加えるつもりはなかった。したがってこの石材商は仕事を取りそこない、まもなく病いを得て物故してしまった。しかし息を引きとるまぎわまで白井平右衛門を恨み、 「あんな融通のきかぬ石頭はない」  と、罵《ののし》っていたという。 「とりもなおさずこれは、真綿の下に大枚《たいまい》の黄白《おうはく》を敷き並べて持ちこんだからであろう。取られっぱなしのまま肩すかしをくった腹立ちが、死にぎわの怨嗟となったにちがいない。よろしくご調査いただきたい」  というのが訴状の内容である。  だからといって数年以前にまでさかのぼって、それも当事者の一方が亡くなってしまっているこんにち、贈収賄の事実があったか否か、調べようはない。 「白井平右衛門も頑《がん》として否定している。確たる証拠を提出したならばともかく、世間の噂だけで奉行の職を奉じる幕臣を訴えるなど軽卒もはなはだしい」  と、あべこべに訴人どもは譴責《けんせき》されたが、平右衛門のほうもむろん、ただではすまなくなった。町奉行所が穏便に処理してくれた万太夫座での刃傷沙汰までがあかるみに出、 「かさねがさねの暴挙、不とどき至極」  ということで、処罰はまぬがれがたい形勢となったのである。 「へたすれば、これですな」  豊島平八郎は右の拳《こぶし》を腹にあてて、すっと横に引いてみせる。 「佳寿どのはね、それであなたに泣きつく気になったんですよ。稲生文次郎相手の嫁入り話が縺《もつ》れて、喧嘩別れ同様な別れ方をしてしまったのに、いまさらどの面さげて、と思われるでしょうが、親戚じゅうを見渡してみても頼りにできる人間は一人もいませんからなあ。いずれもわたしみたいな貧乏御家人……。それに引きかえてあなたばかりは、今や将軍家ご世子の使われ人《びと》、お腹さまの信任第一と評判されているお年寄です。佳寿どのにすれば縋《すが》りつきたくなるのも当然でしょうよ」 「わたくしには何の力もありません」  煙草盆を、絵島は膝先へ引きよせた。心得て、百合が所持の煙管筒《きせるづつ》から女持ちの煙管を抜き出す。吸口に堆朱《ついしゆ》の彫りをほどこした華奢《きやしや》な細身の煙管である。極上の刻み煙草を手ばやく詰めて差し出すと、絵島はゆったりした動作でそれを受け取った。 「平八郎どのもご承知のようにご当代家宣公のご気性は清廉潔白。奥からの働きかけなどに左右されて、公《おおやけ》の罪人と決まった者を宥免《ゆうめん》あそばすお方ではないのです。下手に動くとかえって藪蛇になりかねませんよ」 「そうですな。ときたま音信は交すけれど、それもおおかたは当方よりの無心手紙……。実家からは断り状ときまっているような疎々《うとうと》しい兄弟仲です。あの兄の尻ぬぐいなどにわたしはこの上、手を貸すつもりはないし、ましてあなたは、われわれとは血の繋がらぬあかの他人ですからな。ムシのよい頼みごとなど、このさい蹴ったところでだれに恨まれる筋合いのものでもないはずですよ」  火皿に火を点じて、一服、深々《ふかぶか》と吸いつけながら、 「蹴るとは申しておりませんわ」  絵島は冷ややかな目で平八郎を眺めた。 「おっしゃる通りわたくしは白井家に後妻に入った母の連れ子……。あなたがたとは血を異《こと》にする女ですけど、兄妹の情《じよう》は持ち合わせているつもりです。平右衛門兄さまや佳寿|嫂《ねえ》さまには、まして両親の死後、親代りになって育てていただいた恩がありますからね、喧嘩別れしたなどとは考えていません。縁談だって親切ずくの奔走……。お断りしたのはわたくしのわがままです。嫂さまにも稲生家にもすまないと思っています」 「それは本当ですか?」  居ずまいを平八郎は急に改めた。 「いまのお言葉、稲生文次郎に聞かせたらよろこぶでしょうな。今どき珍しい純なやつでね。まだ嫁を迎えんのです。絵島どのが独り身でおられるかぎり、自分も独りのままでいると言い張ってね」 「平八郎さん」  語気するどく、絵島がたずねた。 「稲生文次郎どのをごぞんじなの?」 「友だちですよ。美喜さんを見染めた文次郎に、ぜひ何とかしてくれとせがまれてね、佳寿どのに橋渡しをお願いしたのは、じつはわたしなんです」 「なるほど。そういうことでしたの」  呑み終った煙管の火皿を、紅絹《もみ》の布《きれ》で叮嚀《ていねい》に拭き、ふたたび百合の手に返しながら絵島は言った。 「友人ならば好都合です。稲生さまにお伝えください。わたくしの大奥ぐらしにつき合っていては奥方を貰いそこないます、どうぞ良いご縁があり次第、祝言なさってくださいって……」 「いや、そんなむごい伝言は聞かせますまい。あの男は夢を食って生きる獏《ばく》ですからな。一生涯、夢を見させておけばよいのです」 「ところで、おつれ合いのお艶どのはどうなさいました? お姿が見えませんが……」 「あいかわらず臥せっています。ぶらぶら病いというやつですな」 「では、お見舞いしてきましょう。せっかくひさしぶりにお訪ねしたのですから……」  そのつもりで、滋養になるといわれている水飴の壺を、わざわざ百合に持たせてまで来た絵島だったが、 「見舞いはけっこうです」  にべもなく平八郎は拒絶した。 「病間は取りちらかっております。艶も窶《やつ》れ顔を恥かしがって、ご挨拶は遠慮したいと申しておりますから……」  不意にこのとき、 「ちがいますッ」  声があがった。吉十郎が遮ったのだ。 「お部屋はちらかってなどいないし、母さまはとても伯母上に会いたがっていますよ」 「そうでしょう。そのはずです。吉十郎さんあなた、賢いお子ね」  勝ち誇ったような一瞥《いちべつ》を、苦りきった平八郎の面上へチラッと投げて、絵島は立ちあがった。相愛の仲を裂かれた平田彦四郎——。お艶はこの平田の実妹なのである。 「こちらです」  と先に立った少年は、やがて渡り廊下でつながれた離れ座敷の前で足をとめると、 「おつれしましたよ母さま」  敷居ぎわに行儀よく膝をついて、静かに障子を引きあけた。なにげなく中へ踏みこんだとたん、だが絵島の口から、悲鳴に似た叫びがほとばしった。 「お艶さん、どうしたの? その顔は……」  百合も息をのんだ。なまなましい火傷の爛れが、お艶の片頬に痣《あざ》さながら、べっとり貼りついていたのであった。     三  ひさしぶりに逢う絵島を、お艶は笑顔で迎えようとしたらしい。 「嫂《ねえ》さま、お目にかかりとうございました」  と言ったきり、しかし言葉はとぎれ、袂《たもと》を噛んでいきなり嗚咽《おえつ》しだした。 「泣かないで……お艶さん。それよりわけを聞かせてください。どうしてこんなひどいことになったの?」 「ころびました。厨《くりや》でよろけて、七輪《しちりん》にかかっていた汁鍋の上に倒れ込んだのでございます」  母の枕上《まくらがみ》に坐った吉十郎が、このとき、また、 「ちがいますッ」  語気するどく口をはさんだ。 「それではおっしゃりかたが足りません。ご自身の粗相でころんだのではない。母さまは父上に突きとばされたのです。そのために負った火傷でした」 「そんなことではないかと、じつは推量しておりました。平八郎どのは、わたくしをお艶さんに逢わせまいとしていましたからね」  絵島が怒りをこらえているのは、その語尾の慄えから百合にもわかった。 「ご承知のように、あなたの親御さまやご姉弟、それに白井家の側は嫂《あによめ》の佳寿どのが先に立って、わたくしと彦四郎さまの仲を裂こうとしました。いったんはあきらめて、わたくしも紀州家の奥勤めに上ったのでしたが……やはり、どうしても思いきれず、お仕えしていた鶴姫ぎみがご他界あそばしたのを機《しお》に、お暇《いとま》を願い出て家へもどってまいったのです」 「彦四郎|兄《あに》も、親たちの説得に懸命でした。でも、どうしても聞き入れてはもらえなかったようでございます」 「ふたたびあきらめて、わたくしはこんどは、桜田御殿にご奉公しました。彦四郎さまへの未練を断ち切ろうと決意して、お喜代ノ方さまに仕え、夢中で仕事に打ちこんだのです。それでなくても一生奉公を誓った者は、勤めはじめて七年間は宿さがりを許されません。白井の兄夫婦は直前に大坂へ赴任してしまったし、帰る家もないまま桜田御殿でくらし西ノ丸でくらし、今は引きつづきご本丸の大奥に身を置いていますが、そんなわけで心にかけながら、ご無音《ぶいん》に打ちすぎていたわけでした」 「ぞんじております。わたくしのほうこそ、せめてお便りだけでもしたかったのですけど、実家の親たちの頑《かたくな》さが、美喜|嫂《ねえ》さまをどれほど苦しめたか、それを思うと、縁につながるわたくしまで申しわけなくて……つい、筆をとりかねていたのでございます」 「平田家のご家族の中でたった一人、あなただけが彦四郎さまとわたくしの恋に励ましを送ってくださいました。味方はお艶さん、あなただけだったのです。夫でいながら、そんなあなたにこのようなむごい仕打ちをする平八郎どのが、ですから、わたくしには許せません。吉十郎さん、父上をここへ呼んでいらっしゃい。あの人の口からはっきりわけを聞きましょう」  けしきばんで言う絵島を、 「もうよいのです。わざとしたわけではないのですもの」  むしろお艶はなだめにかかった。 「わたくしが悪かった。よろけるのに事欠いて、煮えたぎった汁鍋の上に倒れるなんて……。自分の不注意が招いた災難だったのです」 「それだって、平八郎どのがあなたを突きとばすなどという乱暴を働いたからこそ起こったことでしょう。おとなしいのをよいことに、あの人は昔から、外でのむしゃくしゃを妻のあなたに当り散らしてはらそうとする性格でした。でも、それにしろ、女の顔に火傷を負わせるなど、あまりといえば度のすぎた所行です。平田家の親御さまがたに何とお詫びしたらよいか……」 「実家には内緒にしてます。このところ行き来もあまりしませんし、わたくしさえ黙っていれば、すぐにわかることではありませんから……。それよりこの子が」  と吉十郎の肩を抱き寄せて、お艶は涙ぐんだ。 「すっかりそれ以来、平八郎どのを嫌ってしまって……まるで父親を、仇敵《あだがたき》のような目で見るのです」  当然だ、と百合は思った。九ツか十……。年ごろがちょうど同じなせいか、異母弟の千之介と目の前にいる吉十郎を、百合は重ね合わせて見ていたが、共通点は少しもなかった。  足萎えだけに千之介はおとなしく、引っこみ思案な羞《はにか》み屋だった。それに引き替えて、吉十郎はいかにも武家の子息らしく立ち居も眉目《びもく》もが、きりっと緊っている。気性もしっかりしているようだ。だからこそ、病身な母に暴力をふるい、取りかえしのつかぬ顔にしてのけた父へ、少年らしい正義感から許しがたい感情を抱きもしたのだろう。 「もともとわたくしと平八郎どのの仲は、こまやかとは申せませんでした。むりもないのです。嫁してくると早々血を吐き、やっとこの子を生みはしたもののそれからは病床にばかりしたしんで、夫婦らしい睦み合いはおろか、妻としての務めをすら満足にはたせずにきたのですから……。でも、そんな冷ややかな家庭に生まれ、両親の仲たがいに捲き込まれて、この子までが父との間柄に溝を深めてしまうのかと思うとたまりません。実家の平田で、養子に貰い受けてもよいと申していますし、平八郎どのもやってしまいたい意向ですので、いっそのこと手放そうかともぞんじております」 「待ってください」  おどろいて絵島は聞き返した。 「吉十郎さんはこの豊島家を継ぐたった一人の跡取りではありませんか。他家へ養子になど出してしまってかまわないのですか?」 「はい」  お艶はむせびあげた。 「平八郎どのには、妻同様な女がおります。その腹から男の子が二人まで生まれているのです」 「女が!?」 「吉十郎がいては、かえって邪魔になるでしょう。平田へ行くことを、この子自身も納得してくれているようですので……」 「どういう素性の女なの? 水商売か何かの出ですか?」 「いいえ、召使です。いつのまにか平八郎どのが手をつけて、そのままずるずると側女《そばめ》に直してしまいました」 「では、この家に?」 「母子《おやこ》とも住んでおります。今日はそれでも嫂《ねえ》さまのご光来を憚《はばか》ったのか、向かいの青蓮寺にたのみこんで預かってもらっているらしゅうございますけど……」 「博打狂いがどうにか収まったと思えば、つぎは女だったのですね」  絵島の歎息へ、 「手なぐさみの癖もすっかり治ったわけではありません」  力なくお艶は首をふった。 「紀州侯の江戸屋敷へお勤めのころ、嫂さまに再三の無心で迷惑をかけ、白井の義兄《あに》上にも借銭《しやくせん》の尻ぬぐいその他、さんざんな不義理を重ねました。それで叱られもし、平八郎どのみずから敷居も高くなって、疎遠に打ちすぎていたようですが、さすがに懲りたらしく、ひところのような派手な遊びはしなくなりました」 「でも、まだ少しは……」 「やっている気配でございます。旗本屋敷の中間《ちゆうげん》部屋などで賭場が開かれ、仲間が誘いにまいるため、つい出かけてゆくことになるのではありますまいか」 「金の工面をどうつけているのかしら……。平右衛門|兄《あに》は大坂ですし、大奥へ移ってからは、わたくしのところへも借金手紙などぴたっとよこさなくなりましたよ。足を洗ってくれたのだなと、それで、安心していたのでしたが……」 「どこかで元手を算段して来るらしゅうございます。近ごろろくに、わたくしには口もきいてくれないのでわかりませんが、この豊島の家を継がせたところで、行く末ろくなことはあるまいとぞんじます。どうせもう、わたくしの命は長くないはず……。平田の養子にしたほうがまだしも吉十郎のためになるのではないかと考えまして……」  半身を、床の上に起きあがらせているだけでも辛そうなので、 「寝ながらお話なさいお艶さん、わたくしへの遠慮なら無用ですよ」  百合に手伝わせて、絵島は義妹を横にならせた。そして、 「内情をうかがえば、なるほどよいご思案だけど、ご実家はあなたの兄の彦四郎さまが立派に継いでおられるし、その彦四郎さまにも、もう幾人《いくたり》かお跡取りのお子が生まれているはずでしょう? 吉十郎さんを養子に貰う必要などないのではありませんか?」  ためらいがちに訊ねた。     四 「美喜|嫂《ねえ》さま」  涙いっぱいな目をみひらいて、枕の上からお艶はまっすぐ絵島を見あげた。 「彦四郎兄は、妻を離縁いたしました」 「ご離縁!」 「まわりから責められ、美喜嫂さまを思い切るにはそれしか手段がないともあきらめて、兄は祝言したのでしたが……やはり駄目でした。たった三月《みつき》ほどで妻は去ってしまい、むろん子供もいません。もはや再び娶《めと》らぬ、美喜さんでない相手を何度迎え入れたとて結果は同じことだ——そう申して、独居の肚を固めております」 「ではいま、平田家は……」 「老母が他界し、姉たちもとつぎましたため父と兄の二人ぐらし……。あとは少しばかり奉公人がいるだけの森閑《しんかん》とした明けくれですので、吉十郎の引き移りをあちらでは心待ちにしているらしゅうございます。——ね? あなたも平田のお祖父《じい》さまや伯父さまのところへ行ったほうがよいでしょう? 吉十郎さん」  呼びかけながら、 「取ってちょうだい、あれを……」  目で、お艶は床の間をさした。 「はい」  と、うつむいていた顔をあげて、少年が違い棚からすばやく抱えおろしてきたのは、古びた蒔絵の手箱である。枕の下をさぐってお艶は鍵をとり出し、吉十郎に蓋をあけさせた。 「お渡しするのですよ、美喜伯母さまに……」  うながされるまでもなく中から出したのは、蝋封された一通の書状だった。受け取って裏を返した刹那、絵島の手が目に立つほど慄えた。 「彦四郎さまからのお便りですね」 「今日、当家へお越しになることを、平田の兄にそっと知らせました。本当はここにつれて来たかったのです。でも恐らく平八郎どのが拒んで、お逢わせはすまいと思いまして、せめてお手紙を書くよう伝えました。文使《ふづか》いは吉十郎がしたのでございます」  脇で聞いていた百合の胸までが怪しくときめいたのに、絵島の表情はかえって喜びとも悲しみともつかぬ暗さに満たされた。持ち重《おも》りのする金属でも載せたように手を撓《しな》わせ、しばらくじっと、封じ目の墨の跡へ視線を当てていたが、やがて、 「ありがとうお艶さん」  懐中ふかく、それをしまった。 「御殿へ帰ってゆっくり拝見しましょう」 「お忙しい毎日であろうけれど、くれぐれもお身体を大切にしてくださいと——口上ではそれだけ伝えてよこしました」 「彦四郎さまが?」 「ええ、兄が……」 「お声を、じかに聞く思いがしますよ」 「嫂さまはお達者そうですね?」 「この冬もおかげさまで、風邪ひとつ引かずにすごしました。お艶さんこそ丈夫になってくださらねば……。腰元あがりの側女などと一つ屋根の下にくらすより、いっそ吉十郎さんに附き添って平田家へもどってしまわれたほうがよいかもしれませんね」 「老父の伊右衛門はご存知の通りの一徹者です。この火傷を見たらどんなに腹を立てるか……。兄も黙ってはいますまい。無用の騒ぎを起こすより、もう幾許《いくばく》もない命なのですから、このままこの家でひっそり終りとうございます」 「そんな、お気弱なことを……」 「ただ、あとに残してゆく吉十郎だけが不憫《ふびん》……。どうか嫂さま、よろしくお願いいたします」 「引き受けましたとも。いずれ成長のあかつきは幕臣として、しかるべくお取り立てにあずかるよう及ばずながら力を添えます。それだけはお艶さん、安んじていてくださいね」  見舞いの水飴を渡し、まもなく絵島は豊島家を辞去したが、平八郎泰尚がこのあいだ何をしていたか、百合には見当がつかなかった。  どこからともなく、平気な顔で現れて、 「これっきりまた、お見限りなどということはなさらずに、お越しください」  と、玄関式台まで送って出たのは、あるいは図太く、居直ったのかもわからない。  供待ち部屋に控えていた中間や陸尺《ろくしやく》、五斎の市助、角三らには振舞いの酒肴が供されたらしい。だれもがうっすら酒気に頬先を染めて出て来た。  履物に足をおろしながら、それでも絵島は言った。 「どこまでお役に立てるかはわかりませんけれど、平右兄さまのご宥免《ゆうめん》については、わたくしなりに努力してみますよ平八郎どの」 「そう願いたいですな。あなたの今のお立場ならわけないはずです。佳寿さんもこんどばかりは、よほど困っているようですからな」  血の繋りはなくても姉であり、嫂《あによめ》のはずなのに、 (そういえばこの男、絵島さまを美喜さん、白井の奥さまのことも始めから終りまで、佳寿さんとしか呼ばなかった……)  と、百合ははじめて心づいた。舎弟としての親愛や礼儀が、素直に口に出ない屈折した傲慢さにも、二人の女性に対してだけではなく、世渡り全般への、平八郎の僻《ひが》んだ姿勢が感じとれる。そのくせ目じりには、あいかわらず媚《こび》に近い笑みを滲ませながら平八郎はささやいた。 「兄貴の件も件ですが、何とかなりませんかなあ美喜さん、稲生文次郎の片想い……。他《はた》から見ていてもきのどくでね」 「どうしろとおっしゃいますの?」 「いくら獏でも、夢ばかり食っていては腹はくちくならんでしょうが……」 「ですからとうに、別のものをお食べくださるようわたくしは申しあげたはずです。それを、いかにも脈ありげな見せ餌《え》で釣って、金蔓《かねづる》にしているのは平八郎どの、あなたではありませんか」 「…………」 「歴《れき》としたお侍が渡り中間や草履取りに混っての博打場出入り……。いいかげんにあなたこそ目をお醒ましなさいませ。いつまでも稲生さまから小遣い銭をせびり取るだしに使われていてはわたくし、迷惑です。おとなしい獏も、騙されつづけたと気づけば、いずれは咬みつきますよ」  図星をさされたのだろう、さすがに返答に窮して平八郎は黙りこんだ。絵島の乗物はそれを尻目に、さっさと豊島邸の門を出てしまったが、帰城後、ひと月とたたぬうちにもたらされたのは、お艶の死を知らせる吉十郎からの書状であった。幼くはあるが、正しい、しっかりした楷書で、少年は母の臨終の様子と、直後、平田家へ移り、いまはそこで生活しはじめた自分の近況を書きつづってきたのである。  豊島家からは葬儀を通知してもこなかったけれども、吉十郎の手紙を仏壇に供えて、絵島は薄幸な義妹の冥福を祈った。  すでに同じころ、白井平右衛門は破損奉行の職を免ぜられて、妻子ともども江戸へもどって来ていた。訴えられていたにもかかわらず、かくべつ処罰されることなく、たんに『遠慮』を命ぜられるだけですんだのは、やはりお喜代ノ方を通じての、絵島の陰からの働きかけが功を奏した結果であった。 (平田彦四郎さまからのお便り……)  それを絵島が、どのような思いで読んだか、返書をしたためたとすれば、どれほど喜びにあふれた内容だったか、百合にはひとごとならず気になった。外から見たかぎり、でも絵島の挙措に特に変化はない。  むしろ表情は固く、日ごろの明るさを失って沈んでさえ見える。絵島にかぎらず、これはいま、大奥に住む女たちすべての顔色に現れた暗鬱さ、あわただしさだった。つねづねその健康を懸念されていた将軍家宣が、ここへきてついに倒れたのだ。まだ、しかし年は五十一……。 「ご油断なりかねるご病状にござります」  と医師たちは言うが、すぐそれが永別に結びつくほどの大事だとは、だれ一人信じなかった。信じたくもなかったのだといえる。     五  百合たちのような若い腰元にさえ、「上さまのご不例」は、なみなみならぬ心痛の種であり衝撃であった。  鍋松ぎみはまだ、やっと四歳の幼児にすぎない。せめて成年に達し、七代目の大封が継げるようになるまで、父の家宣将軍には、 「ぜひともご存命いただかねばならぬ」  とする思いが、ことにもお喜代ノ方と、彼女に仕える女中たちには強かった。  絵島の部屋子だったころは、人づての噂でしか知らなかった将軍さまだが、お直《じき》奉公に替ってからはお喜代ノ方の部屋へお成りになるたびに、近々と百合はお顔を仰いだし、お声も聞いた。そればかりか、勤めはじめてまもなく、鍋松ぎみを囲んでの団欒さなか、 「新しく御次の役に召された腰元でございます。名は百合……。わたくしの養い娘でもござりますので、なにとぞお見知りおかれてくださりませ」  絵島を介して引き合わされ、将軍家お手ずから高坏《たかつき》の干菓子を賜わる光栄にすら浴した。 「並より小さく生まれながら鍋松が大病もせず、どうにか順調に育ってくれているのも、侍医の丹精のたまもの……。百合は、その奥山交竹院の姪でもございます」  と、お喜代ノ方までが口を添えてくれたおかげで、それからは奥でくつろがれるおりなど、特に名ざして、 「肩を少し、揉んでくれぬか」  あるいは、 「どうも足がだるい。さすってほしいな」  といったたぐいの仰せを、じきじき蒙《こうむ》るようになり、 「くたびれたであろう。もうよいぞ」  お声がかかるまで、百合は一心不乱に将軍家の按摩役を勤めるようになった。  小さいときから継母の足腰を揉まされていたから、こつは心得ている。絵島の肩凝りを上手にほぐして、褒められもしていたこれまでなので、将軍さまにも、 「巧者だな」  よろこんでいただけるのが、無性にうれしい。  はじめは畏《おそ》れて、御前《おまえ》ではろくに息もつけないほど固くなっていた百合だが、少しずつ馴れてくると、家宣の気質のあたたかさ、人柄の高潔さに、 (なんてすばらしいお方だろう)  敬愛の思いが急速に深まった。  将軍家の連枝《れんし》に生まれ、襁褓《むつき》のうちからちやほやされ通して大きくなった人とは信じられない。召使への接しかたに分けへだてがなく、それぞれの長所を認めて労《いたわ》ったし、下情にすら驚くほど通じていた。  政治が、どう対応すれば人々のくらしが楽になるか、彼らが何を嫌い、何に困らされているか、絶えずその哀歓に目をそそいで、良き為政者たらんと努めている将軍なのである。  先代綱吉の晩年の秕政《ひせい》が、あまりといえばはなはだしすぎ、歪みやひずみを随所に露呈しはじめてきていたことへの、批判をこめた反動といえなくもないが、新井白石、間部詮房《まなべあきふさ》を左右の腕として、家宣将軍がいま、強力に推しすすめている理想政治は、一部保守派の幕臣のあいだに根づよい反撥を醸《かも》してはいるものの、一般には、 「歴代中、まれにみる清廉な御代《みよ》」  と評価され、年号を冠して、現政を、 『正徳の治《ち》』  と、たたえる声は多かった。すべてこれも、家宣自身の人格と民政に臨む姿勢の反映だが、 「そのはずです。上さまはね、けっして苦労知らずの若さま育ちではないの。幼少からさまざまな辛酸を舐めてこられたおかげで、世間を見る広い眼識と、人への思いやりがはぐくまれたのですよ」  百合に、そう絵島も話してくれたことがある。 「徳川将軍家が、神君家康公によって興《おこ》されたのは、百合さんも知ってますね?」 「ええ。二代が秀忠公、三代目の公方《くぼう》さまが家光公……」 「その家光公に、男のお子が三人おられました。ご長男が四代目の将軍位につかれた家綱ぎみ、ご次男が甲府のお城をお預かりした綱重ぎみ、そしてご三男が、館林《たてばやし》城主となられた綱吉卿です」  四代家綱将軍は早死したため、子を儲けなかった。順当にいけば、したがって五代目の大権は次男の甲府宰相綱重が継ぐはずである。 「ところがこの、綱重公もお身体が弱くてね、兄上の四代将軍が崩じられるほんのわずか前に、やはりお亡くなりになってしまったのよ」 「それで末の弟の綱吉公が、五代目の将軍さまにおなりになったわけですか」 「ただね百合、甲府宰相さまには、すでにお子がおいでになったの。それが綱豊ぎみ——。いまの家宣将軍です」 「では、なぜそのときに綱豊ぎみが五代目をお継ぎにならず、叔父さまの綱吉公のお手に、将軍位が渡ってしまったのでしょう」  百合の疑問はもっともだった。長子相続の原則に従えば、長男家綱に子がなく、次男綱重も薨《こう》じたのなら、その遺児の綱豊こそが、もっとも正統な五代将軍位の継承者であらねばならない。 「百合の言う通りよ。でも綱豊ぎみはまだ当時、お小さかった。そこで一時、位をお預かりする形で、叔父ぎみ綱吉公が五代目を継がれたわけです」  甥の綱豊が成人したら、誓って将軍位をその手に返すと綱吉は言明して位についた。  嘘ではない。襲封《しゆうほう》当初は本気で、そう思ったのだ。儒教道徳の、かちかちな信奉者だった青年期の綱吉は、 「本来、兄が享《う》けるべき大権なのに、思わざる死によってそれが自分に回ってきたにすぎぬ。顕位に居坐りつづけては兄弟の情誼《じようぎ》に悖《もと》り、人倫にも反するであろう」  と信念し、公言もして憚らぬ正義漢だったのだが、中年をすぎ、初老にさしかかるころには政務に倦《う》んで、贅沢ぐらしの快味にどっぷり漬かりこむ懶惰《らんだ》な将軍に変貌してしまったのである。  兄二人の、あいつぐ死によってころがり込んだ思いがけぬ幸運……。有頂天になり、興奮しきったあまりに、ついきれいごとを並べてしまったのは若気のあやまちだった。 「なぜ、成長のあかつき、甥に将軍位を返すなどと約束してしまったのか」  綱吉は悔いた。 「我が子に渡してやりたい」  父性の陥る凡愚の穴に綱吉も他愛なく落ちこんで、公人の立場にいながら公約を踏みにじることの重大さには強いて目をつぶり、綱豊の存在を徹底的に疎《うと》みはじめたのである。  妻妾は少くないのに、子がなかなか生まれず、ようやく恵まれたのが徳松という男の子、鶴姫という女の子だったから、綱吉の、子供らへの溺愛ぶりは異常なほどで、 「是が非でも、六代目の大権は徳松に……」  と執念しつづけた。  この子は、でも、早逝してしまう。悲歎する綱吉の耳に、妖僧どもが生類愛護の必要性を吹きこんだ。 「お子運が薄いのは、上さまが前世にて殺生の罪を犯されたからでございます。生きものを憐れまれ、ことにもお生まれ年の犬に、手厚い保護をお加えあそばせば、遠からずまた、玉のようなご男子の出生を見ることでございましょう」  何の根拠にももとづかぬ口から出まかせの進言が採用され、死罪、遠島、永牢など延べ数十万の処罰者を出した法制史上まれに見る悪法——生類憐み令の、二十二年に及ぶ施行となったのは、百合も知る通りであった。     六 「おかげでご先代さまは、『犬公方』などという忌《い》まわしい仇名までしもじもから奉られ、晩節を汚されたわけですけれど、こうまでなさってもなお、徳松ぎみの歿後、男のお子が誕生なさらなかったのは皮肉ですね」  絵島の苦笑に、百合も笑いを誘われながら、 「坊さんたちは、引っこみがつかなかったでしょう」  首をすくめた。 「それが、そうではないのよ。綱吉公のご母堂は京都の八百屋の娘御でね、信心深い……というよりは、迷信深いと申しあげたほうがよいようなお方でした。日本中の寺社に、どれほどのご寄進をなさったか。お犬さまをあがめるようおすすめした護持院の隆光、護国寺の開基に据えた亮賢など売僧《まいす》どもに肩入れあそばし、綱吉公ともども終生、帰依なさって、美々しい伽藍《がらん》を建てておやりになりました。おかげで公儀のご金蔵が枯渇し、悪貨の鋳造で急場をしのぐことにもなって、家宣将軍はいまだにその尻ぬぐいに四苦八苦なさっておられます」  しかも、どんなにあがいても、男の子の出生は無理、と知ると、つぎに綱吉は、鶴姫の存在に望みをつなぎはじめた。  でも、まさか女の子を将軍位につけるわけにはいかない。鶴姫のとつぎ先——。その夫の紀州侯|綱教《つなのり》に、六代目の位を譲ろうと考えたのである。どこまでも我が子か、我が子の縁につながる者を、顕位の継承者にすべく狂奔したのだ。  こうまで邪魔にされ、時には暗殺の危険にさえさらされた不遇時代を、綱豊は二十年間、ひとことの不平も口にせず隠忍してすごした。  心ある人々は、こぞってひそかに同情を寄せたし、中には水戸中納言光圀のように、 「なぜいつまでも、甲府どのに冷やめしを食わせてお置きめさるのじゃ。成人ののちは甥に将軍位を渡すとの約束、よもやお忘れではござるまい。成人も成人、甲府どのはもはや、三十歳をなかば過ぎようとさえしておられる美丈夫ではないか」  くってかかる骨の硬い親族すらあった。  それでも頑強に、娘婿《むすめむこ》の紀州綱教を後釜《あとがま》に据えるべく画策しつづけていた綱吉だったが、府下一円に麻疹が流行した宝永元年、鶴姫夫妻も病気に感染し、あいついで歿してしまったため、ついに我《が》を折らずにいられなくなったのである。  しぶしぶ綱豊を西ノ丸へ迎え入れ、 「予の嗣子とし、家宣と名を改めさせて、六代将軍位を継がしめる」  と触れ出させたてんまつは、これも百合の知る通りだ。 「桜田御殿に出仕する以前、わたくしは紀州家の江戸屋敷に奉公し、短いあいだでしたが鶴姫さまのお側ちかくお仕えしていました」  そのときの印象だけを言えば、鶴姫は虫気《むしけ》のない、おっとりした若夫人で、夫君の綱教と並ぶと一対の雛《ひいな》を見るようだったが、 「それだけに張りのない、眠けのさすような毎日でしたよ」  とも絵島は語った。 「ご他界のあと、お暇《いとま》を頂き、奥山交竹院先生の仲立ちで桜田御殿に移って、お喜代ノ方さまにお仕えするようになってはじめて、奥勤めという仕事にわたしは生き甲斐を感じるようになったのです。それはきっと、御殿じゅうに滾《たぎ》っていた無念の思いが、見えない力となって新参のわたしにまで取り憑《つ》いたからでしょうね」  実際そのころ、まだ甲府宰相綱豊と名乗っていた家宣の周辺では、正室の近衛煕子をはじめお喜代、お須免《すめ》、お古牟《こめ》ら側室たちまでが、綱吉将軍の仕打ちの冷たさに唇を噛みつづけていた。家宣の自重を見習ってあからさまには言わないまでも、恨みの火は、だれの胸中にも燃えさかっていたのである。  絵島はそれを知らずに、いわば敵対関係にある一方から、他の一方へと勤め替えして来たわけだが、事情を聞くとたちまち、義憤ともいってよい感情にゆすぶりたてられた。 (よくもまあ、がまんしておられる)  と、桜田御殿の人々——なかんずく主《あるじ》家宣の辛抱づよさに感じ入ったのだが、 「生い立ちをうかがえば、うなずけもするのですよ」  絵島がそう言って話してくれた家宣の前半生は、なるほど、数奇をきわめたものだった。 「上さまの父ぎみはね、捨て児だったそうです」  冒頭まず、こんな言い方で、絵島は百合のどぎもを抜いたのだ。 「捨て児?」  案の定、百合は目をまるくして叫んだ。 「だって、前《さき》の甲府宰相さまは、三代将軍家光公のご次男、たしか綱重卿とおっしゃった方でしょう?」 「ええ、将軍家のお子はお子だけど、四十二の二ツ子——。知ってますか百合さん、この言葉の意味を……」 「ぞんじません。どういうことですの?」 「男のかたが四十一歳で儲けた子。つまり四十二のとき二歳になる子は、永生きしないという俗信が当時、あったのです」 「今はもう、あまり聞きませんね」 「いつのまにか廃《すた》れたようね。ともあれ綱重公は、家光将軍四十一歳のときご誕生になったので、いったん城門の外に捨てられました。四十二の二ツ子でも、親子の縁を一度切れば無事に育つと信ぜられていたからです」  むろん本当に捨てたわけではない。門外まで抱いて来た女が、そっと地べたに置き、同行したいま一人の女性がすぐにかかえあげて厄払いをすませたのだ。  彼女らは一人が家光将軍の姉の天樹院千姫、片方が老女の松坂局《まつさかのつぼね》であった。  豊臣秀頼に嫁したあと、大坂落城の炎をかいくぐって脱出……。祖父家康の陣へ逃げ帰った千姫は、やがて本多|忠刻《ただとき》と結婚してその室となった。でも、このころはすでに後夫の忠刻にも先立たれ、天樹院の法号が示す通り髪を切って、静かに余生を送っていたのである。  松坂局は、千姫の手を取って大坂城の外へつれ出した女丈夫だが、彼女らは赤児の綱重の、捨て役、拾い役を買って出ただけでなく、手許に引きとって養育までしてくれた。弟家光の子だから、綱重は天樹院千姫にとって甥に当る。つまり綱重は、伯母の手塩にかけられて大人になったのであった。 「ところがね百合さん、松坂局の召使にお保良《ほら》という名の美人がいたの。いつのまにか綱重卿は七ツも年上のこのお保良と契《ちぎ》って、懐妊までさせてしまったのよ」  田中治兵衛|時通《ときみち》という藩士の、お保良は娘で、第一子を生んだとき彼女は二十六、綱重は十九だった。 「幼名を虎松とつけられた赤ちゃんが、のちの綱豊ぎみ——」 「いまの、家宣将軍ですね」 「そのうちに、綱重卿は甲斐の国守《こくしゆ》に任ぜられ、兄の家綱将軍のご命令で二条関白家から姫君を正室に迎えることになったのだけど、お保良どのがまた、二度目のお子をみごもっていたものだから、天樹院さまと松坂局が相談してね、むりやり綱重卿とお保良どのを別れさせてしまったのよ」 「まあ、きのどくに……。どうしてですか」 「年上の女に、しかも二人も子を生ませたなどと二条家に知れては、外聞が悪いと判断したからでしょう」  言いさして絵島の声が曇ったのは、自身と平田彦四郎との恋の破局に、お保良の悲劇を引きくらべたためかもしれない。絵島の場合も、彼女の側が四ツ、彦四郎より年上であった。 「お保良どのは臨月だったけれど、ご家臣の越智《おち》なにがしのもとへむりやり嫁入りさせられ、虎松ぎみはこれもご老職の、新見備中守正信《にいみびつちゆうのかみまさのぶ》というかたの屋敷へ貰われてゆきました。押しつけ養子ね」  新見正信は、しかし思慮ぶかい男であった。 「主家の若ぎみを我が子になどして、もし後日、揉めごとの因となってはたまらぬ」  と懸念したのだろう、時の大老酒井忠清を通じ、ひそかにこのことを公儀に届け出て、虎松が相違なく綱重の長子であるむね、確認をとりつけておいたのである。  虎松は新見左近と名を改め、家老の家の倅として、それからは陪臣《ばいしん》の立場で生きなければならなくなったが、正信の危惧は、はたして的中した。  二条関白|光平《みつひら》の息女は子を生まぬまま亡くなり、二度目に綾小路家から迎え入れた奥方の子も、赤児のうちに死んでしまったのだ。  しかも綱重は、すでにこのころ病いに冒され、明日をも知れぬ危篤状態にあった。 「新見左近の身分を旧に復し、呼びもどして後嗣にしよう」  と言い出した主君の耳へ、これも重臣の太田|壱岐守吉成《いきのかみよしなり》、島田淡路守|時之《ときゆき》の両名が、 「いいや、なりませぬ。新見正信はお家乗っ取りを企んでおる痴《し》れ者です。本物の虎松ぎみは、じつはとうに逝去され、いま左近の名で育てられている人物は若ぎみの替玉でござります」  まことしやかにささやいたのである。     七  病苦に喘《あえ》いではいたが、 「新見備中はまっ正直な忠義者。主家の乗っ取りを策すような腹黒さは持たぬ」  と、綱重はしかし、島田らの言葉に耳を藉そうとしなかった。かえって、 「あらぬ讒《ざん》を構え、平地に波瀾を起こさせんとする汝らこそ、獅子身中の虫である。この上、頤《おとがい》を叩くに於ては捨ておかんぞ」  叱りつけたので、あべこべに身の危険を感じた重臣二人は、同じ内容の誣告《ぶこく》を、こんどは公聴にかけ、 「主君綱重儀、病悩さし迫って乱心の態《てい》……。日夜うつつなく、臣らの諫言《かんげん》を聞き入れようといたしませぬ。このまま見すごせば若君ならぬ贋物《にせもの》が、甲府二十五万石の継嗣に備わるというゆゆしい事態を生じます。なにとぞご威光をもって理非をご裁断くださりませ」  と訴えて出た。瀕死の綱重を、狂人に仕立ててしまったのである。  珍しくもないお家騒動だが、親藩《しんぱん》の悶着を放置してはおけない。幕府が乗り出して調査したところ、替玉でも贋物でもなく、新見家に養われている息男の�左近�こそ、かつての虎松ぎみにちがいないことが立証されたのであった。  用意周到な新見備中守正信は、産着《うぶぎ》にくるまった虎松を抱いて酒井忠清邸へおもむいたさい、大老立ち合いのもとにその身体的特徴——おもに黒子《ほくろ》の部位と数だが、克明に書きあげ、一通を公辺に提出……。控えのほうは、自家で保存しておいたのだ。  いちいち、つき合わせてみれば、まぎれもない。左近すなわち虎松だったし、老中の久世《くぜ》大和守《やまとのかみ》広之《ひろゆき》を桜田邸に派遣して病床の綱重に対面させた結果、これまた乱心でも狂気でもないことがはっきりした。久世の問いかけに、綱重は理路整然と答え、訝しな素振りなど少しも見せなかったのである。  むしろ島田時之、太田吉成らの陰謀が、あかるみにさらけ出された。 「左近どのが領主に返り咲けば、養父である新見備中の権威は強大なものとなろう。なんとかしてこれを防ぎ、われわれ自身の手で別の世継ぎを担ぎ出して、擁立《ようりつ》の恩を枷《かせ》に、栄達をはかろう」  と、彼らは意図したわけであった。  罰せられて、島田と太田は失脚——。新見左近は城中に迎え入れられ、名を綱豊と改めて父の他界後、家督を相続した。  栄達を約束されていたにもかかわらず、新見正信は江戸家老の職を辞し、国許の甲府に引きこもったが、これは、 「後日の名利を打算して、わしは虎松ぎみをお預かりしたのではない。痛くもない腹をさぐられるのは心外……」  と考えた正信らしい潔癖感からであった。  ただ、そんな彼も、老病にかかって死が目前に迫ったときは、 「叔父ぎみ綱吉公から、六代将軍位のご渡譲はかならずお受けなされませよ。お約束でござる。ご違背を、けっして許してはなりませぬぞ殿……」  くれぐれも綱豊に遺言して亡くなった。 「それなのに、五代さまはなかなか将軍位を綱豊ぎみに渡そうとなさらなかった。待ちぼうけをくわされているあいだに、でも綱豊ぎみはお忍びで江戸の町々を歩き廻られ、若殿ぐらしに甘んじていては到底、味わえぬ、貴重な、さまざまな体験をなさったらしいのですよ」  秘密を打ちあけでもするような絵島の言い方に、 「江戸市中を?」  びっくりして百合は問い返した。 「たったお一人でですか?」 「腕の立つご近習を、かならず何人かはそっと連れて出られたでしょう。その者どもには口止めしていたし、毎回だれにも覚られずに、うまうまと桜田のお屋敷を抜け出したつもりでおられたのですが、あとから思えば、重職どもはとっくに勘づいていたようだと、上さまは笑いながら話されたことがあります」 「見て、見ぬふりをしていたのですね」 「甲府に引きこもった新見正信どのからして、江戸邸のご老臣がたに『殿はいずれ、将軍職につかれるお方。自由のきく今のうちにぞんぶん下情を見ておかれたほうがよい。野に放っても、あやまちをしでかすようなご気質ではない』とおっしゃっていたそうですもの……」  その代り江戸家老らは、綱豊に知られぬように二重三重もの護衛をつけて万一の危険に備えた。  綱吉将軍側が、この綱豊の忍び歩きを察知し、 (隠密裡《おんみつり》に始末してしまえる好機だ)  と見て、刺客を放ったときも、未然に襲撃者の凶刃を防いだのは、見えがくれに守護していた警固の武士団だったのである。 「まあ半分は、若気の冒険心、冷やめしをくわされていることへの、むしゃくしゃのはけ口でもあったのでしょうけど、ご身分|柄《がら》からは想像もつかない一時期の、こうした体験が、上さまを並《なみ》の将軍とはひと味ちがう思いやり深い明君に育てたのです。そのころ新井|勘解由《かげゆ》の名で市井《しせい》に埋もれていた白石どのや、能楽師の子弟だった間部詮房どのなど、才能ある偉材を見出だされたのも、また、町医者の娘御だったお喜代ノ方さまと恋に落ち、身分を越えて結ばれたのも、すべて新見左近の仮名を使い、江戸市中を出没なさっていたあいだに手にされた収穫でした」  出生じたいが数奇。成長してからの運命の変転もまた、劇的。そしてさらに、長年月、叔父に味わわされた不当な冷遇。  なんの変哲も苦労もなく、初めから順当に、ぬくぬくと大きくなっただけの大名家の若さまなら、焦《じ》れて、自棄《やけ》にもなったかもしれない逆境に耐え、襲封後は鋭意、前代の秕政《ひせい》を匡《ただ》して、 『正徳の治』  と讃えられるほどの善政を布《し》いた歴代中まれに見る清廉な将軍だということが、これでよく、百合にも納得できたし、 (そのお方の、おみ足をさするのだ。お肩を叩くのだ)  と思うと、気合の入れかたがちがってくる。  絵島から、家宣将軍の生い立ちや、前半生にまつわるさまざまな話を聞かされて以後は、ことにも、 (長生きしていただかねば……)  と願って、その凝りを揉みほぐす指さきひとつにも真心をこめてきたのに、 (ご病臥だなんて……)  あんまりだ、神ほとけはおわさぬのかと、百合は憤《いきどお》ろしくさえなった。  天が、いま少し寿命を与えたら、さらに見るべき成果があがったかもしれないが、結局、家宣を疲労|困憊《こんぱい》させ、中道で倒れるのやむなきに至らせた最大の禍因は、前将軍時代の放漫財政の、尻ぬぐいと立て直しにあったといえよう。  とりとめないまでにつづけられた寺社の修復と建立《こんりゆう》……。  生類憐み令にもとづいて江戸西郊の中野と大久保に、常時、数万匹の野犬を収容する施設が造られたが、餌代だけに限っても連日、莫大な出費となった。  桂昌院ご母堂と綱吉将軍をめぐる大奥の日常も、華美をきわめたから、家宣が引き継いだとき、幕府財政の赤字は回復の見込みが立たぬまでむざんな破綻を呈していたのである。  天災、人災も、痛手に拍車をかけた。襲封直前に突発した富士山の大噴火……。山焼けによる降灰は人畜や成りものに広範な被害をもたらしたし、そのすこし前には大地震の発生、さらに江戸市中の大半を焼失するほどの大火までが追い打ちをかけた。  京都御所の修理。  朝鮮|来聘《らいへい》使の接待。  綱吉の崩後はその法要や御霊屋《みたまや》の造立など、避けては通れない支出も多く、湯水のように金は出てゆくのに、金蔵に貯えは尽きかけていた。 「大坂城内に、非常時に備えて、純金の大分銅《おおぶんどう》が蓄《たくわ》えられていると聞いたが、どうなっているのか?」  たまりかねてたずねた家宣に、勘定奉行の荻原《おぎわら》近江守重秀が答えた。 「すべてご先代さまのご治政《ちせい》中、新金に鋳立《いた》ててしまいました。もはや一棹《ひとさお》か、せいぜい二棹の延べ棒を残すのみにござります」     八  この荻原重秀がまた、心あるひとびとには、 「公儀のご政道を乱した奸物中の随一」  と爪はじきされていた人物であった。  綱吉将軍や桂昌院にとりいって、迷信を助長させた護持院隆光ら怪僧どもと、その献言をとりつぎ、推進して、生類憐み令の施行に中心的役割をはたしたとされている柳沢|吉保《よしやす》……。  荻原は彼らと組み、きりもなく金をほしがる綱吉将軍の意を迎えて、悪貨を鋳造した勘定方の責任者である。  おかげで貨幣の信用は落ち、うなぎのぼりに物価があがって、庶民のくらしを圧迫したのだが、荻原が憎まれたのは、 「鋳造の過程で、しこたま私腹をこやしたらしい」  と疑われていたからであった。  政権が交替し、綱吉時代の施政方針が否定されたとき、柳沢吉保らとともにまっ先に葬り去られてよいこの、�臭い男�が、失脚もせず、引きつづき勘定奉行の地位に踏みとどまれたのは、 「奸物なりに、腕はある」  と、家宣将軍が、荻原の能力を認めたためである。  よくない男ではあるけれども、経済の専門家としては荻原の右に出る幕吏はいない。運上《うんじよう》にしろ年貢にしろ、公領からあがる収入のすべて、消費されてゆく経費の全貌まで——つまり幕府の勝手もとのやりくりいっさいに、荻原は通暁しているし、 「破綻寸前の財政を建て直すためには、どうしてもいま一度、金銀の改鋳は必要だ」  と考えていた家宣将軍でもあった。  そして取りあえず、宝永七年に乾字金を鋳造……。小判と一分判金の品位を高め、通貨の信用回復を計ったが、善《よ》し悪《あ》し、どちらにも使える荻原を、このためにもみすみす放逐はできなかったのだ。  良貨ばかり造っていたのでは、しかし金蔵は疲弊する一方だし、かといって前代の轍《てつ》は踏めない。衆智を結集し、勘定吟味役を置くなどして、荻原ら事に当る役人どもをきびしく監視しつつ、慎重に改鋳の施策をすすめてゆこうというのが家宣の肚づもりだったのである。  ところが家宣以上に、純粋潔癖な政治理念の持ちぬしである新井白石あたり、 「やはり何としても、荻原の在職は肯定できませんし、彼を使っての金銀改鋳にも、同意いたしかねます。財政再建には、かならず他に、取るべき方法が見いだせるはずでございます」  主張してゆずらない。はてはこまごまと、荻原のしくじりや罪状を洗い出して、十ヵ条にも及ぶ弾劾《だんがい》文を作成……。 「いささかの能力はあるにせよ、かような奸吏を用いつづけておられては人心の刷新は望めず、清潔公正を第一義とするご当代のご政道に反します」  くり返し進言したため、家宣将軍の病臥直前、荻原重秀はついに罷免され、同類とみなされていた金座・銀座の役人たちも処罰されて、再度の改鋳計画は日の目を見ずに終った。 「ご重態!」  と触れ出され、重い軋《きし》みを立てながら政局が暗転することとなったのは、それからまもなくであった。  もともと病いがちな人だったが、家宣将軍が体調の違和を訴え、服薬しはじめたのが正徳二年夏のなかばである。そしてもう秋口にかかるころには、その薬さえしばしばもどすほど急激に衰弱しはじめたのだ。 (余命、もはやいくばくもあるまい)  と予知したのだろう、正室の近衛|煕子《ひろこ》をはじめ、まだ伝奏屋敷に滞在しているその父の老太閤近衛|基煕《もとひろ》、側室お喜代ノ方、お須免ノ方、お古牟ノ方、嗣子《しし》鍋松ら大奥に住む近親たちに、ひと通り家宣は、それとなく別れを告げた。  以来、きっぱり私情を断ち切って、大奥へは足を踏み入れていない。病床は�将軍の居所�と定められている中奥にしつらえさせ、看護もすべて小姓、近習ら男の手にゆだねた。  枕頭《ちんとう》につめきって容態の推移を見守ったのも、老中の秋元|但馬守《たじまのかみ》喬知《たかとも》、大久保|隠岐守忠増《おきのかみただます》、土屋|相模守《さがみのかみ》政直《まさなお》、それに側用人の間部詮房、侍講の新井白石ら幕政の枢軸にいたひとびとである。 (万一、終りに臨み、意識混濁して譫言《うわごと》など口走ったさい、女こどもの泣き縋《すが》りの中で、言いもせぬ言葉を遺言などと披露《ひろう》されては、後日、紛糾のもととなる)  との、家宣らしい細心な配慮からだが、木石ではないのだから、彼とて妻子には逢いつづけていたい。  ことにもお喜代ノ方と鍋松への愛着はひとしおだった。それを捻じ伏せ、どこまでも将軍職にある公人として、明白な最期を迎えようと家宣は決意したのであった。 「鍋松はまだ、幼少だ。わたしの歿後は、親藩の尾張家から継友《つぐとも》どのを迎え、将軍職につけてはいかがなものか」  と、老中らに彼は諮問《しもん》した。 「父としての気持からすれば、わたしも鍋松に七代目の位を譲りたい。しかし四歳の子に何ができよう。尾張どのに大権をゆだね、もし鍋松の成長後、尾張どのの存念で彼を八代の将軍位につけてくれたら、これに越す幸いはないが、それも強いて、と言うのではない。天下の趨勢にまかせるべきだと思うが、おのおのの存念はいかがか?」  秋元但馬守が、涙を抑えながら答えた。 「だれしも、子への妄執には迷うもの……。公明正大なただいまのごとき仰せは、なかなかもって口にできぬことでございます。ただ上さまおんみずから味わわれた思い出の苦さは、お忘れではないはず……。嫡子相続の原則を乱さず、ここはやはり、鍋松ぎみに七代将軍位をお渡しあそばすことこそ至当と考えます。ご幼稚を危ぶまれるならば、尾張さまをおん後見《うしろみ》に据えられるのも一法——。不肖ながら、われら老臣どもも力をつくして鍋松ぎみを守《も》り立てますれば、幕政へのご懸念は無用とぞんじます」  父綱重の死後、一時、預かるかたちで担当した政権を、いざ返す段になったら惜しみだして、放そうとしなくなった叔父の綱吉……。その違約に、さんざん辛い思いをさせられた家宣にしてみれば、秋元の忠告は身にしみた。  間部詮房、新井白石らの浮上を憎み、とかく二人を白眼視したがる幕臣が多い中で、秋元但馬守のみは虚心に間部らの実力をみとめ、 「あの両名の人物・識見ならば、重用されて当然じゃ。上さまはさすがにお目が高い」  はばからず言ってのける日ごろである。  家宣の人となりにも傾倒し、革新的といっていい新施政の断行にも協力を惜しまなかった閣僚だから、口にした言葉には誠意がこもり、説得力もあった。 「なるほどな」  家宣はうなずいた。 「但馬守の申す通りかもしれない。おのおのの補佐にゆだね、尾張どのを後見《こうけん》に据えて、幼冲《ようちゆう》ではあるが、では鍋松の相続を許そう。ただし、この父の体質を享《う》けてか、鍋松もけっして頑健とは言いがたい。もし後嗣を儲けぬうちに病死するようなことになったら、そのときはかならず尾張どのに将軍位を継いでもらいたい。しかと言い置くぞ一同」 「重大な仰せでございます」  白石が進み出て言った。 「お言葉のみにては、あやまちの生じる恐れもあるのではござりますまいか」 「心得ている」  筆紙を取り寄せ、家宣は公儀諸有司にあてて一通、諸侯旗本に当てて一通、計二通の遺書を自筆でしたためた。 「これでよかろう」  墨印《ぼくいん》まで、手ずからほどこして文庫に納めたが、息をひきとったのは冬のはじめ……。十月十四日の夕ぐれであった。 「ご他界あそばしましたッ」  知らせに、大奥じゅうが号泣に包まれた。  鍋松だけがその直前、中奥との境まで絵島に抱かれてゆき、ここで間部詮房の腕に引きつがれて、あわただしく父の死水をとった。  これも遺言によって、遺骸は芝の増上寺に葬られることになり、天下に服喪が触れ出されたが、 「天上から花が降ったぞ」  柩《ひつぎ》が御霊屋《みたまや》へ送られる当日、そんな噂がぱっと拡まったのも、庶民の末までが亡き将軍を敬慕していた証左かもしれない。  柔と剛     一  その花は、たとえばタンポポとか薊《あざみ》の葩《はなびら》をむしって散らしたように、ほそく、こまかく、金色に光りながら風に乗って、江戸の空をながいあいだ浮遊した。掌や扇をひろげて、はらはら舞い落ちるのを受けとめた者も大勢いたけれども、日がたつにつれて砕け、はては粉状になって消え失せてしまったという。 「天花《てんか》だ。天人が撒いた浄土の花だよ」  人々は言い合ったし、葬儀の日は夜になって、大きな星がゆっくり月をめぐるのを見た、と言い出す者もいた。  まだ、ある。 「同じ日、明け方に、ご墓所のあたりに霰《あられ》が降った。御廟所《ごびようしよ》の屋根にはことにたくさんつもったが、日が射しはじめても溶けないのでお墓守りの武士たちがふしぎに思い、つまみ上げてみると、なんとまっ白な、美しい真珠の粒だったそうだ」  そんな取り沙汰までが、口から口へささやかれた。  綱吉|薨去《こうきよ》のさいは、 「万年の、亀の甲府が世を取った。生類憐み令がなくなるぞ」  と狂喜した江戸市民が、家宣将軍の死には、神秘的な話を附会してまで悲しんだのである。  歌舞音曲の停止なども、ことさらやかましくは言わないのに自発的にとりやめたし、裏長屋の子供たちすら中陰《ちゆういん》のあいだ、声高なはしゃぎ方はしなかった。  家宣の享年は五十一——。  文昭院殿《ぶんしよういんでん》と諡《おくりな》され、朝廷からも太政大臣正一位の追贈があるなど、しばらく埋葬や法要にともなう諸儀式がつづいたが、夫に先立たれた場合の慣例にしたがって、正室の近衛|煕子《ひろこ》は落飾……。従一位に任ぜられ、『天英院』の法号に変った。 「一位さま」  とも、以後、呼ばれることになったのである。  側室たちも同様、髪を切った。お喜代ノ方は、『月光院』と号して吹上《ふきあげ》御殿に移ったし、お須免《すめ》ノ方は『蓮浄院』の法号を受けて、馬場先の御用屋敷に移転した。  お須免と同じ御用屋敷に住まいを替えたお古牟《こめ》ノ方は、これも切りさげ髪となって『法心院』の法号で呼ばれはじめた。  前将軍家宣を軸として成り立っていたその大奥は、彼の死によって一応、消滅したわけだが、お代替りの布告がなされ、鍋松が、名を『家継《いえつぐ》』と改めて、正徳二年も押しつまった十二月二十五日、 「従二位、権大納言に任ず」  との、宿次《しゆくつ》ぎの宣命《せんみよう》を受けると、ようやくまた、幕政はこの幼将軍を中心に回転しだした。  翌、正徳三年正月一日。  かぞえ年五歳の春を迎えた家継は、御袴《おはかま》の着初《きぞ》め式をおこない、三月二十六日に元服——。四月二日には正二位内大臣・右近衛《うこんえ》大将に任ぜられ、歴代の佳例通り淳和《じゆんな》院・奨学《しようがく》院の別当に補されて、源氏の氏長者《うじのちようじや》を兼ねた。同時に、征夷大将軍の宣下《せんげ》を受け、牛車《ぎつしや》・兵仗《ひようじよう》を許されて、ここに正式に七代目の大権を掌握することとなったのであった。  ……と、いってもまだ、家継自身には何ひとつわかりはしない。母や乳母、侍女たち相手に鳩車を曳っぱったり、庭に出て凧あげに興じるいとけなさである。  それでも気だてのやさしい、おっとりとした生まれつきだから、朝、きまりの時刻に月光院の住む吹上御殿へ間部詮房《まなべあきふさ》が迎えにくると、その腕に抱かれて本丸の政務所へ家継は出かけてゆく。  行儀よく上段の御簾《みす》の内に坐り、形式だけではあっても時間いっぱい政務を聴いて、また間部に抱かれながら母たちのそばへもどるのだが、 「それが、上さまの務めですよ」  と訓《さと》されれば、けっしてむずがったり拒否したりせず、おとなしく言いつけをきくのであった。  月光院お喜代ノ方に仕える奥女中らも、お代替りにともなっていっせいに吹上御殿に移動したけれども、それを機《しお》に大年寄の滝川が職を辞した。このため一躍、抜擢されて、絵島があとを継ぎ、お末、婢《はした》までかぞえれば千人にも及ぶ月光院附き女中たちの、頂点に立つことになったのである。  食禄も加増されて六百石——。女ながら、ご代参などで外出するさいは、老中なみの格式で供廻りを組み、宿下りの休暇も十六日間と、大幅にふえた。  家宣の病臥から逝去にいたるまでの四ヵ月間、心労のあまり食事もろくに摂《と》れず、痩せ細ってしまったお喜代ノ方だが、生みの子の鍋松が重責を担う身となり、しかもまだ、 「その子が幼い」  とあっては、責任を痛感せざるをえない。 「わたしがまず、しっかりしなければ……」  口に出してまでそう言い、すすまぬ食欲をはげまして養生に精出した結果、すこしずつ健康をとりもどし、忘れていた笑顔も、時おりは見せるようになった。  もともと町育ちだけに、気性のしっかりした、悧発な生まれつきである。まして将軍家の母儀《ぼぎ》として、鞠育《きくいく》の重大さを自覚してからは見ちがえるばかり月光院は老成した。年でいえばまだ、二十八の若さなのに、身分にふさわしい落ちつきと、威厳さえ添いはじめてきている。 「すてきな殿御よ」  と、御次《おつぎ》仲間のうわさ話でだけ聞かされていた間部詮房を、百合が実際に目にすることができたのも、吹上御殿へ移ってからだった。 (なるほど立派なお方だなあ)  と、百合は感じ入った。 「役者にだって、間部さまみたいな美男はいませんよ」  などと、御次頭のお曾和あたり手ばなしの打ち込みようだが、 「残念ながら月とすっぽんよね」  小ましゃくれた年かさの御次たちは、かげで笑う。 「お頭《かしら》みたいなおデブちゃん、五、六遍、生まれ代りでもしなければ越前守さまとは釣り合いがとれないわよ」 「まさか本気で釣り合おうとは思ってないでしょう。あこがれてるのよ。惚れっぽい女《ひと》だから……。前は役者の、生島新五郎に夢中だったじゃないの」 「新五郎なんかより、さすがに品がおありだわ、間部越前守さまは……。お大名ですもの」 「あらあら、ムキになってる。さてはあなたもお曾和さんの同類?」 「よしてよ。いくらご美男だからって越前守さまじゃ老けすぎてるわ。四十七か八でしょ? わたしのお父さんの年よ」 「生島新五郎も白粉ぬりたくって舞台へ出れば、若立役《わかたちやく》で通るけど、やっぱり年でいえば四十すぎのおやじどのだそうね」 「もっともお曾和さんじたい、三十なかばのおばさんだもの、のぼせる相手にはちょうどいいのよ。ほほほほ」  他愛ないわるぐちだけに、脇で聞いている百合にも面白い。 (わたしだって、一度だけだけれど、お芝居というものを見たことがあるわ)  絵島につれていってもらった山村座……。 (いま、話の肴にされている生島新五郎とやらは、あのとき出ていたろうか?)  考えてみても、よく思い出せない。やたらただ、華やかだったという印象だけで、舞台の記憶はもう、おぼろになっている。  一人、はっきり覚えているのは、二代目市川団十郎を襲名した九蔵の面《おも》ざしだけだ。赤隈《あかぐま》で顔をいろどって勇士に扮し、お家芸の荒事を演じたが、 (そうだッ)  心の中で、百合は手を打った。 (あのとき絵島さまが話してくださったっけ……。九蔵の父の初代団十郎は、生島新五郎の門弟の、生島半六とかいう役者に楽屋で刺し殺されたのだって……)  半六はその場で自害し、刃傷の理由は諸説ふんぷんとして結句わからぬまま、団十郎は殺され損——。半六は乱心ということで片がついたのだが、弟子が引き起こした不祥事の責任をとって、生島新五郎は当座、江戸での舞台出演を遠慮し、上坂した。 (大坂の芝居に出ているとも、たしか絵島さまはおっしゃっていたわ)  それならばあの日、百合が新五郎を見ているわけはないけれど、たとえ見なくても、 (役者など、間部さまにかなうはずはない)  とは、断言できる。たんに目鼻だちがととのっているだけでなく、凜《りん》と張りつめた気韻《きいん》の高さが、間部の進退を正しい、爽やかなものにしていた。  もともと西田喜兵衛という甲府藩士の子である。能役者の家へ弟子入りさせられていたのを、ひと目で、その聡明さを見ぬいた家宣将軍が、 「いずれ、かならずひとかどの者になる鳳雛《ほうすう》……」  と、師匠の喜多七太夫から貰い受けて小姓にした。  この恩命に感奮し、間部の側も誠心|一途《いちず》に家宣に仕えて、綱豊蒔代、お忍びで江戸市中を歩き廻ったころも、身に添う影さながらそばを離れなかったのである。  年齢は五歳ほど間部が若く、当時は右京《うきよう》の名で呼ばれていた。綱豊が美丈夫——。右京がまた、冴え返った眉目の持ちぬしだから、主従の絆《きずな》を焼きもちはんぶん、特殊な想像で汚す声も藩中に聞かれなくはなかったけれども、 「それこそが、下司《げす》の勘ぐり……。わが身に引きくらべて人を計るのだ。言いたいやつには何とでも言わせておけ」  家宣は一笑に附したし、間部も取り合わなかった。  傍目《はため》には、閨《ねや》を共にして当然と見えるほど、なごやかな情愛を通わせ合っていた日常だが、男色めいた事実は、じつは二人の間にまったくなく、主君と家臣、男と男の、ゆるぎない信頼関係だけで固く結ばれていたのである。     二  お喜代ノ方と家宣の仲を取りもったのも間部だし、彼らの恋の成就に腐心し、奔走したのも間部であった。  甲府宰相家の家臣であったころ、小姓を振り出しに累進して、間部は千五百石の大禄を食《は》むまでになっていたが、ようやく家宣が叔父将軍綱吉の嗣子に定まり、西ノ丸へ入御すると、扈従《こじゆう》してやはり西ノ丸に移り、側用人の重職についた。  越前守にも任官——。禄高は三千石となり、さらに主君の将軍位就任にともなって一万石の大身に出世し、現在は上州高崎城主・五万石の大名である。それなのに間部詮房には、いまだに妻がなく、したがって子もない。 「なぜ娶《めと》られぬのか?」  との問いには、 「公務にいとまなくて、つい……」  ほほえむだけだし、また、その言葉通り間部は連日、江戸城内の宿直《とのい》部屋に泊まりきりだった。支配地の高崎へもめったに帰らない。寝食を忘れて家宣の、公私両面に亘《わた》る生活の細部を支えぬいてきていたのだ。  そんな間部の、忠誠心の核には、あるいは彼の側だけに秘められた家宣への、恋と呼んでよい感情が潜んでいたかもしれない。自制して、それを抑えつづけ、家臣としての無私の奉仕に、すべてを打ち込んだのかもしれないが、いま間部の熱意は、挙げて幼将軍家継への薫陶《くんとう》にそそがれていた。 「たのむぞ詮房、鍋松を……」  手をとって、先君は言った。その遺託の重みに、全力をかたむけて応えようとしている間部なのである。  あいかわらず城中に寝泊まりして、彼は屋敷へ帰ろうとしない。一日じゅう吏務を見、一刻のとどこおりもなく仕事を捌《さば》いて、補佐の役目を完遂しつづける姿は、家宣の存命中よりさらに圧倒的な存在感で周囲の幕臣らを瞠目させた。 「休息らしいものを、まったくとらんのだからな」 「よくあれで、身体がつづくよ」 「まるで先君の御霊《みたま》が、間部どのに乗り移りでもしたようではないか」 「貴公も、そう思うか?」 「上さまのなつきかた……。見ていて涙ぐましくなるくらいだものな」  ささやきには、幼将軍と間部の繋りが、日を追ってつよくなりはじめていることへの警戒も含まれている。  朝の迎え。午後の送り……。吹上御殿と本丸の政務所とを、毎日、行ったり来たりするあいだに、家継は父を失った淋しさを間部の愛で埋めるようになった。ほかの者が迎えに参上しても、 「いやだ、越前でなければ……」  かぶりを振って、抱かれようとしない。肩車などに乗せられて御殿へ帰ってくると、そのうれしさが忘れられないのか、 「もどってはいけないよ」  おろそうとする手にしがみついて泣き出してしまう。 「もっと、ここにいてよ越前、肩車をしてほしいよ」 「御用のし残しを、片づけなければなりませぬ。これにて退らせてくださりませ」 「だめ、だめ。行ってはいや。母さま、越前をとめて……」  駄々をこねるのに、とうとう折れて、 「では、御苑《ぎよえん》の築山まで……」  小さな身体をまた、肩に乗せると、 「わあ、高いなあ、交竹院のお頭《つむ》、撫でてやろうか」  家継は声をあげてはしゃぐ。 「いやはや、この坊主頭に上さまのお手が触れては勿体ない。後光《ごこう》がさして、禿《はげ》とまちがわれますぞ」  奥山交竹院のおどけ顔に、月光院まで笑い出して、看経《かんきん》にあけくれる湿りがちな御殿が、一ッとき花やぐ。 「さあ交竹院、一緒においで」 「お供いたしましょうとも」 「母さまもいらっしゃい。築山の亭《てい》まで……。絵島、宮路、みんなこい」  履物を回させる月光院を介添えして、女中たちまでがさざめきながら庭へおりる……。先頭をゆく間部詮房の、引き緊った、丈の高いうしろ背を、お廊下にいて遠くながめながら、 (あれが、亡くなられた将軍さまだったら……)  そう思って、百合はふっと涙ぐんだ。  百合だけではない。女中たちは絵島をはじめ、だれもが同じ感懐にゆすぶられた。月光院あたり、胸中はさらにいっそう複雑だったにちがいない。  元気だったころ、今よりもっと幼かった家継を片腕に抱き、あいているいま一方の手で月光院の手を曳いて、四季、花の咲き乱れる大奥の庭園を、家宣も時おりそぞろ歩いたことがあった。やはり奥山交竹院が供をし、絵島や宮路が背後に従っての散策だが、間部がいま、その代りを勤めているにしても、彼にはどこまでも家臣として守るべきけじめがあり、礼儀がある。幼将軍に、なつかれればなつかれるほど、間部は恩寵に狎《な》れまい、分《ぶん》を越えまいと気をつかった。  月光院には、ことにも言動を慎《つつし》んだ。かりそめにも誤解や中傷の矢ぶすまに、若い未亡人が晒《さら》されぬよう細心の配慮を怠らなかったし、これは月光院の側も同じであった。  家継のむじゃきな歓声を中に、形だけは家宣在世当時そのまま花園を練っても、だから、なごやかさの質はまったく異なる。それが百合たち使われる者の胸に、かえって新しい悲しみを呼び起こす種にもなった。  でも、そこが美男の一徳だろうか、間部詮房がくれば、それだけであたりが活気づく。女たちの眸《め》が、なまめかしく輝き、声にはいっせいに弾みが生じるのである。  新井白石となると、しかし、そうはゆかない。当年とって五十七歳だそうだが、顔貌の怕《こわ》らしさで言えば六十七、八……。十も年をくった老|碩学《せきがく》に見える。ごま塩の太い眉。その下に嵌《は》めこまれた大きな眼で、射すくめるように睨まれると、百合たちみたいなお転婆《てんば》ざかりの腰元でも、一発で竦《すく》みあがってしまう。 「毛ぎらいしてる連中からは、あのかた、『鬼』と仇名されているそうよ」 「へええ、鬼? それは少しきのどくね」  そんなかげ口を面白はんぶん、家継将軍の耳に吹きこんだ者がいるらしい。 「新井は、鬼か?」  ふしぎそうに問われて、毛虫眉を白石は得意げにあげさげした。 「いや、鬼ではござらん。火の子でござる」 「どうして?」 「大火事のときに生まれましたのでな、上さまぐらいの年ごろには、まわりの人々に火の子、火の子と呼ばれておりましたわ」     三  白石の言う大火事とは、明暦《めいれき》三年正月、江戸の大半を焼きつくした災害をさしている。 「わたくしの母者《ははじや》は大きなお腹《なか》をかかえて火の下を逃げ走り、向柳原《むこうやなぎはら》の殿さまのご別邸に避難するとすぐ、赤ン坊を生み落としましたのじゃ」 「その子が新井なの?」 「さようでござる」  上総《かずさ》の久留里《くるり》城主・土屋利直が、白石の父を目付役として召しかかえていた主君であった。 「なに、新井|正済《まさなり》の妻女が、藩の別墅《べつしよ》でつつがなく分娩したと? まるでその小児、火事の申し子のようだな」  興《きよう》がって、殿さまみずから『火の子』と名づけたのが、幼少時代の愛称の由来なのだそうだ。 「鬼とお呼びなされても一向にかまわんが、ですからこの爺《じじ》のもともとの仇名は、火の子でござるよ上さま」  家継将軍にそう言って聞かせたところをみると、意に介さぬ顔をしながら自分を『鬼』よばわりする人々の敵意に、白石は不快感を抱いてはいるのだろう。  もっとも大《おお》痘痕《あばた》の上に、湯あがりさながら色が赭《あか》いから、『鬼』にしろ『火の子』にしろぴったりの仇名といえる。体躯はさほどがっしりしていない。どちらかといえば痩せて、小柄なほうだが、気迫のするどさが顔面に漲っているので、奥女中などには、 「こわい」  と敬遠されることにもなるのである。  たとえば勘定奉行の荻原重秀を奸物《かんぶつ》と見て、くり返しくり返し攻撃したさいの、白石の執拗さ、いったん正しいと信じたら枉《ま》げようとしない頑固さは、それを長所の一つと見て許容している亡き家宣将軍をさえ、ときには溜め息をつかせたほどだった。 「いったい、では、このような気質が何によってつちかわれたか」  といえば、それは父親の、 「男はただ、ひたすら耐える修練を積むべきだ」  とする教育方針に依るのである。子供のころから苦しいこと辛いことに耐え、これを一つ一つ克服してゆけば、大人になって困難にぶつかっても容易に挫折はしない。 「苦労は、買ってもしろ。苦しみに耐える精神さえ養っておけば、どんな戦いにも、やすやす負けることはないぞ」  この信念で父の正済は、白石をびしびしきたえた。八歳から始まった文字の学習など、日中に三千字、夜、一千字の習字を課すという恐るべきもので、それでも白石は音《ね》をあげなかった。 「冬は日が短いでしょ。お部屋が暗くなると机を寒風吹きすさぶ縁側に持ち出して、昼間の三千字をようやくこなすのよ。眠くなったら井戸端へ出て、水を頭からかぶるんですって……」  と御次仲間が語るのを聞くと、百合など、とても人間|業《わざ》とは思えない。 「強い心は、強い身体に宿るともいうわけでね、撃剣も習わされたそうだけど、やがて父上が土屋家のお家騒勤に捲きこまれて浪人してからは、たいへんな貧乏を味わったそうよ」  困難に耐える訓練が役に立って、しかし白石は、貧苦などものともせぬ青年に成長した。  一時期、堀田家に仕えたけれど、まもなく辞して、浅草の報恩寺境内に浪宅をかまえ、三十を半ばすぎるまで町の子供らに手習を教えていた。学殖は、その間にもいよいよ深まって、師の木下順庵門下では、 「第一の俊才」  と折り紙つけられていたそうだ。  新見《にいみ》左近の変名で江戸市中を徘徊していた甲府宰相綱豊——のちの家宣将軍に見いだされ、その知遇を受けるようになったのも寺子屋の師匠時代だが、百合が胆をつぶしたのは、 「貧書生の白石先生を見込んでね、豪商の河村|瑞賢《ずいけん》が、ぜひ孫むすめの婿になってほしい、持参金に三千両つけるから後顧の憂いなく学問に打ちこんでくれと申し入れたのに、惜しげもなくその縁談を蹴ってしまったんですってさ」  という朋輩の話を聞いたときだった。 「わあ、三千両!?」 「そう、三千両」  桁《けた》はずれな額に相手も笑い出した。お勢以《せい》という百合より三歳年長の御次で、親元が小旗本なのをつねづね鼻にかけている娘である。 「それで、どうなったの?」 「どうもこうもないわよ。ぴしゃッと断られてしまったんだもの、さすが『智恵の瑞賢』も尻尾《しつぽ》を巻いて引きさがったそうだわ」 「もったいない話ねえ」 「お嫁さんになるその孫というのが、よっぽどまずいご面相ででもあったのかしら……」 「白石先生だって痘痕《あばた》だらけの鬼よ」 「鬼面《おにづら》になったのは年とったからでしょ。若いころはあれでも目つきのするどい、苦み走った顔じゃなかったかしら……」 「嫁御寮がちょっとばかり不美人だって、三千両の仕度金がつけばたいしたものなのに、惜しいことねえ」  と百合はお金にこだわる。  河村家は瑞賢が一代で財をなした富豪で、その立志伝はいまなお江戸庶民のあいだに語り草となっている。  人が川に捨てる盆の精霊《しようりよう》の供えもの……。胡瓜《きゆうり》の馬や茄子《なす》の牛に目をつけ、拾って新香に加工して飯場の労働者相手に売り歩いたことから、まず、いくばくかの元手を掴み、瑞賢は小さな材木屋になった。巨万の富を一気に稼いだのは、これも明暦の大火のときである。 「大焼けになるぞ。まちがいない」  見てとった瑞賢は有り金をふところにさらえこみ、まだ江戸市中が燃えさかっているうちに炎光を背に負っていっさんに駆け出した。  行きついた先は木曾の山奥——。まだ尾張名古屋の城下にさえ何の噂も伝わってはいないのだから、まして木曾の山元《やまもと》が江戸の大火事を察知するはずはなかった。それでも用心して、瑞賢は逸り立つ気持を抑え、わざと鷹揚《おうよう》にかまえてみせた。 「杉、檜《ひのき》を少し大量に買いつけたいのだがね、この坊やはお宅の子かい?」  遊んでいる男の子を指さす。 「わしらの孫でがすよ」 「かわいい子だね。おいで坊や、いいものをあげよう」  身の皮を剥《は》ぐ思いの一両小判なのに、無雑作に一枚財布からぬき出して、炉べりの火箸で穴をあけ、 「ほうら、こよりを通すと腰さげになるだろう?」  玩具がわりに、ぽんと与えた。  えらい材木問屋がやって来たと、すっかりこの芝居で質朴な山里の民を煙《けむ》に巻き、 「わたしは江戸の河村という。品物が着き次第、現金で金を送るからどんどん運んでおくれ」  手附金をいくらか置いただけで、莫大な量の良材に片はしから『河村』の焼き印を押させてしまったのである。  江戸の大手の材木問屋が、何軒も血相かえて木曾谷に駆けつけて来たのは、すっかり取り引きをすませ、瑞賢が帰路についたあとだった。 「な、なんじゃと? 江戸が焼け野原?」 「建材は何もかもうなぎ登り……。わしらなら三倍の値で引きとったものを……ちきしょうッ、ひと足おそかったか」 「こっちもくやしいッ。みすみす河村の言い値で売ってのけたとは!」  と山元もじだんだ踏んだが、あとの祭りであった。     四  このほか、瑞賢の才覚や抜け目なさを証明する伝説のたぐいは枚挙にいとまない。江戸の町民から『智恵の瑞賢』の呼称をたてまつられたほどだが、やがて公儀ご用の川普請、架橋や道路工事にまで腕をふるって、屈指の豪商にのしあがれた振り出しは、やはり何といっても明暦大火のさいの、木材買いしめにあった。  夜空を染めた紅蓮《ぐれん》の下で、くりひろげられていたであろう地獄図……。  親は子に別れ、妻は夫を失い、死人けが人幾万という惨事を金儲けの機会にして、巨利をはくしたような男から、しかし若き日の新井白石が、 「びた一文、助力など受けてたまるか」  と思ったのも、うなずける。 「そんな金で学問をつづけたら、自分ばかりか学問への冒涜だ」  そうも白石は舌打ちしたに相違ない。  師の木下順庵は、貧窮に喘ぎながら物欲に惑わされない愛《まな》弟子を、高く評価していた。そのくらしぶりを思いやって、正規の束脩《そくしゆう》も白石からは受け取らず、いわば特待生扱いにして面倒を見ていたのだが、たまたま加賀百万石の大名前田家から、 「どなたか一人、ご門下の俊秀をご推挙たまわるまいか。儒臣として召しかかえたい」  と言ってきたので、ただちに白石を推すことにきめた。 「加賀藩主前田|綱紀《つなのり》侯は、好学の聞こえたかいお方である。仕え甲斐ある主君と申せよう。受諾してはどうか」  順庵の温情に、白石はあつく謝意を述べた。でも前田家への仕官そのものは、 「同門の友人岡島|石梁《せきりよう》に譲りとうございます」  と、丁重にことわった。 「岡島の郷里は加賀……。金沢のお城下には年老いた母御が一人いて、倅の帰郷を待ちわびているそうです。前田家に仕えることができたら岡島は老母に孝養が尽せるし、郷党に錦を飾ることもできるでしょう。もしよろしければ、どうか岡島をご推薦くださいませ」  これもまた、おいそれとできる譲歩ではない。白石自身、咽喉から手が出るほど欲していた生活の安定ではなかったか。 「よくぞ申した。そなたの友情を嘉《よみ》し、では岡島を推すことにしよう」  順庵が感心し、以後ますます白石を信頼したのはいうまでもない。  甲府宰相綱豊——のちの六代将軍家宣が、新見左近の変名で江戸市中を歩き廻った目的の一つは、在野の偉材の発掘にあった。 (いずれ将軍職についたあかつき、大いに彼らの能力を活用して治政の実をあげよう)  との意図を秘めていたわけだから、白石との出会いは、どちらにも仕合せな結果をもたらしたものだといえよう。  甲府家で、侍読召しかかえの話が持ちあがったとき、綱豊は躊躇なく、 「すばらしい少壮学者を予は知っている。木下順庵門下の新井白石と申す者だ。この者を当家に仕官させ、予の学問の師としたい」  と主張した。老職たちは、だが首をかしげた。 「お言葉ではございますが、ご親藩《しんぱん》お召しかかえの儒臣には、林家《りんけ》の息のかかった者こそ適当とぞんじます。順庵の門弟どもでは、ちと、どうも……」  林家というのは、林羅山《はやしらざん》の系統をひく公儀おかかえの学閥で、当主は代々、大学頭《だいがくのかみ》に任ぜられ、おびただしい門葉を擁して公文書の作成、司法の典例など重要事項にたずさわっていた。いわば官立学派の総帥だったのである。  年が若く、世間をひろく見ている分だけ、しかし綱豊のほうがむしろ家老どもより頭が柔軟だった。 「官学にこだわることはない。林派《りんぱ》から見れば、なるほど木下順庵は何らの権威すら背景に持たぬ市井の一学究にすぎまい。しかし学識のみならず教育者としても卓絶した力を持ち、門下からは白石だけでなく、雨森芳洲、室鳩巣《むろきゆうそう》、榊原|篁洲《こうしゆう》、岡島石梁、板倉復軒ら、錚々《そうそう》たる碩学《せきがく》が綺羅星のごとく輩出している。白石は中でも群をぬく逸材……。人格も高潔だ。もし、おぬしらが官学にこだわるなら、ためしに林家に使者を立てて、当家に門流を仕官させるか否《いな》か、打診してみよ」 「どう答えましょうか」  江戸家老筆頭の戸田|長門守忠利《ながとのかみただとし》がたずねた。 「即座に拒絶するだろう」 「ま、まさか。ご当家に向かってそのような無礼を……」 「いいや、断るよ。大学頭林信篤を頂点とする御用学者どもは学徒というより、もはや官僚なのだ。信篤はわけて、綱吉将軍に気に入られている。それに引きかえ、予は綱吉叔父の憎まれ者……。保身の上からも、彼らはけっして甲府家になど近づこうとせぬはずだよ」 「しかし、ご連枝でござりますぞ」 「なまじ将軍家の連枝だからなお、親族同士の確執になどかかわるまいとするのだ。ものはためし、使者を差し向けてみればわかるさ」  そこで言う通りにしてみたところ、林家からの返事は綱豊の予測にたがわず、 「あいにくいま、適任者がおりませぬ」  というそっけないものだった。 「なるほど。そうか……」  ようやく戸田たちにも林派の体質が呑みこめた。 「それならば……」  と木下順庵の学塾へ、同じ申し入れをしてみたところ、こんどはここからも門弟の派遣をことわられてしまった。禄米三十人|扶持《ぶち》という条件が、悪すぎたのである。 「新井白石を差し向けよとの、貴藩のご希望ではござりますが、彼は木下塾第一の学力を有する門下。年も不惑に近づいております。妻子があり、年齢三十七の俊秀を、わずか三十人扶持で仕官させるわけにはまいりません」  にがにがしげに師が使いの武士をきめつけたと聞いて、 「わたくしは三十人扶持でかまいません。赤貧、洗うが如き現状にくらべれば、それでも極楽です」  白石は申し出た。 「いいや、いかん。そなた一人の問題ではない」  金銭に恬淡《てんたん》な日ごろに似げなく、順庵はきっぱり言った。 「あとにつづく門弟たちの処遇に、このことが悪《あ》しき前例となっては困る。禄高については、わたしにまかせておきなさい」  官学偏重の傾向はいささか改まったにせよ、まだまだ戸田長門らの意識の中には、私学への差別感が根づいていた。 「新井を迎えるならば厚遇せよ。ゆめゆめ礼を失してはならぬぞ」  と綱豊に念を押されていたにもかかわらず、三十人扶持などという条件を示して、順庵の不興を買ったのである。  あわてて十人扶持を加算し、四十人扶持に直してやっと白石を招聘することができたのだが、綱豊との対面が劇的であった。 「新井先生。しばらくごぶさたしておりました。つい、抜け出す折りがなくて……」  気さくな笑顔で迎えてくれた相手を、甲府宰相と知って、 「では、あなたは、三十五万石のお主《あるじ》……」  白石は驚愕した。  間部右京と名乗る若い近習を供につれ、いつのころからか、時おりふらっと浅草報恩寺内の浪宅を訪れて、経史の疑問個所を質《ただ》したり、あれこれ世間ばなしなどして帰って行った新見左近という青年武士——。 「どうも気品がありすぎる。某藩の家老の息子と称しているけれども、本当だろうか。ただ者でない気がするが……」  かねがね妻に、そう言っていた白石だが、まさか左近すなわち綱豊とまでは、夢想もしていなかったのだ。 「今日から先生はわたくしの師です。どうかよろしくご教導ください」  と、綱豊が上段からおり、 「それでは恐れ多うございます」  恐懼する白石と同列の座について、政務の規範を学ぼうとした真率な態度は、その後、六代将軍の顕位につき、家宣と名を改めてからも変らなかったのである。     五  間部詮房と新井白石は、つまり甲府家の他の家来たちとはまったくちがう仕官の仕方をし、仕えて以降も、主君綱豊とのあいだに特殊な心情で結ばれていた家臣だったといえる。  しかも綱豊が六代将軍の大統を継ぎ、『家宣』と名を改めてからはつねに側近にいて、その政治理念の推進役となった。  ——と、いっても、家宣はけっして人まかせ、あるいは権臣の意のままにあやつられる土偶《でく》になど甘んじた暗君ではない。間部や白石もまた、将軍の信任を笠に、恣意《しい》を振おうと企むような家臣ではなかった。  白石に経学をまなび、天下の経綸《けいりん》について諮問《しもん》するけれども、最終的な判断と決定は、なにごとによらず家宣によってなされたし、命令もいっさい、その口から出たのである。間部は側用人として、将軍の令達を、老中もしくは担当の行政機関に、忠実に伝えたにすぎない。  だが、ともあれ二人の存在は、徳川家譜代の幕臣によって構成されている閣僚たちや、その下に末広がりにつながる幕吏の集団から見れば、すこぶる異質なものだし、なみなみならず二人がこうむっている将軍からの眷顧《けんこ》、主従関係の結びつきの強さも、異常なものに思えるのは無理ないことだった。 「かわいそうに……」  政治にとりくむ家宣の熱意、それを支えて懸命に努める間部や白石の私欲のなさを、虚心に認めている幕臣たちはひそかな同情を口にし合った。 「ああいう用いられ方、信頼のされ方は、間部らにとって不幸だよ。先代綱吉公に重用されすぎた柳沢|吉保《よしやす》がよい例だ。柳沢どのも弥太郎と呼ばれていた小姓のころから、館林侯だった綱吉将軍に愛され、ご本丸入りと同時に抜擢されてお側用人となった」 「もっとも、ご先代が薨じるととたんに柳沢が失脚したのは、ご在世中、政務を一人で切って回しすぎたからだろう。しかもその政務じたいに生類憐み令や悪貨の鋳造など、あやまちが多すぎたよ。世間の怨嗟が柳沢どのを倒したのだともいえるな」 「その点、ご当代の政治は正反対といってよいほどちがうし、間部や白石の働きぶりも、柳沢のそれとは根底から異なる。しかし一人の将軍に密着しすぎているという意味では、柳沢どのと同じだな」 「二人の擡頭を不快がり、重く彼らが用いられている現実に嫉視を燃やしている連中はすくなくないよ」 「ことに白石はあぶない。なにせ『鬼』と仇名されている男だからな。直情猛進、正論さえふりかざせば通らぬ道理はないと信念して押し切ろうとするだけに、敵が多い」 「家宣将軍ご在世のあいだだけだな。彼らが台閣にいられるのは……」 「そういうことだ」 「将軍家は、身体がお弱い。白石たちが我が世の春を謳歌できる期間も、さくらの花ほどの短さというわけか」 「二人とも莫迦《ばか》ではないから、お代替りになるとたちまち、政敵が寄ってたかって足を引っぱるぐらいは見通しているだろう」 「林大学頭など、ことに白石とはことごとに対立し、いがみ合っている仲だからな」 「由来、寵臣というものの、それが宿命なのだ」  いささかは厚意に裏付けされているとはいえ、結局は他人《ひと》ごとの冷淡さで苦笑するのがおちだったが、綱吉将軍の死と家宣の死の、決定的な相違は、たとえ幼弱ではあっても、一方に子がいたという点だった。  綱吉歿後、そのあとを継いだ家宣は、生前から叔父を批判していた。したがって重臣の入れ替えはもちろん、先代の施政の否定も、大いにありえた。でも家宣の場合、後嗣の地位についたのはその嫡男の鍋松である。 「お代替りと同時に、間部らは逐《お》われる。きのどくに……」  と見ていた大方の予測は、この意味でははずれた。家宣に捧げた忠誠、いや、それ以上の忠誠心を、白石と間部は遺孤の鍋松——家継将軍に傾け尽したのだ。  遺言にしたがって尾張藩主が幼将軍を後見することになったけれども、どこまでも分を守って、口出しめいたことを何ひとつしない。このため、閣僚の更迭などもおこなわれず、家宣在世中そのままに政務は執られつづけたのである。  間部の都合がわるい日は、吹上御殿へ、白石が家継を迎えにくる。 「さあ上さま、まいりましょう。肩車がようござるか?」  いかつい調子で言われると家継は怯《おび》えて、間部には、 「なるべく、お歩《ひろ》いあそばせ」  と、すすめられても、 「いやだよ、肩車がいい。乗せてよ越前、ねえ、乗せてよ」  うるさくせがむのに、白石だと、 「ううん。いい。歩いてゆく」  ひどくおとなしい。 「ではせめて、だっこしてさしあげましょう。それともおんぶがようござりますかな」 「いいよ。歩いてゆくよ」 「おみ足の鍛練には、じつはお歩きなさるのが何よりよろしいのでござります。上さまももはやおん年五ツ……。いつまでも赤児のようにおんぶだだっこだなどと甘えていては、万民の上に立つ器《うつわ》とはなれませぬぞ」  と、どんなことでも、白石は訓戒に結びつけてしまう。仕方なく、ベソをかきながらも、骨ばったその手に、手を曳かれながら、家継が徒歩で御殿を出てゆくのを、百合たちは痛わしがって見送った。 「きびしすぎるわね、ご本丸の政務所まで、だいぶの道のりですよ」 「もはや五歳、とおっしゃるけど、まだ五歳、とも言えるでしょ。ようやく赤ちゃん離れなさったばかりの頑是《がんぜ》なさではありませんか」 「お身弱《みよわ》なお生まれつきなのに、風邪でも引かれたらどうするつもりかしら……」 「ああいうところが『鬼』なのよ」  と、かげでの譏り口ははてしがない。 「身体が弱いから、きたえようとなさっているのです。父ぎみ文昭院さまがご存命だったら、やはり新井先生のおっしゃる通りなさったにちがいありませんよ」  女中たちを、月光院はたしなめるが、内心はだれにもまして家継の虚弱を案じぬいていた。  間部詮房は柔。新井白石は剛——。補佐する二人の性格が、両極に分かれているのは均衡の上からも、家継の教育に望ましいことだった。双方がおぎない合って、幼君を亡き父に劣らぬ将軍に育てあげようと努力している姿は、月光院を涙ぐませる。  どこまでも公明正大、私心なく政治に臨むことこそを、為政者の要諦と信じている白石は、家宣にもそのように説き、家継をもまた、そのように教育するつもりでいる。まだ、ろくに文字一つ読めぬ少童でも、簾の内に坐らせて正しい裁き、閣僚たちの執務ぶりのまじめさなどを見せておけば、かならず成長の過程で裨益《ひえき》するところがあると信念し、ただ、たんに決裁書類にめくら判を押すだけの�人形�にとどまらせまいとも配慮していた。 「よろしいか上さま、これは遠江《とおとうみ》の国、篠原《しのはら》と申す漁村に、荷船《にぶね》が難破してただよい着いたさいの訴状でござる」  わかってもわからなくても、白石は家継将軍に説明する。 「船主も水夫どもも、紀州|船津《ふなつ》の住人……。船中には江戸に運ぶさまざまな商品が載せてありましたが、航海中、荒天《しけ》に遭い、海浜近くで座礁して船体がこわれ、積み荷もろともばらばらに浜辺に打ちあげられたのでござった」  子供にも理解しやすいようできるだけ平易に話して聞かせるので、家継は興味をそそられ、 「それで?」  と、先をうながす。     六 「水夫の中には溺れ死んだ者が多く出、ようやく波打ちぎわに泳ぎついた者も、力尽きて半死半生のありさま……。それなのに近辺の漁民どもは難に遭った人々を助けようとはせず、争って船体の破片や積み荷を奪い取り、着服して、そしらぬ顔をしておったのでござる」 「ひどいね、盗人じゃないか」 「また、これは岩代《いわしろ》の、二本松藩領で起こった事件でござるが、藩の侍と、領内を通行中の百姓数名が、ささいなことから口論し、はては喧嘩となって、あげくは多勢に無勢、侍の側が怪我をいたしました」 「刀は抜かなかったの?」 「さよう。大事に至るのを用心して、抜刀はせなんだよしにござった」 「だからやられてしまったんだな。でも、よく我慢したね。感心な侍じゃないか」 「だれでも左様に思います。それなのに、これまでのお裁きでは、難破船の積み荷を奪った漁民、衆をたのんで武士をきずつけた農民の側が勝訴となり、訴えて出た船主や武士のほうが、あべこべに罰せられたのでござりますぞ」 「おかしいね。なぜ?」 「漁民も農民もが、公領の民だったからでござる。ご存知かな? 公領の意味を……」 「このあいだ教えてもらったから知っている。公儀の領地だろ?」 「よく、お覚えあそばしました。幕府直轄のご支配地、代官を差し向けて治めさせている町村じゃが、天領とも申して、由来、かくべつの気風が養われております。すなわち虎の威を借る狐でござるな」 「理不尽なことをしてもかまわないと思っているんだね」 「お代官のおおかたは、僻地に赴任して苦労を舐めながらも、まじめに民政にとり組んでおりますが、中には公儀のご威光をふりかざし、理を非に枉《ま》げる奸吏がなきにしもあらず……。先にあげた二つの訴訟など、その好例と申せましょう」 「でも、弱いほう、正しいほう、理のあるほうが裁きに負けては、民は安心してくらせない。天領に住むから、私領に住むからといって、依怙《えこ》贔屓《ひいき》してはいけないじゃないか」 「あっぱれな仰せでござります。従来のしきたりではあっても、弊風は改めねばなりませぬ。父ぎみ家宣将軍は断乎、この二例の係争を裁き直させ、天領の漁民農民を罰せられました。よくよく上さまも胆に銘じ、向後、類を同じくする訴えがあったさいは、公平なご判断をおくだしあそばしますよう……」 「わかった。老臣たちとも諮《はか》って、まちがいない裁きをするよ」  真剣な表情でうなずくのが、何とも愛らしい。  飴細工《あめざいく》さながら、引っぱって伸びる背丈なら、手で掴んでも伸ばしたいとすら思っている母や白石の焦りを反映してか、家継は年よりずっと大人びて、賢かった。時にやんちゃも言うけれども、たしなめられればすぐ、聞きわけたし、天性、上に立つ者の資質を備えてもいて、子供ながら早くも召し使う者たちに、こまやかな思いやりを示しもした。  天領の行政を直接つかさどる代官の能否は、大名支配地との紛争ともからめて、公儀の収入にかかわる重大な問題だった。  また、せっかく集めても、貢米が公儀の蔵に順調に納まるか否かは、漕運《そううん》の巧拙に関連している。  さらには河川の築堤・浚渫など水防水利工事の推進。五街道その他、幹線道路に於ける駅伝の整備。金銀山の開発。すべて先代から引きつづきおこなわれているこれらの事業は、つきつめれば公収の増加にあった。  勘定吟味役——つまり会計監査役を置いて代官の私曲をふせぎ、各地に能吏を配して殖産の奨励、作物の増収をはかれば、しぜん貢米のお蔵入りはふえる。運送の改善にしても、目的は同じだった。 「十数年にさかのぼって海難の記録を調べましたところ、なんと数万俵にも及ぶ貢米がむなしく海底に沈んでおります。ご公儀の回船網をこのさい、とことん検討し直し、造船技術の改良、水夫の養成、気象学の考究など根本的な手入れを急いで、むだな水損を防止せねばなりませぬ」  と、かねがね白石は、先代家宣に進言していたし、河川の整備も同様、目ざすところは洪水の脅威から、公田を一町歩でも多く守ろうとする点にあった。 「それと、これまでの諸|普請《ぶしん》の、工法の杜撰《ずさん》さ、入費の多さ……。業者に請け負わせるにせよ村請けにせよ、入札や資材の購入に介在して係り役人が私腹を肥やし、いたずらにご予算を食いものにしておる現状ゆえ、手抜き工事が当り前となり、年中行事さながら堤防決潰その他、暴風雨による災害がくり返されております。これを何とかいたさねば冗費ばかりかさんで、貢米の増収など、到底おぼつかないのではござりますまいか」  金山、銀山の開発や掘鑿《くつさく》を、より以上、促進しようというのも、結局はそれによって幕府収入の増加をはかるのが目的であった。家宣の襲封当初、それほど財政は逼迫していたのである。 「長崎での、外商との交易にも一考を要します」  と白石は、彼独自の調査結果にもとづいて家宣将軍に意見を具申したこともある。 「ここ五、六十年のあいだに、公辺《こうへん》のお入目《いりめ》は年々かさみ、ことにも綱吉公の御代にはビードロ製品や時計、砂糖、あるいは白檀《びやくだん》、丁子《ちようじ》などの香木類、またラシャ、更紗《さらさ》、鮫皮《さめかわ》など不急不用の贅沢品をおびただしく海外から買い入れ、これに対する支払いとして年々莫大な数量の銅貨、銀貨、金貨が外国へ積み出されました。慶安初頭から宝永五年の期間に限ってすら金貨およそ二百四十万両、銀貨は三十七、八万貫、銅貨に至っては五十年たらずの内に、十一億|斤《きん》を越す量が流出しております。この数字は、金だけに限っても慶長以降、現在まで、ほぼ百年間の総産出量の四分の一に当たるもので、今なんらかの抑制策を講じぬことには、いずれ国内の保有金は底をつく惨状となるはずでござる」  至急、長崎奉行に厳達し、舶来品の種類と数量の制限、貨幣による通商そのものの見直しをはかる必要がある、というのが具申の内容だった。 「では、伝馬の整備は?」 「これまた、綱吉公の秕政《ひせい》の、尻ぬぐいでござります。宿駅の伝馬、夫役《ぶやく》に、過酷な負担を課し、しゃにむに貢米の輸送、公文書の頻繁な押送などを義務づけたため、助郷《すけごう》村の疲弊をもたらし、沿道の難儀が増大いたしました。かえってその結果、輸送力は落ち、お蔵入りに支障をきたしております。早急にこれを改善し、公用物資の貫目検査、過重数量の切り捨てなど課役の軽減によって、宿駅本来の機能を回復いたさねばなりませぬ」 「具体策として、では、何から手をつければよいか」 「まず、村高《むらだか》によって夫役の人数を定め、馬荷の重さは十六貫を限度として、近江の草津、駿河の府中、武蔵の品川、千住、板橋、下野《しもつけ》の宇都宮など、五街道の分岐点、出入り口に当る宿駅に貫目の改め役所を設置し、公用物資の量目を検査させるのが急務ではござりますまいか」  それと、いま一つ、重大な懸案は貨幣の改鋳だった。これをやりとげないことには、財政の根本的な立て直しは不可能とすら見られていたのだが、惜しいことに天は家宣に、五十一年の寿命しか与えなかった。  解決した課題が少くなかった半面、しのこした案件も幾つかあり、白石や間部は、次の家継の治政下で、それらを片づけてゆこうとしたのである。  現場で実務にたずさわる役人たちの間では、しかし白石の改革案に批判が無くもなかった。たとえば交易の制限についても、 「消極策だ。金銀の流出を恐れるより輸出品目をもっとふやし、売り込みに精出して、外貨を獲得するほうが国力の振興につながるじゃないか」 「しょせん学者が、机上ではじき出した空論にすぎん。げんに清国《しんこく》の場合、金相場は銀よりずっと低いのだよ。清国の商人は、だから安い金を持ちこんで我が国の銀と交換したがる。そこを狙って、利にさとい長崎商人はずんずん金を買い入れているんだ。出てゆく量の半分以上ははいっても来ているはずなのに、そのへんを計算に入れないんだなあ」  といった声も聞かれるのだ。     七  家継の、将軍宣下にあたり、勅使に選ばれて下向してきたのは、摂政の近衛|家煕《いえひろ》であった。  かならず征夷大将軍宣下のさいは、摂関家から一人、もしくは二人、上卿《しようけい》が東下《とうげ》するならわしだが、特に家煕が勅使役を仰せつかった裏には、 「ぜひ、わたくしを……」  と、彼みずから朝廷に願って出るといういきさつがあった。  近衛家煕は、天英院煕子の弟——つまり老太閤近衛基煕の嫡男である。  音信は、おたがいのあいだに絶えず交されていたけれども、江戸へ行ったきり、そろそろ足かけでは四年にもなろうという長年月、帰洛しようとしない父の明けくれを案じて、家煕は勅使役を買って出る気になったのだった。  辰《たつ》ノ口《くち》の伝奏屋敷でまず、ひさびさの対面をはたした親子は、 「思っていたよりずっとお達者そうではありませんか父上」 「なに、見かけだけじゃよ。毎々煕子にもこぼすのじゃが、関東の気候の荒さ……。とりわけ冬場の木枯しにはまいるな。なにせ空ッ風を名物とする土地じゃで、咽喉も肌もざらついて咳ばかり出よるわ」 「ですから手紙をさしあげるたびに、早く帰っておいでなさいとおすすめ申しているのです。ご老体にはやはり、山紫水明の地が合っているのですよ」  と、さっそく江戸の棚おろしをはじめた。 「わしも帰りたい。いくら何でも、もはや飽き飽きじゃ。名勝旧蹟といわれるような場所は、おおよそ見尽してしもうたし、土地の者が自慢する江戸|前浜《まえばま》の鮮魚も、食いあきたでな。引きあげられるものならば、とうにおさらばしたいのじゃが、そなたも知っての通り将軍家は何やかや事つづき……。わしも帰るに帰れなんだのよ」 「逐一ご書信にて、事情はわたくしどもも承知しております。父上が下向なさってまもなく、前将軍の世子と定まっていた大五郎とやらいう小児が早逝いたしましたな」 「それもな家煕、わしが与えた巴旦杏《はたんきよう》から腹くだしを起こし、落命したのじゃからいくら悔いても、悔いたりぬ思いじゃった」 「お察しします」  老太閤の歯がみに、家煕も沈痛な表情で同調した。 「たかが一小児の死とは申せません。大五郎ぎみを生んだお須免ノ方は、もと姉上の侍女ですからな」 「そうなのじゃ。父は園《その》中納言宗朝卿……。局名《つぼねな》を大輔《おおすけ》とよばれて、煕子に厚く信任されていた女であった。二人まで生みの子に死なれたあと、だから煕子は、もはや懐胎をあきらめてお須免を家宣将軍の枕席《ちんせき》にすすめた。さいわい生まれた大五郎——その准母《じゆんぼ》として生きる道を選んだのじゃ」  自身の息のかかった女を、夫の閨房に送り、出生した子を次期将軍の地位に据えて後見の地位に納まれば、大奥での勢力は引きつづき維持できる。お須免には、お腹さまの権威を保証してやり、大五郎を芯にしてこれと手を組んで、他の側室たち——なかんずく君寵第一のお喜代ノ方と、その生みの子の鍋松に対抗してゆこうというのが、子を持たぬ正室煕子の描いた未来図だったのだ。  それなのに、肝腎かなめの大五郎が死んでしまった。しかもそれが、たまたま在府中の老父の失策から起こった悲劇では、責めるわけにもいかない。日ごろ強気な太閤がすっかりしょげて、 「煕子、すまぬ。どうかお須免も、かんにんしてくれ」  あやまるのを見ると、 「お父さまのせいではありません。もともと虚弱な生まれつきだったのです。家宣どのの体質を受けついでは、どう気をつけてみたところで子は育たないのですよ」  原因を、むしろ夫に転嫁してまで慰めなければならなかったのである。 「しかしまた、お須免ノ方はみごもりましたな」  と、父と息子のひそひそ話はつづいた。 「うむ。みごもった。そして生まれたのは男の子……。賽《さい》の目がどうころぶか、情勢はふたたび混沌としはじめたのじゃ。と、言うのもな家煕」  あたりに、老太閤は目をくばった。 「すでにこのとき、お喜代ノ方が鍋松ぎみを儲けておった。煕子の生んだ子らをはじめ、腹々に先に誕生しておった兄たちが、ことごとく夭折してしまったため、順当にゆけば鍋松は家宣将軍の跡取り……。七代目の大統を継ぐ子供じゃが、これがまた弱いのよ」 「逆子で生まれたとか……」 「鍋松に、もしものことがあれば、お鉢は再びお須免の子に回ってくるであろうが、な?」 「たしか、虎吉とやら申しましたな。『鍋松ぎみが早死し、虎吉がうまく成長してさえくれれば、煕子の将来はまた展《ひら》ける。どうぞそうなってほしいものじゃが……』と書いてよこされたご書状に、わたくしども京にいる一族も希望の灯を見いだした思いでした」 「それなのに、何とも残念なことに虎吉は、たった二月《ふたつき》ほど生きただけで亡くなってしもうた。しかも、その一周忌さえこぬうちに、こんどはなんと、家宣将軍の薨去じゃよ」 「労咳ですか?」 「いや、たちのよくない癌腫《がんしゆ》を体内にかかえていたとも聞いたがな。変転ただならぬこのような情勢の中に、煕子を置きざりにしてわし一人、帰洛できると思うか?」 「ごもっともです。そばにいて、力になってやろうとおぼしめすのは当然とぞんじます」 「ついついそれで、まる三年もの歳月を江戸城中でくらしてしもうたわけじゃが、いや、おかげでわしも、思わぬ学問をしたなあ」 「わかります」  ニヤリと笑う老父に、家煕も薄い、意味ありげな微笑で応じた。 「おりおりのご書信で、われわれも推測はしていました。ただむなしく愛娘《まなむすめ》に泣き縋られて、愚痴や怨みごとの聞き役だけを勤めている父上ではあるまい、とね」 「ふふふふ。その通りじゃ。江戸に居坐って、ながいこと腰をあげなんだのは、わしはわしなりに煕子のために、打つ手を打って置いてやろうと考えたからじゃよ」  宿舎にきめられている伝奏屋敷。城中にしつらえられた太閤御休息の間《ま》。また、三日にあげず訪ねる煕子の住む棟。いつのまにか我が家同然に馴れてしまった三ツの拠点を、いかにも暇《ひま》そうな、世外《せがい》の隠居の顔でぶらぶら行ったり来たりしながら、そのくせそんな日常の中で老太閤基煕がするどく見守って来たのは、大奥をめぐる政争の力関係だった。  近衛家は、藤原|北家《ほつけ》の嫡流——。さかのぼれば、平安朝の盛時、 「この世をば我が世とぞ思う望月《もちづき》の……」  と詠んだ道長を経て、光明皇后の父|不比等《ふひと》、さらには飛鳥《あすか》朝の権臣藤原|鎌足《かまたり》にまでゆきつく五摂家中の名流である。  基煕の祖父の信尋《のぶひろ》は、じつは後陽成帝の皇子で、後水尾上皇の弟にあたる。  その母の中和門院|前子《さきこ》が、後陽成帝の後宮に入って女御となり、信尋を生んだため、成人ののち臣籍にくだって彼は母の実家を継ぎ、近衛家の息女と結婚したのだ。  子には、水戸中納言光圀の室となった泰姫、左大臣から関白に進んだ尚嗣《ひさつぐ》の二人がいる。この尚嗣が、後水尾帝の娘の昭子内親王を妻に迎えて生んだのが基煕である。  そして基煕もまた、後水尾院の皇女常子内親王を娶《めと》り、天英院煕子と現摂政の家煕を儲けたわけだから、皇室とのきずなはたいへん深いし、男系だけでいえば信尋のときにはじまったいわば後陽成帝系の皇胤近衛家ともいえるのであった。  しかし信尋の妻や母など女系の血の流れから見れば、まさしく基煕も家煕もが、権謀術数のかぎりをつくして他族同族を蹴落としつつ摂関体制の枢軸にのしあがり、主導権をながいこと握りつづけて放さなかった氏族《うじぞく》——藤原北家の、したたかな体質を享《う》けついでいることになる。  煕子をめぐる政情の、変化のさまざま……。じっとその推移に目をそそいでいるだけで、 (なにをしたらよいか。どう布石すれば将来、事態を望む方向へ持ってゆけるか)  老太閤基煕には、およその見当がつきはじめてきていた。 「まあ、ともあれ煕子に会えよ家煕」 「むろん、そのつもりでおります。お元気でしょうか姉上は……」 「元気とは言いがたい。なにせ夫の在世中から、名ばかりのお飾り妻じゃ。正室の重みは保っていても、家宣将軍の愛は側室どもに奪われ、女ざかりをむなしく空閨に埋めてしもうたのじゃからな」 「あげく、生みの子に先立たれ大樹《たいじゆ》にも死なれて、月光院お喜代の所生になる鍋松どのが将軍の位についてしまった……。姉上とすれば、すこぶる面白くありますまいな」 「煕子だけではない、縁につながるわれらにも面白からざる成りゆきと申さねばならぬ」 「で、あれやこれや、打開策を思いめぐらされたわけですな?」 「そういうことじゃよ家煕、ま、もそっとそばへ寄れ」  と、親子の密談はなお、続いた。     八  弟の東下を煕子もひどくよろこんだ。  はらからは、ほかにもまだ二人いる。大炊御門《おおいのみかど》家を継いだ信名《のぶな》。閑院宮《かんいんのみや》直仁親王の室となった八百君《やおきみ》。でも、彼らは腹ちがいである。常子内親王を母として誕生した同母同父の姉弟は煕子と家煕だけなのであった。  したしみは、だから格別だし、逢えばへだてのない口もきく。 「そなた、たいそう肥えたではありませんか。中年にさしかかると男の中には腹のせり出してくる者がすくなくないが、そなたのその、二重にくくれた顎のあたり……。肉がだぶついて、袍《ほう》の衿が苦しそうにすら見えますよ」 「じしつ、少々苦しゅうございます」 「もっとも、すっかり貫禄はつきました。どこから眺めても朝廷の重鎮……。押しも押されもせぬ摂政どのです」 「姉上はいくらか痩せられましたな」 「痩せもしましょう。心労つづきでしたもの……」 「お手紙を拝見するたびに、わたくしどももやきもき気を揉んでいたのです。父上からこまかくゆくたてを伺うとなおさら、姉上の現在に同情を禁じえません」 「子を持たぬ妻の悲哀を、つくづく噛みしめています。それはね、形の上だけではどこまでも、わたくしは家継の母儀《ぼぎ》です。毎月|朔日《さくじつ》、幼将軍は月光院に抱かれ、絵島や宮路ら気に入りの女中たちにかこまれてわたくしの住まいへ機嫌うかがいの挨拶にまいります。でも、それだけ……。形式にすぎぬ母扱いが何になるでしょう。いまや日の出の勢いにある吹上御殿の賑わいにくらべると、ここ、本丸大奥のあけくれは灯が消えたような淋しさですよ。お須免は馬場先の御用屋敷に移されてしまったし……。いっそ、あなたや父さまのご帰洛に従って、わたくしも京へもどろうかとさえ迷っています」  天皇家、将軍家、また諸侯、旗本の家にしてもそうだが、主《あるじ》の在世中、正室の身分はひじょうに高く、その威光も強い。  表と奥——。つまり主人の支配圏、主婦の支配圏はきっちり区別され、一家の主人といえども家政への口出しは原則としてできないし、してはならぬことになっている。  奥で使う使用人の人選や、雇用、任免の権限もしたがって主婦にあり、たとえば側女《そばめ》を置くにしても、当の主人より先に、主婦の目がねによってその可否は決められるのであった。  本妻に、子が生まれない場合でも、「婚姻は、子孫を儲けて家を存続させる目的でなされるもの」という考え方は変らない。  と、すれば妻たるもの、自分以外の肉体を借りてでも、あと継ぎの子を作らねばならぬ。不妊の原因が夫にあってさえ、そう認めないのが男性優位の道徳律だった。 「嫁して三年、子無きは去る」  この鉄則が生きているかぎり、離縁を欲しない妻たちは夫に妾をあてがわなければならない。  ただし、どこまでも、それは本妻の理性と裁量にゆだねられる事柄であった。夫が、夫の好みで、勝手に水商売の女を家に曳き入れたり、下女に手を出したりしては家の秩序や平和が乱れる。目的はあくまで、子を得ることであり、夫の女好き、あるいは女遊びを是認することではなかった。  家庭の紊乱《びんらん》は許されない。単位としての家庭の崩壊は、社会の乱れにもつながるのだ。『家』はつまり、妻を泣かせる一方に、強い力で妻の立場を擁護もしたのである。  側女は奥使いの奉公人だから、妻が選ぶ。選択の基準は、子を生む�機械�として、適任か否かにかかってい、顔の美醜など二の次というのが、これまた原則であった。  血統に疑点がなく、健康で素直で、のちのち生母の権利など振りまわす恐れのない娘……。本妻は、それを選び、夫の寝間に送り込む。  さいわいに子ができても、側女の身分はあいかわらず奉公人だった。十把ひとからげに婢妾と呼ばれ、家によっては母子の愛情交換さえ許されない。乳母がわりに哺乳はさせるけれども、妾には子を、「若さま」と尊称させ、子には妾を「お花」などと呼び捨てにさせる。腹を痛めはしなくても、子の母はどこまでも本妻自身だし、「母《かか》さま」と呼ばれる相手も、また本妻だけなのであった。  それでも一つ屋根の下にくらせればまだ、よいほうで、 「もはや用済み」  と子を生んだとたん、解雇されても文句はいえない。夫の側の、女への執着、女がいだく主人への慕情……。そんなものは無視される。もともと�機械�として置いたのではないか。機械に未練をかけるとは何ごとか、と一喝されれば、夫は一言もない。『家』の掟は、妻たちに忍従を強いるけれども、夫にも同様、克己を要求するのである。  もちろん、しかし、これは建て前にすぎない。人間には掟では割り切れない感情がある。性が絡めばなおさらだ。嫉妬、猜疑《さいぎ》、打算、背信——。本妻が妾に追い出されたり、妾腹の子が家督をついだあとに、本妻がみごもったり……。小旗本のごたごたから大名家のお家騒動まで、妻妾と生みの子をめぐる悶着の種は尽きない。それが嫌さに、実子をあきらめて、 「いっそ、親類から養子を迎えてしまおう」  ということにもなるのだが、これはこれで大家《たいけ》だと、その財や権力に縁者同士の欲がせめぎ合って、別種のさわぎを惹起したりする。  将軍家の場合にも、原則論は守られていた。側室たちはお須免のほかは、御台所煕子に選ばれたわけではないけれども、お喜代ノ方にせよお古牟ノ方にせよ、家宣将軍の在世中は御台所の支配下に置かれていた。大奥の主権は煕子にあり、将軍といえどもみだりな介入はできなかったのである。  子らにしてもそうだ。亡くなりはしたが、お古牟の生んだ家千代、お須免の生んだ大五郎、虎吉、そして今、七代将軍の顕位にある家継まですべて、公《おおやけ》の母は前将軍の正室近衛煕子であった。  だからこそ家継は、准母としての敬意を煕子に払う。かならず月のはじめの一日《ついたち》には、本丸へ出向いてその安否をうかがう。  しかし月光院の立場も、家宣時代とは大きく違ってきていた。  側室というものは、むしろ夫が生きているあいだは、正妻の支配下に置かれて力が弱いが、子を儲けてお腹さまになれば、その子が家督を継いだあかつき、身分の重みはぐんと加わる。  まして襲封し、子供が将軍職につきでもしたら、母親はもはや傭い人でも婢妾でもない。現将軍家のご生母として、別格の地位を約束される。  お須免とお古牟が家宣に死なれたあと落飾し、無位のまま御用屋敷に移ったのに引きかえて、月光院が従三位叙任の沙汰を受け、吹上御殿で華やかにくらしているのも、家継将軍の生みの親だからである。その実権にくらべれば、名目上の准母など文字通り名だけのものにすぎない。 「でも姉上、幼将軍は病弱だそうではありませんか。月光院の頭上にほほえむ栄光も、長くはないはず……。そのときにそなえて捲き返しの準備を着々ととのえておくべきだと、父上は申しておられますよ」  弟のささやきに、 「尾を垂れて帰洛するなど、敗退だとおっしゃるのですね」  煕子の双眸も、にわかに光りはじめた。  舟あそび     一  堤は右ひだりとも、うす紅《べに》いろの紗幕《しやまく》を張りつめたように満開の桜で覆われていた。舟を隅田川の中流に漕ぎ出すと、晴れあがった空の青さと花の対比が、いっそうきわだつ。 「おお、美しい」  思わず百合はさけんでしまった。 「いつか夢で、こんな景色を見たことがありましたわ」 「百合の夢はきれいなのね。うらやましいこと……」  絵島の笑顔にも、しんそこからのくつろぎが見られる。 「いえ、もしかしたら本当に見たのではなくて、夢でもいいからこんな景色にめぐり逢ってみたいなって、あこがれただけかもしれません」 「ほほほほ、その望みが、今日やっとかなえられたわけね」 「とてもうれしゅうございます」  と、むさぼるように百合はあたりへ視線を投げる。  桜なら吹上御殿の庭にもたくさん咲いている。師走からほころびはじめる早咲きの寒ざくら、晩春をいろどる八重ざくら……。あいだには一重の山桜が咲きほこるし、職方の者が丹精こらして形をととのえる枝垂《しだ》れざくらも、優雅なたたずまいを点在させていた。  桜に限らない。四季をたがえず花々の咲き乱れる庭園だし、池もあり小川もあり、ところどころにかかる土橋や石橋、築山の亭、石灯籠など、どこもみごとにまとまってはいるけれども、それだけに人工の息ぐるしさがなくもなかった。あまりに隙なく、すみずみにまで庭師の手が入りすぎて作り物めくのである。  そこへゆくと上げ汐どきの大川はまんまんと水をたたえて、御殿の庭とはくらべようもなく雄大だった。岸の桜は四方八方に枝をひろげて、春たけなわの陽ざしをのびのび浴びている。この野放図《のほうず》さが、いっそ好もしい。  息を深く吸いこむと、かすかな潮の香が肺を洗うし、水面をかすめる白い飛翔を、 「かもめ!」  と知るだけでも、海の近さ、広さが思い描かれて、解放感に気が躍るのである。ふだん、さほど家に帰りたいと思ったことのない百合だが、やはり宿さがりして市中の活気にじかに触れてみると、籠の鳥の拘束感に、どれほど耐えていた日常だったか、あらためて気づかされるのであった。  土手には茶や酒の担ぎ売り、食べものを鬻《ひさ》ぐ屋台なども出ていて、行き来の足を立ちどまらせているし、川は川で、上り下りする花見舟で混雑していた。三味線、太鼓の、賑やかな音律——。歌声や妓《おんな》の嬌声が水谺《みずこだま》するのさえ百合には珍しく、愉しくてならない。 (千之介に見せてやったら、どんなにかよろこんだろうに……)  と思うと、役宅でたった一人、留守している弟の淋しげな姿が目の先にちらついて、置いてけぼりにして来た父の無情が百合は恨めしくなった。  舟中の主客は絵島。弁当を配ったり酒の燗をつけたり、しきりに座をとりもっているのは絵島の嫂《あによめ》の白井佳寿だし、大坂で生まれた白井家の幼い息子たち——伊織と平七郎の兄弟も、母の膝にもたれかかっていた。  そのほかには、奥山交竹院、百合の父の奥山喜内、喜内の妻の兼世までが一座している。 「うちじゅうでどうぞ……」  と招かれたのに、 「足萎えの倅などを同道し、もし、ご遊山の興を削ぐことになっては……」  そんないらざる気を回して、喜内は千之介をつれずに来たのである。  あとは絵島の義弟の豊島平八郎と、その後妻の雪——。つまり、ごく親しい身内や知人だけで花見にくり出したわけであった。  もっともこの日、白井平右衛門の顔は欠けていた。大坂での揉めごとのあと彼は江戸へ召し返され『遠慮』を申しつけられて家に引きこもっているのである。 「じつは引きあげたかったんだ江戸へ……。大坂って土地は、おれの性に合わん」  妻の佳寿に、まんざら負け惜しみでもなく平右衛門は言った。 「上司が意地のよくないやつでな、ねちねち文句を並べるし、下僚どもがこれまた気にくわん怠け者ぞろいだった。表づらは人当たりのよい上方弁でへらへら世辞を並べるくせに、仕事となるとさっぱり働かん。何をやらせても業《ごう》が煮えて、幾度ぶんなぐってやろうとしかけたか知れんのよ」  破損奉行の役料は八十石。大坂定番の支配下に属し、地元で採用した手代五人を下役に使っている。 「冗談じゃございませんよ、あなた。町人相手のいざこざでさえ、逆ねじ食わされて訴えられれば、お役ご免の憂き目を見るのですからね。役所の人たちと喧嘩沙汰など起こしたらそれこそただではすみません。こんどのことだって、わたしが懸命になって美喜さんに手紙を書き、豊島の平八郎さんにも口添えしてくれるようたのんだからこそ、小普請入りの上、遠慮という軽い仕置きで済んだんですよ。ありがたいと思ってくださらなければ困ります」 「思っているさ」 「それにしても、美喜さんがご出世なすったのにはおどろきましたねえ。稲生家との縁談をすげなく袖にされたときは腹が立ちましたけど、結句《けつく》今となれば奥勤めにあがってくれてよござんした。お仕えしたのがお喜代ノ方さま、そのお子の鍋松ぎみが将軍さまにおなりあそばすなんて、ほんとうにとんとん拍子の幸運です。おかげで美喜さんも大年寄の絵島どの……。兄のあなたの上を越すご大身ですよ。ちょっと口をきいてくれれば、しくじりの尻ぬぐいぐらいわけなくできるご権勢ですもの、これからはせっせと取り入るつもりでいますの」 「よせ。妹の引きを当てにするなど、みっともない」 「だってげんに今回も美喜さんのおかげでつながった首ではありませんか。もっともっときびしいご処置かと思っていたのに遠慮だなんて、ありがたい話ですよ。夜は外出できるのですからね。美喜さんには、さっそく礼状を出しておきましたけど、お宿さがりやご代参などの帰りにうちへ立ち寄られたら、あなたもせいぜい愛想よくもてなしてくださいよ。遠慮のお達しがいつ解けるか、それなりに気がかりですし、小普請ではうだつがあがりません。何であれいま一度、お役付きにしていただくためにも、美喜さんのご機嫌をとっておかなければ……。伊織や平七郎にもよく言い聞かせてあるんです。たいそう羽振りのよい叔母さまだから、お目にかかったら気に入られるようきちんとご挨拶するのだよって……」  と、佳寿の舌の回転はあいかわらずすさまじい。夫のひとことに十言《とこと》は返す饒舌ぶりだが、そのうちに絵島から、両親の墓を建て替えたいと連絡があった。  白井家の墓地は、雑司ケ谷鬼子母神の支坊|法明寺《ほうみようじ》にある。絵島の実の父は疋田彦四郎という甲府藩士だが、早死したため、母は娘を連れ子にして白井家に再嫁した。現在、墓地に眠るのは、絵島からいえば養父と生母、平右衛門と豊島平八郎の兄弟から見れば実父と継母にあたる白井家先代の夫婦である。  墓石は平右衛門がまだ、三百俵の扶持米取りにすぎなかったころ建てたものだから粗末だし、小ぢんまりしたものだった。 「父母の孝養のため、それをいま少し立派なものに建て直したい」  というのが、絵島の希望で、 「費用は全額、わたしが持ちます」  とも言ってきていた。  まだ、ある。同じ寺内に、絵島はじつは疋田彦四郎の墓を建立していた。これもしかし、彼女が紀伊家に勤めていた当時、給金を溜めて建てたものなのでやはり小さい。 「同様、自分が負担し、ついでに実の父の墓も造り替えたい、石工や寺との交渉など、ご面倒ながらお願いできまいか」  と依頼されて、佳寿は二つ返事で引き受けた。本来なら平右衛門兄弟も、応分の拠出をしなければならないところなのに、支出のほうは全面的に絵島におぶさってしまった。  そのかわり佳寿が奔走し、平右衛門も石屋を呼んで細部の打ち合わせをするなど、形から規模から絵島の言う通りに仕上げて、二基の墓石を完成させたのであった。  絵島がこのことを月光院に話すと、 「参ってくるがよい。灸治《きゆうじ》とでも、名目をつけて……」  すぐ、許しが出た。  雑司ケ谷の鬼子母神は、町娘だったころ月光院も時おり詣でていた寺だという。別当坊は大行院といったが、 「地つづきの法明寺に絵島の親たちの墓所があったとは、これも縁であろう」  そう言って、過分の香華料まで月光院は贈ってくれた。  よろこんで、絵島はすぐ、兄たちに連絡……。三日の暇をもらって法明寺におもむき、待ちもうけていた嫂や義弟らに案内されて、展墓、法要をすませたのが昨日なのである。     二  そして昨夜、絵島は兄の白井平右衛門宅に泊まった。  大坂から帰ってはじめての対面だし、おたがいに積もる話もあったであろうけれど、どんなやりとりが交されたか百合は知らない。彼女は彼女で、ひさびさに親たちの家で一夜をあかしたのだ。 「足が少々むくんだので、治療のため控え屋敷へさがる」  というのが表向き、お暇をいただく理由だったから、絵島は供に相ノ間の若江、お小僧の俊也など自分使いの奉公人をほんの三、四人ほどつれただけだった。百合が特に許されて同行できたのは、絵島の養女だし、無二の気に入りということで御次頭《おつぎがしら》の曾和が気をきかし、供に加えてくれたおかげである。  墓参りをすませ、法明寺の庫裏《くり》で精進の斎《とき》を振舞われたあと、若江や俊也は、 「宿もとへ泊まりに行ってよいよ」  と絵島に言われ、三日目の午さがり、白井平右衛門宅へ集合する約束でそれぞれの実家へとんで帰った。  正規の宿さがりのほかに恵まれた思いがけない息抜きである。だれもが喜々として去って行ったが、水戸邸内のわが家へもどってみると、 「あすは絵島さまを主客にしての舟|遊山《ゆさん》だぞ」  父の奥山喜内が、さっそく百合に告げた。 「ふなゆさん? それ、何ですか?」 「ばかだなあ、舟で大川を漕ぎ廻りながら堤の桜を肴に一杯やる風流な遊びじゃないか」  そそるような言い方に、兼世が舌打ちして、 「およしなさいよ、可哀そうに……。置いてゆかれる身にもなってごらんなさい」  夫をたしなめるのは、すでにこの時点で誘いの状が回され、千之介の不参加も夫婦の間で決められていたのだろう。  あとでよく訊《き》くと、発議したのはどうやら豊島平八郎、意を受けて舟や酒食の手配など引き受けたのは、こんなことが生来得意な奥山喜内であったらしい。 「お父さん、いつ、どこで豊島さまなんぞと懇意になったの?」  百合の詰問口調にたじろぎながら、 「まるでお白州のお取り調べだな」  喜内は、はぐらかした。 「平八郎さんは絵島どののご舎弟、お前は絵島どのの娘分……。そしてわしは、お前の父親だもの、行き来ぐらいしたって不都合はあるまい」 「あの人は身持ちのよくない人よ。博打好きで、絵島さまにも白井の兄上にもずいぶん迷惑をかけたらしいわ」 「知ってるよ、そんなこと……」 「知っててなぜ、つき合うの? 絵島さまのお供をして一度、お宅へ伺ったことがあるけど、草ぼうぼうの荒れ屋敷だし、亡くなった前の奥さまは重い労咳で臥せってたわ。しかもね父さん、お顔に火傷の爛れがあるのよ、きれいな女《ひと》なのに……」 「火傷?」 「平八郎どのに突きとばされて、七輪の汁鍋の上に倒れたとおっしゃってました。お艶という名のその奥さまは、絵島さまの昔の恋人の妹御なのに、二人の仲を邪魔して、平八郎どのは稲生家の文次郎とかいう若殿を取り持とうとも画策したそうですからね、好かない人よ」 「ばかにくわしいじゃないか百合。言っとくがな、あまり人さまの過去やくらしの裏側に首を突っこんじゃいけないぞ。奉公人の、それがけじめというもんだ」 「だって絵島さまご自身、なんでも隠さずに話してくださるんですもの」  脇から兼世が、取りなし顔で口をはさんだ。 「心配無用だよ。わたしらもね、豊島の旦那の身状《みじよう》の悪さは承知しているのさ。大坂から白井さまご夫妻がおもどりになってからは、だからなるたけ白井邸にだけお出入りするようにしているのだよ」 「何の用があるの?」  語気のするどさに、兼世もちょっと鼻じろみながら、 「かくべつ用はないけどさ、盆暮れの挨拶ぐらいは当り前だろ?」  言いわけがましい口をきいた。 「白井平右衛門さまと交竹院兄さんはもともとしたしい碁敵だし、百合ちゃんが絵島さまに目をかけていただいているいま、奥山家と白井家は、言ってみりゃ親戚も同じだろうが……」  絵島が灸治の名目で三日間の外泊許可をもらい、兄の家へ帰ってくると知って、 「墓参りの翌日は、みんなでひとつ、美喜さんを慰労しようじゃありませんか」  と言い出したのは豊島平八郎……。たまたま喜内が白井邸へ出かけたさい、同席していた平八郎の口から持ち出された案なのだそうだ。 「それはいいわ。ね、あなた」  佳寿がすぐ、賛成した。 「美喜さんもあれまで立身なさるについては、口では言えぬ辛抱をなすったでしょうし、このへんで友人縁者が集まって労をねぎらってさしあげれば、きっとおよろこびになりますよ」  鍋松ぎみが将軍位に備わり、月光院お喜代ノ方が母公の重みを増しつつある現在、大年寄としての絵島の権勢も、もはや昔日の比ではない。 (取り入ろう)  との打算から、手の裏返して血縁の親愛を誇張し出したわけだけれども、妻や弟とちがって、いまさらそらぞらしい追従口《ついしようぐち》を白井平右衛門はきけなかった。短気、直情なかわりに裏おもてはない。変り身の早さなどとは関わりない世渡り下手《べた》な性格だから、 「どうやって慰労する気だ」  つい、顔つきはにがにがしくなる。 「芝居はどうかしら……」  弾んで、佳寿が言った。 「美喜をだしにして、ほんとはお前が見たいんだろう」 「そりゃ見とうございますよ。帰ってきてまだ一度も、江戸の芝居小屋へ足を踏み入れていないんですからね」 「主のおれが、遠慮差し控えを命じられている咎人《とがにん》なんだぞ。その家内が浮かれ歩いていいものかどうか、考えてみろ」 「花見なら目立たんでしょう」  豊島平八郎が提案した。 「向島はそろそろ満開だそうですよ。舟遊びはいかがです? 舟中に酒や弁当を持ちこんで春の日ざしを浴びながら一日、のんびり清遊してもらうというのは……」 「芝居などよりまだましだが、入費《にゆうひ》はどうする? 兄弟で折半するか?」 「わたしが出しますよ」  事もなげに平八郎に言われて、平右衛門は目をむいた。 「すかんぴんのおぬしが負担する? そんな金があるわけはなかろう」 「一時、借りるんです。あてがあります。美喜さんは金持ちでしょうからね、かならず後日、出した分を上回るほどの返礼をしてくれるはずですよ」  乗り遅れまいと、奥山喜内も口をはさんだ。 「勧進元《かんじんもと》は、ではご舎弟として、舟の手配や弁当の注文など、こまごました雑用はいっさいわたしが引き受けましょう。馴れていますでな。お委せいただきとうぞんじます」  こうして、当の絵島には内密に計画が練られ、晴天の今日、舟遊山は実現の運びとなったのであった。     三  さいわい絵島も、川風のさわやかさをひどくよろこんで、 「ありがとう、こんな楽しい催しに誘ってくださって……。寿命が十年も延びましたよ」  縁者たちに礼を言った。 「お気に入っていただけて、わたしどももうれしゅうございますわ。また、いたしましょうよ美喜さん。川筋は秋景色もきれいですよ。正式のお宿さがりは、次はいつごろになりますか?」  佳寿の問いかけに、 「九月です。十六日間いただけますから、こんどはもっとゆっくりできますね」  その日が待ち遠しそうに手の盃を絵島は干した。  図面でだけ知らされて、 (どう仕あがるか)  内々、気にかけていた両親と実父の墓石が、想像以上な出来ばえだったことも絵島を満足させたし、いま一つ、じつはだれにも打ちあけられないもくろみを彼女は胸に秘めて出て来てもいたのである。  二日目の休暇を舟遊山で楽しんだあと、絵島はまた、白井平右衛門宅へ、百合はその晩は交竹院伯父の家へ、それぞれ分れて泊まり、いよいよ最後の三日目、帰城の当日になったのだが、 「ゆっくりしていらっしゃいよ美喜さん。暮れの七ツまでに御門に間に合えばいいんでしょう?」  引きとめる嫂《あによめ》の手を、 「召使たちも、約束通り集まってきてくれましたし、表向き灸治のための外泊ですから、そうそう月光院さまのご厚意に甘えてもいられません。すこし早いけど、おいとまさせていただきますわ」  振り切って絵島は兄の屋敷を出た。  追いすがるように玄関式台まで送ってきて、白井平右衛門夫婦が、 「では、たのむぞ美喜」 「ぬぎついでに、もうひと肌……ね? ぬいでくださいよ」  なにやら依頼ごとを口にしたのは、おそらく『遠慮』の措置を、できるだけはやく解いて、しかるべくお役につかせてほしいとの意向にちがいなかった。 「わかっています。まかせておいてください」  請け合いながらも、どこか言葉つきは上の空だし、態度もそわそわしていたが、案の定、しばらく行くうちに、 「寄り道しますよ若江、乗物を駿河台下の律成院《りつじよういん》という寺へ廻すように……」  と絵島は言い出した。 「お寺さまへ?」 「出たついでに、知人のお墓に詣でてゆこうと思うの。道順は私が教えましょう」  時刻もまだ、たっぷりある。 「かしこまりました」  若江は了承し、陸尺《ろくしやく》たちにその旨を伝えたので、乗物はやがて掃除のよくゆき届いた小ぢんまりした寺の境内へ担ぎこまれた。  あらかじめ通じてあったのか、院主《いんす》と見える老僧が出迎えて一行を庫裏の書院に案内する……。  納所《なつしよ》の手でうやうやしく茶菓が供され、それを喫し終ってまもなく、絵島一人が座を立った。 「そなたたちは、しばらくここで休息していなさい」  と言われ、若江や百合、俊也など供の女中たちはあとに残ったが、出て行ったきり絵島はなかなかもどってこない。  客殿は、欄間《らんま》に牡丹の彫りなどほどこした書院造りの広間で、床の軸は高僧の遺偈《ゆいげ》と見える大幅《たいふく》、違い棚の獅子の置き物から青磁の香炉から、いかにも寺院らしくきまりきった飾りつけであった。 「ねえ若江さん、あの獅子は焼きもの?」 「三彩よ」 「なあに、それ……」 「そういう名前の、清国渡りの焼きものです。お城にもあるでしょう、お廊下の曲り角にお対の大きな唐獅子が……」 「ああ、あれと同じ色ね」 「さわっちゃ駄目よ俊ちゃん、落としでもしたらどうするの」 「欄間の牡丹、よく見ると鳥も彫ってあるわ鴛鴦《おしどり》みたい……」 「いやだわ百合さん、目が悪いの? あれは鳩だわ。ねえ若江さん」 「どちらでもないようね。牡丹と組み合わせるにしては鳩も鴛鴦も変ですものね」  見回しているうちに、すぐ飽きてしまい、 「どこへ行かれたのかしら、旦那さま……」 「お手水《ちようず》にしてはながすぎるわ」  だれもがいぶかりはじめた。茶を替えにきた納所に訊くと、 「別間で人と対面あそばしておられます」  と言う。 「えッ? どなたか知りびとが先に参っていらっしゃったのですか?」 「当寺の檀家のお一人で、平田さまとおっしゃいます」 「平田!?」  百合は、はっと吐胸《とむね》を突かれた。 (彦四郎さまにちがいない。あらかじめしめし合わせておき、平田家の菩提寺《ぼだいじ》で落ちあう算段をなされたのだろう)  ここにいるのは腹心の侍女ばかりである。でも、それにしろ、あしかけ十年ぶりで今、親兄弟にも内密に忍び合っている恋人たちなのだと思うと、 (どんな気持で、何を語りあっておられるのか)  ひとごとならず百合の動悸は早くなった。 「平田どのですって?」  納所が立ち去るのを待ちかねたように、若江が俊也にささやいた。 「時おり御使番の藤枝《ふじえだ》さまを介して、旦那さまのところへ近ごろご書状が届くけど、差し出し人のご苗字がたしか平田だったわね」 「そうですよ。平田伊右衛門さま」  聞きとがめて、百合は思わず、 「どういうことですの? それ……」  膝を乗り出した。若江にたずねたつもりなのに、小ましゃくれの俊也が、したり顔に出しゃばって言った。 「百合さん知ってるでしょ? 藤枝って新参のお女中……」 「知ってるわ」  つい、四、五ヵ月前まで前田侯の江戸屋敷に勤めていたが、仲立ちする人があって吹上御殿に移ったという経歴の持ちぬしである。親もとは日本橋の富裕な商家——。横笛をたしなみ、琴をなにがし検校《けんぎよう》、絵はなにがし法印について奥許しまで習ったと評判されている才女だ。  しかも右筆《ゆうひつ》をしのぐほど筆蹟が巧みだし、和歌まで詠む。そのくせ高ぶったところが少しもなく、まめまめしい奉公ぶりでたちまち上司に気に入られて、 「第二の絵島どのみたいに、とんとん拍子に出世するのではないか」  と噂されてもいた。 「その藤枝どのの絵の同門に、児玉主馬《こだましゆめ》とかいう幕臣がいるんだけど、児玉さまのご家内が平田伊右衛門どのの娘御なんですってさ」 「ふーん」 「ところが平田どのにはほかにも病死した娘がいて、その女《ひと》がもと、旦那さまのご舎弟のお嫁さんだったそうなのよ」  お艶さんのことだ、と百合にはすぐ合点がいった。 「つまり平田伊右衛門どのと絵島さまは、ご姻戚の間柄なのね?」 「そういうことよ。でももう弟さまは後添えを貰われたらしいから、ご縁は切れてしまったわけね。それなのに昔かたぎの律義さで、いまだに平田どのは折りにふれて時候見舞いの状などことづけてよこすんですって……。旦那さまがおっしゃってたわ」  敏感な百合には、これで図式のおおよそが呑みこめた。  見舞いに行った日、お艶から渡された平田彦四郎の手紙……。 「お城へもどって、ゆっくり拝見しましょう」  そう言って、ふところ深く納めたそれを、絵島がどのような思いで読み、いつどのようにして返事をしたためたか、百合にはわからない。お直《じき》勤めに変ってからは、夜、私室へ遊びに行くことはあっても、寝場所や食事などすべて別だから、絵島の私生活の細部にまで百合は関わることができなくなっている。  しかしなつかしい恋人からの手紙に、絵島が返事を出さないはずはないし、二度三度と彦四郎の側もまた、それに対して返しの状を送ったであろうとは想像できる。二人の仲は手紙のやりとりを通して、ひそかに復活したのではあるまいか。     四  でも、自由に逢うことは不可能だ。書翰の往復にも用心が必要だった。絵島の実家の白井家は、嫂《あによめ》の佳寿が彦四郎との縁談に反対していたし、義弟の豊島平八郎は友人の稲生文次郎と結びついて、どうやらいまだに、金蔓《かねづる》に利用している気配である。  どちらを介してでも、手紙の受け渡しを頼むことはできないし、五斎の市助や角三など文使《ふづか》いに口さがない下僕を使うのも、絵島はためらったに相違ない。  たまたま新規お召しかかえの藤枝が、平田家のむすめ婿《むこ》児玉|某《なにがし》と絵の同門だったと知って、むしろこの経路から手紙を送り合うほうが、 「無事……」  と判断したのだろう。 「父伊右衛門の名で、状箱をことづけます。万事、児玉が心得てくれていますから、そちらも藤枝どのとやらにまかせて、平田伊右衛門宛てという形で返書をお渡しください」  そんな助言が、もしかしたら彦四郎の側からも持ち出されたのではなかろうか。 「その児玉主馬とかいうお方、幕臣だそうだけど、何のお役についてるの?」 「さあ」  若江も俊也も、そこまでは知らないらしい。 「あ、出てらしたッ、旦那さまじゃない?」  と、伸びあがって俊也は外を指さす。  書院は磨き込まれた廊下で囲まれてい、庭はあおみどろを浮かべた心字池《しんじいけ》を中に、苔むした岩石、古木が配置されてうすぐらかった。かなめ垣の向こうは墓地だが、そこには斜めに日がさしこみ、客殿の前庭とは対照的な明るさをたたえている。  立ち木の枝越しに、チラチラきれいな色彩が見えがくれする。絵島にまぎれもない。冴えた藤むらさきに金糸銀糸その他、さまざまな色糸で胡蝶の繍《ぬ》い取りがほどこされた華麗な裲襠《うちかけ》だった。 「おつれがいるわ。あれが平田さまよッ」  と声を殺しながらも俊也はさけぶ。  背丈の高い武士だ。絵島もけっして小柄なほうではないが、その絵島と並んで歩いて、なお二、三寸の差があった。  百合は息を詰めた。すぐ木の枝にさえぎられて見えなくなったけれども、目に灼きつけた一瞥《いちべつ》の印象ではいかにも若々しく、精悍な横顔に思えた。 「へんねえ」  俊也が疑問を口にした。 「平田伊右衛門どのなら、もっと年寄りのはずよね。娘を児玉主馬とやらに嫁入らせている人ですもの……。ねえ若江さん」 「お茶を持って来た坊さんは平田さまと言っただけでしょ。伊右衛門どののご子息さまかもしれなくてよ」  見られた以上、ある程度はっきりさせてしまったほうがよいのではないか、と百合は彼女なりに分別《ふんべつ》して、 「そうよ。ご子息です。たぶん彦四郎さまとおっしゃる方だと思いますよ」  打ちあけた。若江も俊也もが、絵島附きの召使……。心を許せる味方のはずである。 「彦四郎?」  ふしぎそうに、また俊也が言った。 「おととい、雑司ケ谷の法明寺でも同じお名を見たじゃないの。旦那さまのご実父の俗名……。墓石のうしろに彫りつけてあったのが疋田彦四郎というお名前だったわ」  ひらたひこしろう。  ひきたひこしろう。  なるほど、らときの一字がちがうだけだ。生みの父と恋人の名が同じだという偶然までが、 (浅からぬ縁《えにし》……)  とも百合には思える。 「ご墓参よ。ほら、さっきの納所があとから手桶の水をさげて追って行くじゃないの」 「平田家の、どなたのお墓にお参りなさるおつもりかしら……」  すでに見当がついている百合は、 「彦四郎さまの妹さんのお墓よ、きっと……」  若江たちの会話を補足した。 「伊右衛門どのの娘の一人が、絵島さまのご舎弟のところへ嫁入りしたって、さっき俊ちゃん、言ってたでしょ。その人よ。お亡くなりになったお艶さま……」 「そうね、そうだわ」  俊也はうなずいた。 「ご舎弟は、法明寺にいらしてたわね。旦那さまが豊島の平八郎さんと呼んでおられたお侍でしょ?」 「新御番役を勤める幕臣よ。お屋敷は四谷の鮫《さめ》ケ橋……」 「若い女の人と一緒だったけど、ではあの方が後添えの奥さまね」 「お雪さんという名前らしいわ。お腰元から側女《そばめ》に経《へ》あがって、とうとうご本妻に直ったのよ。お艶さまがご存命中から、もう二人もお子を生んでたというわ」 「へええ。それにしては、あんまりご夫婦仲がむつまじくなかったみたい……」 「俊ちゃんの目にもそう見えた?」 「見えたわ」 「なんだかあの、雪ってご新造さま、ふくれっ面ばかりしてたわね」  あくる日の舟遊山にも、参加することはしたけれども終始、不機嫌に黙りこんで、陽気な周囲の雰囲気から一人、お雪だけがかけ離れているのを、 (どうしたんだろ。感じのわるい人)  と、百合はいぶかしく眺めていたのだ。  絵島には叮嚀に挨拶したし、ほかのだれかが話しかければ、尋常に応じはする。夫の平八郎にだけぷんぷんしていたところをみると、夫婦|諍《いさか》いのあげくででもあったのだろうか。 「ね、若江さん、わたしたちもお供しましょうよ、お艶さまとやらのご墓所まで……」  物見だかく腰を浮かしかける俊也を、 「だめです」  一言のもとに若江が遮ったのは、これも頭の回転が早い女だけに、 (平田彦四郎という人物……。もと、姻戚だったというだけの間柄ではあるまい。もしかしたら絵島さまの、意中の人ではないか?)  そう、すばやく勘を働かせたからかもしれなかった。 「ご用があればお声がかかります。お前たちはここに居よ、とおっしゃったのなら、お申しつけ通りここでお待ちしなければいけません」  たしなめるときの若江はきびしい。百合も、できればそばへ行って平田彦四郎をしげしげ見てみたかったが、我慢するほかなかった。  やがてまた、あざやかな彩りを春の日ざしにきらめかせながら絵島が墓所から引き返して来た。裏門からでも立ち去ったのか、僧が先導しているだけで平田彦四郎らしい男の姿は消えてしまっている。  低いかなめ垣の向こう側に佇んで、 「お待ちどおさま」  書院にいる女中たちに絵島は声を投げた。行儀がよいとはいえないやり方だし、言葉つきにも侠《きやん》な、いささか蓮っぱな調子がうかがえる。 「退屈だったでしょう? さ、帰りましょ」  と、垣根越しにうながすところを見ると、座敷へもどる気はないようだ。 「はい。ただいま……」  あわてて若江も百合もが庫裏の玄関先へ走り出た。  絵島の双眸はいきいきと輝き、大輪の花が一気に開きでもしたように表情には強い、充実した幸福感が溢れている。胸がきゅっとひき絞られるような、せつない感情に百合は揺すぶりたてられた。一生奉公を誓ったとはいっても、お暇《いとま》を願って出れば許されないことはない。本人の気持次第なのだし、まして月光院なら、絵島の仕合せをよろこばないわけはなかった。 (御殿勤めなどお辞めになって、平田どのと祝言あそばせばいいのに……)  ことによったら、そうなさるおつもりではないかと思いやると、百合の気分までふわふわ浮き立ってくるのであった。     五  絵島の様子がこれまでと違ってきたのは、駿河台下の律成院で平田彦四郎に逢ってからである。七歳で養女となり、十歳で部屋子にあがって以来、ずっと絵島のそば近く仕えつづけた百合だからこそわかる微妙な変化にすぎないが、ともかく以前とは、どこかちがう。  お年寄——それも筆頭の、大年寄ともなると、毎日出仕はしてもこれといって仕事はない。辞めた滝川など一日じゅう役部屋に坐って煙草をくゆらしていただけだった。  年頭の祝儀や八朔《はつさく》、五節句など、恒例の行事だの儀式のさいは表立って働くけれども、奥の役々は決まってい、日常の用は持ち場持ち場の女中たちによって遅滞なく片づけられてゆくから、大年寄のような上級役人は黙って目を配っていればよいのである。手に余ったことにだけ指図をくだして、あとは頭《かしら》立った者の責任にまかせ、めったに口は出さなかったが、それで済むほど判で押したようなあけくれでもあったのだ。  たまに事が起こるとすれば、ほとんどが呉服ノ間《ま》での針の紛失にきまっていた。町の仕立屋や主婦たちのあいだですら針の扱いは、 「ゆだんしてはならぬもの」  とされ、もし、なくした場合、見つけ出すための歌や禁厭《まじない》など、さまざまな口伝えが拡まっている。  大奥ではことに、病的ともいえるほど針に対してはきびしかった。  呉服ノ間頭の下に針親がい、幾人かの針子をかかえていて、奥用の縫物いっさいを処理するのだが、針の数はその日の仕事はじめと仕事の終了時に、かならずきちんとかぞえあげる。先がほんの一分《いちぶ》ほど欠けて無くなっても、 「見つけ出せ」  となるし、まして一本まるまる足りないなどということになると、全員、呉服ノ間に禁足されて、部屋にすらもどれなかった。当日、着ていたものを着替えてもいけない。現状を維持しておいて徹底的に探す。部屋廻りの庭の土まで篩《ふる》うさわぎだ。 「厠《かわや》へ行きたくなったらどうするの? 行かせてくれるの?」  百合の問いかけに、 「そりゃあ行かせるわよ。洩らしちまったら大変じゃないの」  答えてくれたのは御次《おつぎ》仲間のお勢以である。 「でも、着物は着がえるのよ。めいめい着替えをお廊下の外まで運ばせておいて、裸になって出るの。そして別のものと取りかえて手水《ちようず》に行って、帰るとまた、もとの着物に着直すんですってさ」  それほどまで厳重に管理し、調査するのは、将軍、御台所、側室や公子公女がたの仕立おろしの衣類に、万が一、針が潜んでいたら一大事だからである。  しかも詮議《せんぎ》中、針子たちの食べものは針親がまかなう。慰労の意味をこめて、ふだんより馳走もしなければならないから、五日六日にも及ぶと入費はおびただしいものになった。 「そこを狙って、わざと針を隠したお針子がいたそうよ。針親に叱られたのを恨んで、仕返しを企んだのね」 「それ、いつのこと?」 「わたしがまだ、ご奉公に上りたてのほやほや……。お目見得《めみえ》以下の三ノ間《ま》だったころだから、八、九年も前の話よ」  つまり、そんな珍事は、何年に一度もあるわけはなく、おおかたは平穏無事なあけくれのくり返しであったのだ。  だから滝川と同じように、絵島も終日、役部屋の脇息《きようそく》に倚《よ》って煙草をのんでいてもよいわけだけれども、天成まめなたちだけにじっとしてはいなかった。月光院のかたわらにいて話相手をつとめる、向かい合って共に写経に打ち込む……。家継将軍をかこんでの水入らずの団欒にも絵島は欠けてはならぬ一人だし、たとえば加減のわるいときなど、月光院の背をさすり胸をおさえて、侍女のするような看護まで買って出た。  それというのも、いまや月光院自身が絵島なしでは一日もくらせないほど、その存在に密着して生きていたからだし、何につけてもすぐ、 「絵島に来てもらっておくれ」  となるのである。  いわば主従の垣を越えて、実の姉妹とも受けとれるほど心の交流はこまやかなのに、なぜかここへ来て、絵島のそぶりが訝しくなった。放心した顔で役部屋の茵《しとね》に坐りつづけていることが多く、呼ばれて、はっと腰をあげるといった彼女らしからぬうろたえぶりが見られるし、暗い顔で何ごとか、鬱々と考えこんでいる日もある。  ——かと思うと、これまでにもなかったような、きびきびした物ごし、声つきで、百合たち若い腰元に冗談を言いかけるなど、どことなく挙措にむらが目立ちはじめたのである。  精神の不安定——迷いや動揺が形にあらわれているのだろうが、その原因を、 (平田彦四郎さまとの出会いにある)  と察していただけに、 (どうなさるおつもりか)  しきりに百合は気になった。  お小僧の俊也に言わせると、酒量もこのところ絵島は増えているという。もともと、いける口ではあったが、酔うと陽気になって唄の一つ二つ口ずさむこれまでとはうらはらに、じっとうつむいたきり陰気に盃をかさね、はては涙をこぼしたりする。 「とてもまずそうなのよ。そのくせ以前の倍も召しあがるようになったの」  と俊也は眉をひそめた。 「平田伊右衛門どのの名で、やはりいまもお状がくる?」 「届くわよ、ときどき……。あいかわらず藤枝どのが持ってみえるけど、才女だけにあのひと、お芝居にもくわしいのね。くるたびにあれこれ役者の噂をするの。そしてね、『ぜひ、お供しとうございます』って旦那さまをそそのかすのよ」  使者に立ったり寺社への代参を申しつかったりして外出した帰り道、芝居町などへ寄り道するのは、公然とではないが、慣例として黙認されている奥女中たちの息抜きであった。藤枝はそれを知っていて、自分が見物したいために、そそるような話を絵島の耳に入れるのだろう。 (外へ出れば、彦四郎さまにまた、逢う機会もおつくりになれる)  そう思うと、藤枝のそそのかしに百合も賛成したくなる。 「雑司ケ谷に、親御さまのご菩提寺がおありだそうでございますね」  どこからか聞きこんだらしく、藤枝は法明寺の名を口にもしたそうだ。 「このたびご立派に、ご墓所を改修あそばしたとかうけたまわりましたが、ご孝心深いことでございます」 「これまでの墓が、あまり粗末だったものですからね」  と、待ちこがれている手紙の運び手だけに、絵島も藤枝には機嫌よく接していた。 「すぐ地つづきの鬼子母神は、月光院さまがお若いころから信心あそばしておられたお寺とか……」 「そうだそうですね。『同じ境内に、そなたの親の寺があったとは奇縁だ』と、わたくしにもおっしゃったことがありますよ」 「ご代参を願って出て、ついで、といっては申しわけのうございますが、法明寺へご墓参にお越しなされては?」 「隣り合っている寺ですし、それくらいはむろん、お許しくださるでしょう」 「そしてね、絵島さま」  人なつっこい笑顔で藤枝はささやいた。 「これこそが、じつは本当のお目当なんですけど、帰りに市ケ谷八幡の芝居を見物なさってはいかがでしょうか」  手の内を、正直にさらけ出して言う可笑《おか》しさに、思わず絵島も笑って、 「よほど、ごらんになりたいのね」  からかい口調になった。 「いつも文使《ふづか》いをしていただくお礼に、それでは墓まいりにかこつけて、鬼子母神へのご代参を願って出てみますが、八幡さまの境内に狂言座があるとはぞんじませんでした」 「葺屋町《ふきやちよう》、堺町、木挽町《こびきちよう》あたりにくらべれば小芝居ですわ。でも、なかなかいい役者が出てますし、小屋も常打《じようう》ちで、小ぎれいに出来ています。御殿勤めの女中衆がつれだってお見えになることもちょくちょくあるそうでございますよ」  雑司ケ谷から城へ帰る場合、葺屋町や堺町では迂回になりすぎる。そこへゆくと市ケ谷なら、ちょうど道すじに当るから好都合だと藤枝は言うのであった。     六  もし、見物なさるおつもりなら、日にちがきまり次第、桟敷の用意など自分がしてもよい、とまで藤枝は申し出た。 「平田どののご書状だの絵島さまからのご返書の、わたくしともども中継ぎ役をしている児玉主馬さま……。あのかたにおたのみすれば、わけなく引き受けてくださるはずでございますよ」  絵島はしかし、藤枝のこの言葉には同意を示さなかった。 「文《ふみ》のお取りつぎをしていただくだけでも恐縮ですのに、そんなご面倒までおねがいしては……」 「ご遠慮にはおよびません。ざっくばらんなかたでしてね、なかなか飄々《ひようひよう》とした面白い絵を描かれますの」 「そうそう、あなたと児玉さまとは、お絵の同門でしたね」 「それに児玉どのは、平田伊右衛門さまの娘婿……。やはり平田家の息女の一人を、絵島さまのご舎弟も娶っておられたそうではございませんか。申さば絵島さまと児玉どのは、平田家の姉妹を通じての姻戚同士ですからね。何ごとであれ申しつけてほしい、お役に立ちたいと、児玉どのはおっしゃっておりますのよ」 「ご親切、かたじけのうございますが、弟にとついだ平田家の娘御お艶さまは、きのどくに、他界いたしました。よしみを忘れず舅の伊右衛門どのはわたくしにまで、さいさい時候見舞いの状などくださいますけど、姻戚づきあいで言えばご縁はもはや切れたのです。まして児玉どのとやらは歴《れき》としたご直参——。芝居桟敷の算段までおさせしては失礼とぞんじます。いま話に出た弟の豊島平八郎にでも申しつけて手配させましょう。どうぞご心配なく……」  そう言って断ったのには、理由があった。平田彦四郎が手紙の中で、 「状箱を託している児玉主馬は、わたくしの姉の夫で、辰《たつ》ノ口《くち》の伝奏屋敷に詰めるご馳走役です。在府中の老太閤近衛|基煕《もとひろ》公とは四年越しの勤務ですっかり昵懇《じつこん》となり、家人《けにん》同様お目をおかけいただいたよし……。先般、ご子息の摂政家煕卿が、勅使としてご東下あそばしたさいも、児玉主馬に特にお目通りを許され、ねんごろな慰労のお言葉があったとか聞きました」  と書いてきていたからである。  彦四郎にすれば、何の気もなく児玉の役向きについて語ったつもりであったろう。しかし、絵島には、かるがるしく読み捨てにできない事柄であった。近衛太閤に結びついて、当然すぐ、念頭に浮かぶのは天英院|煕子《ひろこ》の名だし、煕子といえばつづいて否応なく、月光院との対立に思いが及ぶ。  表面、なにごともなく過ぎているように見えるけれども、家継将軍の治政下《ちせいか》、ご母公の権威を日に日にましつつある月光院に、どれほどの不快感を天英院が抱いているか、絵島ならずとも察しがついた。  老太閤はようやく重い腰をあげ、息男家煕の帰洛にともなわれて、このほど京の自邸へもどって行ったが、 (太閤|父娘《おやこ》の息がかかった児玉とやら……。用心するに越したことはない)  と絵島が考えたにしても、ふしぎはなかった。  ——もっとも、彼女の警戒はそこまでであった。鬼子母神への代参は、さっそく月光院に願って出たし、それはすぐ、許されて、まもなく実現した。  芝居見物の件も、 「女中たちに骨休めさせておやり」  との、月光院の鶴のひと声でたちまち決まったのである。  上《かみ》女中は絵島のほか、宮路と梅山……。そのほか三十人ほどが選ばれ、喜々として供に加わった。  にぎやかな行列となった。百合がいて、お勢以もいた。  鬼子母神の別当坊大行院では、あらかじめ通知を受けて人数分の昼食を用意したが、その支出をじゅうぶん上回るだけの布施が、月光院の名で喜捨されたことは言うまでもない。  絵島ひとりは食事をとらず、百合のほか、ほんのわずかな供廻りで法明寺へ出かけ、両親と実父の墓参をすませたが、半刻《はんとき》ほど、ここでも庫裏の奥ノ間に姿を消した。 「ご休息」  と腰元たちは聞かされ、法明寺で食事を振舞われたが、 (きっと彦四郎さまが奥に来ておられるのだ。束《つか》のまの逢う瀬にちがいない)  推量したのは、おそらく百合一人であったろう。  大行院、法明寺への連絡は、才覚者の藤枝がすべて取りしきって、昼食の内容までを事前に報告させる念の入れようだった。  しかし観劇の手くばりは絵島が弟の豊島平八郎に言いつけ、費用もいっさい、彼女がまかなった。大年寄の立場から、配下の女中たちをおごってやったわけである。  ところが、いざ芝居小屋に来てみると、桟敷には思いがけない男が先廻りして一行を出迎えていた。栂屋《つがや》善六であった。 「さあさあ、お進みくださりませ、絵島さま。宮路さま、梅山さまにも、こんにちはからずもお目にかかれて光栄にぞんじます。ご一同さまのお席には正面桟敷を五間《いつま》、取ってござりますので、どうぞ、ごゆるりとおくつろぎを……」 「そなたは?」 「申しおくれました。浅草の諏訪《すわ》町にて米、薪炭、材木などを商《あきな》っております栂屋善六と申します」 「栂屋?」 「おや、そこにいるのは百合さん——奥出交竹院先生の、たしか姪御さんじゃございませんか」  と、すばやく善六は、百合にも目をとめて笑いかけた。 「いやあ、すっかり娘ざかりにおなりなさいましたな。お直奉公に替られてからこっち、俊也さんからお噂を聞くばかりで、とんとお目もじの折りを得ませんでしたが、あぶなく見ちがえるところでございましたよ」 「なるほど。思い出しました」  鷹揚《おうよう》に絵島はうなずいた。 「御広敷下《おひろしきした》に詰める商人から、部屋子たちが歌留多や羽子板をもらったと聞いたことがありますが、そのときの贈りぬしがそなたでしたか」 「なに、ほんのお子供衆のもてあそび……。絵島さまのお耳にまで入っていたとは、恐れいります」 「その栂屋どのが、なぜ、ここに?」 「豊島の旦那にたのまれましてな」 「平八郎に?」 「桟敷の手配、そのほか何もかも、ふつつかながら手前が勤めさせていただきました」 「弟の横着にも困ったものですね」  と、かたわらの宮路に、絵島は苦笑いしながら言った。 「五斎を使いにやって、今日のことをたのんだときは、いかにもこころ安げに引き受けたのに、いざとなるとお聞きの通り人まかせですからね」 「いえいえ絵島さま」  いそいで栂屋善六が口をはさんだ。 「チラとご意向を小耳にはさみましたのでな、豊島の旦那にむりやり手前のほうから願って出て、お催しの裏方を引き受けさせていただいたのでございますよ」 「どちらにせよ、ごくろうさまです。それではひさびさの芝居狂言……。しばらくのあいだ、みなで堪能《たんのう》させていただきましょう」 「ご酒《しゆ》の用意を申しつけてございます。運ばせますので、暫時お待ちを……」  あたふた去って行くのを見送って、 「絵島さま」  梅山がそっと呼びかけた。 「あのような者をお近づけあそばしてはいけませぬ。栂屋は江戸の町びとたちから……」 「ぞんじております」  事もなげに絵島は言った。 「牛蒡《ごぼう》の善六と異名をつけられた悪党でしょ? 評判は聞いていますよ。わたくしも……」     七 「ごぞんじでしたの絵島さま、栂屋善六の正体を……」 「はい。あの男がなぜ『牛蒡の善六』の仇名で呼ばれているか、そのわけも知っておりますよ」  おもしろそうに、絵島は肩をすくめて見せた。 「宝永元年|申《さる》どしの洪水で江戸中が水びたしになったとき、栂屋め、手抜き普請でぼろ儲けをしたそうではありませんか」 「はい。猿ケ股の堤が切れて本所深川へんにどっと水が流れこみ、大変な災害になったことがございます。このときの堤防工事を栂屋はばかばかしく安い落札値で請け負い、そのかわり丸太を使わずに牛蒡の束を破損個所に押し込んで、千両もの利分を浮かしたとやら……」 「まあ、いやだ」  身をよじって宮路が笑い出した。 「丸太のかわりに牛蒡ですって? そんなことができるものでしょうか」 「まさかねえ」  誘われてつい、梅山もふくみ笑いを洩らしながら、 「しんじつ、牛蒡でごまかしたわけではありますまい。お代官のご検分もあるはずですし、おそらく目につきにくい所に粗悪な資材を使って、大幅に利潤を蹴出した、ということではございますまいか。ねえ?」  同意を求めるように絵島を見た。二階桟敷への段梯子をあがりながらの囁《ささや》き交しである。  舞台はちょうど所作事の最中らしい。にぎやかな唄や囃子が廊下にまで流れてくる。あとにつづく女中たちは一刻もはやく見物席に納まりたいのだろう、御年寄三人の足どりの悠長さを、じれったげに下から見上げて、 (はやく、はやく……)  中には足踏みしている者もいた。 「さあ、どうぞ、こちらでございます。なにせ小芝居ゆえ堺町、葺屋町、木挽町の小屋のようにはゆきかねますが、ご一統さまのお越しゆえ今日はせいぜい奮発いたさせまして、毛氈《もうせん》など新しいものに替えるよう申しつけました」  と二階には栂屋善六が先廻りしていて、絵島、宮路、梅山の順に正面桟敷へ案内した。いまのいま、御年寄らに陰口きかれていたことなど夢にも知らない。しきりに手を揉み、世辞笑いを満面にうかべて、敷居ぎわに平伏する座頭《ざがしら》・太夫元《たゆうもと》ら芝居関係者をいちいち三人に引き合わせた。  腰元たちは上の空で、めいめい我れがちに席を占めるあいだも、目はもう役者の動きに吸いつけられている。  百合も例外ではなかった。まだ奉公にあがらなかった時分、絵島に見せてもらった山村座での、生まれてはじめての歌舞伎狂言……。その記憶が、眼前の舞台と重なって百合をたちまち夢ごこちにさせた。  あのとき何を見たか。だれが何を演じたのか。今となってはほとんど朧《おぼろ》だが、父親を殺された不幸に負けずに、少年俳優の市川九蔵が二代目団十郎の名跡を継ぎ、初代譲りの荒事を元気いっぱい勤めた姿だけは、はっきり覚えている。 (今日もまた、見られるかしら……)  期待して、となりに坐った御次仲間のお勢以に訊くと、 「ばかねえ、大名題《おおなだい》の市川団十郎が、市ケ谷八幡の宮芝居になんぞ出るもんですか」  たちまち鼻先で嗤《わら》われてしまった。  お勢以に言わせると、神社仏閣の境内で興行しているいわゆる小芝居・宮芝居のたぐいは、ご府内だけでも二十七、八ヵ所に及ぶそうだ。 「元禄のはじめごろ一時、野天《のてん》での辻能や説経節、土偶操《でくあやつ》り、手妻、物真似などと十把ひとからげに、宮芝居もご停止《ちようじ》になったのよ。だけど雨後の筍ね。だんだんにまた、頭を出してきて、もう今じゃちょっと大きな社のそばに、歌舞伎役者の幟を見ないところはないくらいになったわ」 「むかしにもどったのね」 「小屋だって、ごらんなさい、常打ちの本建築……。そりゃあ山村座、中村座、市村座なんかにくらべればぐんと小さいけど、いっぱし二階桟敷はあるし、幕だって緞帳《どんちよう》じゃないわ。引き幕を使っているんだから豪勢でしょう」  とキョロキョロお勢以はあたりに目をくばる。なぜ引き幕の格が高く、緞帳が低いのか、百合にはさっぱりわからないが、うっかり質問したりするとまた嘲られそうなので、 「ふーん、たいしたものねえ」  ひたすらただ、感心してみせるほかなかった。  あれほど先に立って今日の観劇計画を推しすすめた張本人なのに、いざ小屋へついてみると御使番の藤枝はすこしも席に落ちついていず、あちこち栂屋善六と一緒に走り廻っていた。 「すぐさま、ご酒肴の用意を……。幕間《まくあい》には役者一同、ご挨拶にまかり出るように……。そのさい、絵島さまからくだされる纏頭《はな》のお取り次ぎは座頭どの、あなたがなされ」  のべつ、そんなことを言いながら立ったり坐ったり、忙しそうにしている。 「雑用は栂屋にまかせてはいかが? そのためにあの男が来ているのですし、楽しみにしていた芝居見物ではありませんか」  見かねて絵島が制止しても、 「いえいえ、せっかく御年寄さまがた打ち揃ってお出ましあそばしたのに、万にひとつ手落ちがあってはなりませぬ。わたくし自身の楽しみなどあと回しでございます」  と、首をふる。なるほどきけ者の評判にたがわぬまめまめしさ、誠実さなのであった。  これ見よがしに栂屋善六も酒席を取りもって世話焼き顔を印象づけているが、すでに梅山の口から、その素性はさらにくわしく、絵島や宮路の耳に語り分けられていた。 「なんでも下野《しもつけ》都賀《つが》郡の、栃木在大柿村とやらの名主だそうですわ。親ゆずりの田畑をおおかた博打で無くしたため故郷にいられず、身上《しんしよう》の立て直しをもくろんで江戸へ出て来たらしいのです」  姓は赤間——。栂屋の屋号は、郡名の都賀を当てたものだが、浅草の諏訪町に居をかまえて材木、薪炭、米などを扱う商人となり、内々は金貸しもしたようだ。 「それが当って、ぐんぐん店を拡げ、大名相手のお金御用達を勤めるほどになったあげく、ほら、ね? 先ほど申した猿ケ股の築堤工事で大きく儲けて、『牛蒡』の悪名を得たかわりに、いっぱし今では政商の仲間入りをはじめたそうですよ」  絵島への接近をはかるのも、大奥お出入りの利権を狙ったからにほかならないが、同じ目的で有力女中によしみを通じようとしている豪商たちは栂屋だけではなかった。  御用商人はおおむね、将軍の代替りごとに入れかわる。しかし先代家宣からその子家継将軍に大権が渡されたさいは、新将軍がまだ幼少だし、母公や補佐の側近、閣僚の顔ぶれなどに大きな変化がなかったため、商人どもの交替もおこなわれないまま今に至っている。  このなりゆきは、でも、 「こんどこそ割り込みたい」  と首をながくして代替りの機会を待っていた商人たちにすれば、はなはだしく不本意な結果だった。 「なんとかならぬか」  その願望から、手蔓をたより袖の下を使っての売りこみが、このところ熾烈をきわめていたのである。     八  彼らの目標は、言うまでもなく将軍家の生母月光院お喜代ノ方だが、実務をつかさどるのはご母公本人ではない。その下にいる女中たちだし、中でも大年寄の絵島は、実力や地位からいって、もっとも狙われる立場にあった。  一石《いつこく》橋をはさんで大邸宅をかまえる呉服商の後藤|縫殿助《ぬいのすけ》——。橋の東岸と西岸に二軒の後藤が向かい合って建つところから、五斗《ごと》と五斗、合わせて『一石橋』の橋名が付けられたとさえ言い伝えられている大商人すら、昨今は、 「ぼんやりしてはいられんぞ」  警戒を強めはじめている情勢なのだ。  神君家康このかた、呉服所の総束《たば》ねを仰せつかって、将軍の代替りがあろうとなかろうと、後藤家だけは安泰と自他ともに許してきたこれまでである。その楽観の上に、うかうかあぐらをかいていたら、割り込みを策して必死になっている新興の呉服商たちにいつ何どき足を掬われるか、わかったものではない。そこでにわかに、 「絵島さまに取り入れ」  とばかり、盆暮れの附け届けひとつにも念を入れだしたし、従来は番頭か手代で済ませた挨拶に、主人の縫殿助みずから羽織袴でまかり出るほど様相は変ってきていた。  絵島もじゅうぶん、自身を取り巻く状況を理解し、金品の授受には慎重な態度で臨んでいる。だが生来、些事《さじ》にこだわらない闊達な性格なので、 「大城お出入りの特権にあずかろうとしておたがい同士どのような暗闘を演じようと、それは商人たちのあいだでの話……。わたしらにはかかわりない外でのせめぎ合いではないか」  と見て超然ともしていた。  それでなくても大奥の女中たちは、日ごろから下されもの贈り物に馴れきって、よほど金目の品でないかぎり目見得以下の小者・婢《はした》すらありがたいとも思わなくなっている。出す金を惜しみはしないかわりに、貰う行為への潔癖感も鈍って、 「寄こして当り前……」  とする風潮の中に、だれもがどっぷり漬かりこんでいた。  絵島が商人どもの阿諛《あゆ》、追従、附け届けの裏に潜む魂胆を見ぬいて、 「つけ入らせまい」  と自戒したにしろ、その認識は一般社会のそれにくらべればやはり甘かった。まったくの特殊地帯——。江戸城大奥とは、そう呼んでよいところなのである。  綱吉将軍時代の放漫財政を引きつぎ、尻ぬぐいに四苦八苦させられた家宣が、新井白石らの緊縮政策を受け入れ、公儀支出の大幅な削減、冗費の徹底した切りつめを触れ出させたさなかですら、大奥はやはり別だった。 「むだ遣いはやめましょう。節約のご主旨に、わたくしどももできるかぎり添うようにしなければいけません」  と、女たちも言いはしたが、節約の規準がそもそも違うのである。「むだ遣い」の観念からして、男たちのそれとも、まして下《しも》ざまの考えとも大きく遊離していたのだ。  歴代将軍の治政下、これまでにも経済再建の必要が叫ばれるたびに、抱き合わせて倹約令の施行が実施にうつされ、武士たちの日常にも庶民生活にも、緊めつけの影響は少からず出たが、江戸城内の大奥だけは「どこ吹く風」の優雅さの中で、別天地の贅沢《ぜいたく》ぐらしを享受しつづけてきたのであった。  理想政治を推進するためにあらゆる障害を眼中に入れず、どれほどの反論も押し切ってかかる強引さゆえに、『鬼』の異名をたてまつられている白石すら、大奥の伝統的な壁の厚さには手が出せなかった。  ことさら家宣将軍の後宮が華美だったわけではない。むしろ逆である。『正徳の治』を反映して、御台所にしろ側室たちにしろ、そのあけくれは歴代の中ではつつましやかなほうだったが、それでもやはり、大奥というところはすべての桁《けた》が違っていた。  婢《はした》たちが使う『せんぞく』と呼ぶ藁草履《わらぞうり》……。粗末な作りではあるけれど、名の通り千足もの量を一日こっきりで履き捨てにするし、調味用の鰹節なども良いところを五、六ぺん削ればそれでもう、廃棄してしまう。お上の口に入る米は、一斗の中から虫眼鏡で一粒選りに一合ほど選り出して、これも残余はご用済み——と言っても、さすがに鰹節や米までを捨ててしまうわけではない。台所役人の余得になるのである。  これらはしかし、なかば公認されている行為で、だからこそ彼らは薄給に甘んじてもいたのだ。もし、灯火燭台などを扱うお坊主の家に、親、子、孫、三代がかりでも使い切れないほどの蝋燭が樽詰めされて保管してあるというような事実を、やかましくあなぐり立てるとなると、零細な扶持米でやりくりしている下級役人たちの給与体系までを、根本から手直ししなければならない騒ぎすら起こりかねない。  口でいくら節倹を説いたところで、将軍や御台所が鰹節の削り方、藁草履の破れ具合にまで目をくばるわけではないし、結局、目にあまるむだ遣いは大奥なり中奥なりで、直接その任に当る女たちやお坊主、諸役人の内部告発でもないかぎり改善は不可能なのだ。  余得を当てにしている彼らにすれば、でも節約で、勤めのうま味を失うのはまっぴらであろう。上女中たちにしても同様、いまさら肌になじんだ絹物をやめて、ごわごわした木綿になど切り替えるのは気が進まない。陰に陽に抵抗するから、いつの場合も大奥だけは治外法権の形で温存されつづけてしまうのである。  家宣、家継の時代は、まして元禄の華美からいくらもたっていないから万事が大まかだし、潤沢の余風に馴れていた。  日用品の、莫大な消費量——。 「質素を宗《むね》とする」  と言ったところで、要る物は要るのだから、商人たちにすれば是が非でも品物の納入を請け負いたい極上々の客筋にちがいない。割り込み競争に火花を散らすのは当然なのであった。  ちやほやされるくらしの中で、絵島たち上級女中の心情にも知らず知らず、驕りが芽生えはじめていた。家継がまだ、先代将軍の公子の一人にすぎなかったころは、 (なんとかして鍋松ぎみにお世継ぎの座が恵まれぬものか。お喜代ノ方さまを次期将軍家のご母公と仰げるようになれたら、どんなにうれしいか)  その執念の達成に結束もし、気を労してもきたのだが、二つの大望が二つながらかなえられてみると、 (ああ、よかった!)  まさか今こそ、我が世の春と浮かれはしないまでも、緊張はしぜん解けて、 (もう、これで安心……)  とする満ちたりた思いに、だれもが浸《ひた》されていたのは否《いな》めなかったのである。  つまりは油断だった。仕える幼君とその生母が揃って最高の顕位に昇りつめた以上、もはや上を越す地位はないのだから、 (勝負は終った。みごと勝ってのけたのだ)  と月光院派の女中たちが凱歌をあげたにしても、あながちに状況把握の足りなさを責めるわけにはいかないが、はたしてしんじつ、けりはついたのか。  はやばやと勝利の美酒に酔い痴れ、 (すでに敵なし)  と判断してよいものかどうか。  その戒心を忘れて、いささかいい気になっていた足許に、目に見えぬ落とし穴がこっそり掘られだしたと言えなくもない。  栂屋善六の件にしてもそうだ。不正入札と手抜き工事で財をなした男、好ましからぬ人物と承知しながら、きっぱり介入をはねつけなかったのも、 「芝居見物の手配ぐらいさせたって、どうということはないでしょう。ねえ宮路さま」 「そうですとも。びた一文、栂屋に出させたわけではなし、自分から願って出た手伝いなのですからね」 「だいたい舎弟がいけないのです。わたくしどもお城ぐらしの者には桟敷や弁当の注文などできません。代ってするよう申しつけたのに、横着して栂屋に委せてしまったのですから……」 「やりたがっているなら、やらせればよいのですよ。ごらんあそばせ絵島さま、『牛蒡の善六』が、ほら牛蒡の煮しめでしょうか、錦手《にしきで》の大皿を目八分《めはちぶ》に捧げて、すり足でこちらへやって来ますわ」  と、これも江戸者の思慮の浅さか、宮路の目くばせに、梅山まで口を抑えて笑いこける。  絵島の誤算は、 (弟の豊島平八郎に、前もって金は渡してある。今日の入費は、すべてその内から賄われているはず……)  そう信じこんでいた点にあった。     九  たしかに姉の絵島から、充分すぎるほどの金子《きんす》を豊島平八郎は受け取っていた。それなのに、芝居見物の企てを嗅ぎつけた栂屋善六が、 「ぜひ、手前どもに、ひと肌ぬがさせて頂きとうぞんじますな」  申し入れて来たのをよいことに、 「では、やってくれ。むだ鉄砲にならぬようお前さんの働きは、おれからもしっかり姉貴に伝えておくよ」  うれしがらせで釣って肩代りさせ、預かっていた費用を全額、着服してしまったのである。  絵島はこの事実を知らなかったし、栂屋は栂屋で、自分の骨折りは、 (支出のいっさいを引き受けたことまで含めて、逐一、豊島の旦那の口から絵島さまのお耳に達しているもの……)  と思いこんでいたのだ。  大奥への米穀の納入をもくろんで、ご用達商の中へなんとか割り込もうと腐心している栂屋善六にすれば、頭かずこそ二、三十人に及ぶ女中たちにせよ、たかが宮芝居の入用ぐらい安い出費だった。 (博打好きのぐうたら御家人……。しかもどうやら家庭内は乱脈。金にも詰まっているらしい) と当主の人柄、豊島家の内情までを見抜いて、 「今後とも、どうかよろしくお口添えねがいます。これはほんのお近づきのしるし……」  氷砂糖の箱の中に潜ませるほどの手間さえかけず、現金で謝礼まで包んで渡しもしたが、 「や、すまんな」  平八郎は当然な顔でふところへ入れてしまった。姉と栂屋——。双方から金をせしめて何くわぬ顔でいたのである。  市ケ谷八幡の小屋は坂東梅之丞座といい、幕間《まくあい》には座頭の梅之丞に、中村清五郎と名乗る五十がらみの狂言作者が附きそってうやうやしく挨拶言上にまかり出た。  出しものは所作事の『傾城《けいせい》花見車』に、『中将姫|京雛形《きようひながた》』と名づける清五郎作の時代狂言だが、百合やお勢以ら若い腰元たちばかりでなく、宮路、梅山、絵島など御年寄連中までを堪能《たんのう》させたほど、そのどちらもがおもしろかった。 「そうなのですよ絵島さま、かえって小芝居の役者衆にびっくりするような芸達者がおりますし、狂言にも大きな小屋ではめったに演じられない珍しいものや、新作などがかかりますのでね、見巧者にはよろこばれているようでございます」  とは、芝居|通《つう》の藤枝のしたり顔な解説だが、中でも宮路が気に入ったのは二枚目立役の皆川初之助という美男で、 「なんとまあ、好いたらしい……」  桟敷へ呼び寄せ、 「盃をとらせよう」  と手を握って頬ずりせんばかりな惚れこみようだった。初之助もせいいっぱいな媚を見せて宮路の膝へしなだれかかり、それをまた、 「きれいな衿あしだこと。匂うようじゃないか」  抱きしめまでしたのは、酔余の戯《ざ》れごととはいえ、いささか身分に差し障りかねない狂態だったが、絵島が酔い、梅山まで陶然としかけていたから、 「布にでも包んで土産に持って帰られてはいかが? 宮路さま」 「月光院さまの御前で踊らせたら、よいお慰みになりますよ」  たしなめるどころか、これも笑ってけしかける始末であった。 「次はいつ、お出ましになれるかわかりません。そんなに初之助が御意にかなったのなら……ね? 栂屋さん」  藤枝一人はまじめに受けて意味ありげなめくばせを善六に投げる……。 「さようでござりますとも」  すぐ呑みこんで、善六も小声になった。 「茶屋にご休息の間《ま》を用意させます。役者などというものはどうせ売りもの買いもの、宮路さまばかりでなく、絵島さま梅山さまもご遠慮なくお気に召した相手があれば、お申しつけくださりませ」  さすがに耳たぶを赧《あか》くして、 「冗談ですよ」  宮路は初之助の肩を押しやったが、わざと大仰に腰元どもの席に転げこむのを、 「きゃッ、嫌ッ」 「痛いッ」  くちぐちに騒ぎ立てて突きのけたりするのも、ひさびさに芝居小屋へ足を踏み入れた興奮と、華やかな周囲の雰囲気、口にした酒精の作用に浮かされてのことだろう。  それやこれや、つまり言えばこの日の観劇は大成功だったわけだから、 「ごくろうでした。そなたの如才ない取りもちのおかげで、一同、けっこうな骨休めができましたよ」  立ちぎわに絵島は、栂屋善六をねぎらった。軽い、ただそれだけの気持を、絵島にすれば言葉にしたにすぎない。でも善六は、彼自身の思い込みに立って絵島のこの慰藉に、彼なりの手ごたえを感じたらしい。 「ご会釈《えしやく》など、もったいない」  劣らぬ満足げなおももちで幾度もぺこぺこ頭をさげた。 「なかなか粋《いき》なおかたではありますけれど、なんといっても豊島の旦那は二本差したご幕臣。やはり餅は餅屋と申しますでな、これからもどうぞお気散じのご用命は、どしどし手前に仰せつけ給わりますよう……。芝居、花見、なにごとであれ、粉骨砕身、お役に立たせていただく気組みでございます」  だからといって、この上『牛蒡の善六』などと異称されている奸商に、何ごとにせよ依頼する気は絵島にはなかった。ただ、 「酒席の周旋をさせれば腰が低く口も面白い重宝な男……。どんな人間にもどこかしら取《と》り柄《え》はあるものですね」  とは帰路、梅山にささやいて、 「おっしゃる通りですわ」  笑い合ったのだが、善六ともども木戸口まで一行を送って出た芝居関係者の中には、たとえば狂言作者の中村清五郎のように、 「痛し痒《かゆ》しというやつだね、座頭《ざがしら》」  坂東梅之丞相手にそっと懸念を表明してみせた者もいた。 「黙って練っていてさえ人目を引く大城のお女中衆だ。ま、大名旗本の奥勤めが、せいぜい四、五人どまりの小人数で立ち寄るぶんにはさほど目立たないよ。だけど、ねえ、今日のご一行さまは賑やかだったねえ」 「土間の見物なんか、二階正面ばかりきょろきょろ見あげてましたぜ」 「役者は気が散る。ちっとも舞台に身《み》がはいらなかったじゃないか」 「でも、大奥の御年寄が配下の女役人を引きつれて、たとえお忍びででもわたしらの一座にお越しくださるなんて、仲間うちに鼻が高うござんすよ。纏頭《はな》だって師匠、たんまり頂戴しましたしね」  と梅之丞は笑った。 「鼻と纏頭。きわどく洒落《しやれ》たね」 「へへへへ」 「わたしゃね、そのお忍びってやつがうす気味わるいんだよ。月光院さまにしろどなたにしろ、お女中衆はみな、お仕えするご主人のお許しを得て芝居小屋にお立ち寄りになるのだろうけど、どこまでもお目こぼし、見て見ぬふりの息抜きだろ?」 「そりゃ、そうでしょ。宿さがりのとき一人で好きに見るのは勝手でしょうが、ご代参やお使者の帰りというのでは、表向きにはできない隠しごとです」 「だからあんまり派手に浮かれてもらいたくないのさ。目に余る、それ、お叱りだなんてことになってごらん、当のお女中がたを差し置いてまず槍玉に上げられるのはわれわれ芝居者、役者たちのほうだよ」 「まったくです。いざというときはかならず、弱い者がまっ先にやられます」 「宮路さまかい? だいぶ初之助にのぼせてたようだね」 「釘をさしておきましょう。ご贔屓あっての稼業にしろ、相手が相手ですからね」 「あの人はいくつぐらいだろう」 「さてね、御殿女中ってのはみな、厚塗りの若作りだから、ちょっと見当がつきかねるけど、梅山さま宮路さま、お二人ながら二十五、六じゃありませんかね」 「中ではいちばん年嵩の絵島さまだって、せいぜい三十そこそこだね」 「一つ二つ、やっと越したってとこでしょうな」 「やれ御中臈《おちゆうろう》だ御年寄だ、ご右筆だなどと反っていても、裲襠《うちかけ》の一皮下は娘っこに毛がはえたぐらいの世間知らずな女たちなんだ。ふだん籠の鳥だけに、たまの外出にはつい、羽目もはずれようさ。そんな手合いに慰まれて、もし巻き添えの厄になんぞ遭ったら割りに合わないからね」 「まあ、わたしらんとこなんぞ、そうちょくちょくお見えになることはありますまいが、月光院さまが雑司ケ谷の鬼子母神をご信心あそばしているとなると……」 「味をしめて、これからはご代参のつど、帰りがけに寄ってゆくかもしれない。道すじだからな。それに牛蒡の善六なんてうさん臭い男が勧進元を引き受けてもいるようだし、どっちみち用心するに越したことはないよ座頭」  とは、さすがに苦労人らしい目のつけどころであった。     十  たしかに坂東梅之丞座を見物してからこっち、月光院附きの女中たちのあいだには流行病《はやりやまい》さながら芝居熱がはびこりはじめた。それでなくても彼女たちの唯一最大の娯楽は宿さがりを待ちかねての芝居見物なのに、どこで仕入れてくるのか、御使番の藤枝が、 「七月の森田座はね、心中|村千鳥《むらちどり》ですって……。山村長太夫座は仏力《ぶつりき》難波池《なにわがいけ》よ。百合さん、あんたの好きな団十郎が出るわ」  しきりに年のいかない腰元連中の浮かれ心をそそるようなことばかり言うのである。 「好きだなんて嘘よ。そんなお喋り、だれがしたの?」 「お勢以さん」 「嘘ですったら……。二代目襲名のときの舞台を見たことがあるって、お勢以さんに話しただけですわ」 「ほほほ、むきになってる。いいじゃないの、好きな役者ぐらいいたって……。顔見世の顔触れもはやばやと決まったらしいわよ。木挽町の中村勘三郎座にはね、みなさん、大坂から芳沢あやめがくだってくるんですとさ」 「わあ、あやめが?」  噂だけで若い女中たちの目はかがやく。 「お江戸には初くだりでしょ?」 「そうよ。きれいですってねえ。女にもちょっとない美人だそうだわ。きっと太夫元はたいそうもない給金で呼んだのよ」 「ねえねえ、藤枝さん、山村座の顔見世にはだれたちが出るの?」 「これがまた凄いの。生島新五郎、富沢半三郎、早川伝五郎」 「わあ、生島新五郎?」  どよめくのは、当代一と折り紙つきの人気俳優だからである。見たことのない百合には、しかし周囲の騒ぎもぴんと来ない。 「ね、狂言は何かしら、藤枝さん」 「磊那須野両柱《さざれいしなすののふたはしら》らしいわ」 「じゃ新五郎の役はきっと三浦之助よ」 「半三郎は美濃の次郎」  筋を承知している朋輩たちが役々を当てるのを、黙って脇で聞くだけだが、藤枝はそんな百合を流し目に見て、 「団十郎も出るわよ百合さん。たぶん成田屋は上総之介《かずさのすけ》だと思うわ」  と、からかい口調をやめない。しんじつ好きでもないのに、 「へええ、百合さんのご贔屓は団十郎? ものずきねえ」 「そうよ、まだ芸は未熟だし、顔だって、ねえ、生島新五郎なんぞと較べたら月とすっぽんよねえ」  こきおろされると、自分でもおかしいほど百合は頬がほてってきて、意地にでも二代目団十郎の肩持ちをしたくなる。 「ああ、見たいわ、お芝居が……」  やるせなげに一人が身悶えると、渇《かわ》きはすぐ、座にいる者ぜんぶに伝染して、 「このあいだの梅之丞座だっていいわ。けっこう男ぶりのいい役者がいたもの。宮路さまとほら、扇子を取り替えっこした皆川初之助なんか、水が垂れそうだったわねえ」 「嫉いてるの? あなた」 「嫉いてなどいないけど、わたしも初之助の扇子が貰いたかった。宮路さまお一人で、よい思いをなすったのが癪だわ」 「とにかく藤枝さんがいけないのよ。そそるようなことばかりおっしゃるんですもの。何とか御年寄がたにあなたから願って出て、またお芝居が見られるよう取り計ってくださいよ」  くちぐちにせがむが、おいそれとは外出の口実など作れるものでもない。天下晴れての観劇なら宿さがりの日まで待たなければならなかったのである。 「待ち遠しい」 「早く来年の花見どきがこないかなあ」  とは、腰元たちの口癖だったが、上級女中の宿さがりは三月と決まってはいなかった。むしろ秋の終りに多い。絵島の宿さがりも、今年は九月に許された。でも、この月、劇場はどこも休演している。かくべつ芝居に執着しているわけではないので、 「ゆっくり羽根をのばしておいで」  月光院のねぎらいに感謝しながら絵島はいそいそ、宿元に決めてある兄の白井平右衛門宅へ帰った。 (やっと、だれにも気がねせずに彦四郎さまにお目にかかれる)  なによりも、それこそが心の弾みになっていたし、今度の宿さがりを絵島が待ちわびた理由もそこにあったのである。  藤枝を介し、児玉主馬を介して時おり書状のやりとりはしていた。寺で二度、会いもしている。平田家の菩提所律成院では、つれだって亡きお艶の新墓にも詣でたが、おたがいに手ひとつ握り合ったわけではなかった。  寺の庫裏や客殿など、仏前で焚く香の薫りが冷んやり流れてくる環境では、おのずと居ずまいが崩せなかったし、どんなに情が激してもいつ何どき、雛僧《すうそう》が茶を替えに入ってこまいものでもないと思うと、膝にすがって泣くことすら憚《はばか》られたのだ。  書状の往復にしても同様、もはや姻戚としてのつながりが切れてしまっているのに、お艶の父の名でしげしげ絵島宛てに音信がもたらされるのは不自然だった。  平田伊右衛門は実際には、病死した娘の顔面に火傷の痕があるのを見て、豊島平八郎の仕打ちに腹を立てた。すでにお艶の生存中から小間使の雪に手を出し、子まで生ませていたのを、にがにがしく思っていたやさきだから、ただちに孫の吉十郎を手許へ引き取り、本来なら豊島家の墓に入るべきお艶の骨《こつ》までを取りもどして、律成院へ埋葬してしまったのである。  倅の彦四郎に似て温和な性格だし、たとえ平八郎に含むところがあったにせよ、それを絵島にまで射向けてくるような老人ではない。姉弟とはいっても、血のつながりがないことは知っていたから、以前はともあれ、今ではむしろ絵島には厚意を抱いて、 「小姑風《こじゆうとかぜ》など少しも吹かさず、生前、お艶に何かとやさしくしてくれたのは美喜どのだけじゃった」  と、述懐すらしているという。  絵島の側もまた、丁重な悔《くや》みの状に、心からな詫びの言葉を添えて平田伊右衛門に贈りもしたが、だからといって今なお、時候見舞のやりとりをしつづけるほど親しい間柄ではなかった。 「大丈夫。児玉主馬にはよく呑みこませてあります。当方から出す手紙の主《ぬし》は、じつは拙者だとも打ちあけてあるのです」  姉婿《あねむこ》の人柄をよほど信用しているのだろう、彦四郎は太鼓判を押すような口ぶりで言うけれども、 (万一、あの律義《りちぎ》な伊右衛門どのが、自身の名をダシに使われていると知ったら……)  息子の所業にしろ、よい感じは持つまいと思うと、やはり絵島には気がかりで、出したい便りもつい控え目になってしまう。 (宿元へもどりさえすれば、いっさい、そうした気がね気づかいなしに、彦四郎さまと自由に逢える)  それをたのしみに帰宅したのに、兄の屋敷にはさまざまな種類の人間が先廻りして詰めかけていて、絵島の休暇を妨げた。  利権への下心から接近をはかる商人、幼将軍と月光院に阿《おもね》って側近にいる絵島にまでよしみを通じようとする幕臣、こぼれ幸《ざいわ》いにあずかるべく世辞を言いにやってくる縁者や知人などなど……。しかも彼らは十人が十人、 「坊ちゃまへ……」  と手土産の包みを差し出す。おかげで佳寿一人はこのところ有頂天だが、 「煩わしくてかなわん。物など受け取るな」  社交嫌いな白井平右衛門は眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を寄せ通しだった。 (上巻 了)